【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第6号【蓮田善明】

2014年04月23日 01時42分15秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」


NPO法人 くまもと文化振興会
2014年3月15日発行

《はじめての蓮田善明》

〈末期の眼〉の作家
                        
永田満徳
  
はじめに

蓮田善明。この文学者のことを、どれだけの人が真の姿を理解できるだろうか。文学に明るい人でも、戦時中の超ナショナリストというレッテルのもとで理解しているのではないか。本当の理解者は蓮田を師と仰ぎ、蓮田の死をなぞって自決したノーベル賞候補作家三島由紀夫くらいであろう。一定の見方からは本当の作家像を捉えられないのも事実である。あの異常ですらあった戦時下の雰囲気の中に蓮田の文章を置いてみるとき、国文学の精髄を啓発しようとする一途な姿勢に〈信仰告白〉にも似た純真な美しさを読み取ることができる。

一 いかに「死ぬ」かという問題

明治三十七年七月二十八日に熊本県の元鹿本郡植木町の金蓮寺住職の三男として生まれ、熊本県立中学済々黌に入学した頃から文学に親しむこととなる。弱冠十七歳の時、回覧雑誌に「人は死ぬものである」という題の詩を発表して、早くも「死」の問題を直視し、その解決に苦慮している。
「人生とは何ぞや」 よりも「如何に生くべきか」の問題である。「如何に生くべきか」の解決は「如何に死すべきか」を解決し得る所に生るゝ結果である。                 「護謨樹」26号(大9・9)
「如何に生くべきか」と「如何に死すべきか」の二律背反する課題は本質的に表裏一体のものである。いかに「死ぬ」かという問題を除外しては、いかに「生きる」かという問題はありえなかった。それは、蓮田が生きなければならなかった戦時体制という特殊な時代が強いた人間の存在様式の一つであった。

二 死ぬことが文化

蓮田は、十五年戦争のさなかに二度召集を受けて出兵し、二度目の時終戦を迎えるが、ついに日本の土を踏むことはなかった。初めて戦場へ赴くとき、「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」と言って微笑んだというが、その戦争の体験後書かれた小説『有心』や書簡などを見れば、戦場はむしろ生の充実を確かめさせ、しかも文学と関わることのできる〈時と処〉を与えてくれる場所であった。
戦争の惨劇を知っている戦後の人間にとっては推測しがたいこのような戦争観を理解するには、塹壕の中から寄せられたいくつかの短章(「詩のための雑感」『文芸文化』昭14・6月号)にあたってみることである。

○命令は既に「死ね」との道である。死ねと命ずるものは又己を「花」たらしめるものである。唯一片の花たれ――何たる厳粛ぞ。何たる詩ぞ。
○弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。究極の冷厳、自然そのもの。
○「死ね」の声きく彼方こそ詩である。

この短章には、戦場であればこそ、蓮田特有の「死」と「芸術」の課題を不即不離の関係でつかむことのできた証しが示されている。それは、後の画期的な論文『大津皇子論』の「此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知つてゐる」という宣言に結実する。この論文で注目したいのは、日常化された臨戦体制下の「死」を「芸術」と定義づけて、〈死〉への道を自分に課していることである。くしくも三島由紀夫の「死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることのできない」(『蓮田善明とその死』序文)と述べている言葉に代表される呪縛的な魅力を持っていた。
この〈死は文化だ〉とする思想の確立によって、蓮田はあの青少年期に苦慮していた「死」の課題を「芸術」と結びつけることによってもののみごとに解決してみせた。そして、国文学研究を通して探りあてたこの思想は、第一次応召時に書かれた『陣中日記』『陣中詩集』に生かされている。

三 〈末期の眼〉による作品

ただここで説明を要するのは、〈死は文化だ〉という決意そのものが実際の作品を書く場合、どういう態度を導くことになったかということである。〈死もて文化を書く〉ことを片時も忘れずに戦場を駆けずり回っている蓮田のまぶたには恐らく、

弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。

という、いわゆる今際の際に宿るとされる〈末期の眼〉を通してみられる瞬間の映像が「詩」として夢見られていたにちがいない。つまり、「死」=「芸術」の等式は、この〈末期の眼〉の獲得によって初めて具体的な文学作品を生み出すことができるようになる。例えば、

独りねておのれと見れば
ともしびにわが身を照らし
いのちなるかも
足かげを壁にうつして
虫けらの蟲の音をきく

『陣中詩集』の「偶詩」というこの作品には、昼間のあいだに研ぎ澄まされて鋭くなった〈いのち〉に対する自覚=末期の眼が表現されている。この意識を抜きにしては、蓮田の兵舎での孤独感を理解することができないし、「夜光時計」「こほろぎ」、「病院にて」の蝋燭の跡などに寄せる蓮田の繊細な愛着心の表れを読み取ることもできないだろう。また、『陣中日記』の場合、日を置かず〈遺書〉に等しい気持ちで書き込まれていることから、末期の眼という視界に捉えられるもののすべてを描き尽くそうとしたとみていい。
このように見てくると、蓮田の代表作『陣中日記』『陣中詩集』は、「死」こそ「芸術」だと覚悟したものの〈末期の眼〉を通してみた〈陣中〉=戦場のルポルタージュであった。全生命力をかけた末期の眼による稀有な作品を残した作家である。

おわりに

蓮田善明は、昭和二十年八月十九日、敗戦を中隊長(中尉)として迎えての四日後、応召先のマレー半島ジョホールバルで、ピストルを顳に当てて自裁を遂げる。その時、痙攣する左手に握り締めていたものは、「日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文面の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。まさしく憂国の士としての自決だった。これは蓮田の自決が「生」と「死」の相克を完結したものと思われる。そういう意味で、三島由紀夫が『私の遍歴時代』の中で「蓮田氏はのちに、敗戦と共に自決によつてその思想を貫き通した」と指摘しているのは至言である。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)



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