■集団就職列車で運ばれた「金の卵」
前夜、東北各地から乗車して不安げな若者たちを満載した<集団就職列車>が上野駅に到着すると、プラカードを持った企業の担当者や職員が彼らを迎えます。映画『三丁目の夕日』で青森から集団就職でやってきた堀北真希が扮する女生徒・星野六子を、上野まで迎えにきた自転車修理工場の店主との初対面シーンが現実的に再現されていました(⇒この映画では、六子の希望する「自動車修理工場」と間違ってひと騒動ありました)。
集団就職してきた若者の大半は当初説明された「立派な社屋」とは異なり、実際に働かされたのは小さくて汚い工場であったり、その2階での住込みなどの現実でした。条件とは異なる過酷な労働環境。でもその職場が気に入らないからと「逃げたい」と思って飛び出したとしても、中卒者として採用してくれる企業は皆無に等しい。本来やりたい仕事があったとしても、学歴がないことから落とされる。やがて待っているのは度重なる転職と放浪の生活です。
公共職業安定所(現:ハローワーク)からも農村や地方の中学校に求人を出していたのですが、求人倍率も3・3倍前後と人手不足でした。職種としてはブルーカラー(製造業など)やサービス業(商店や飲食店など)での単純労働が主な仕事内容でした。<男子中卒労働者>の統計結果によると「工員」が過半数を占め、次に多いのは「職人」続いて「店員」の順でした。<女子中卒労働者>は「工員」が4割と最多、次に「店員」で続いて「事務員」の順で多かったのです。
ほとんどが労働組合のない京浜工業地帯等の中小零細企業だったため、雇用条件や作業環境もかなり厳しく離職者も多かったようです。様々な理由から勤続後の独立開業が困難であったことから、戦前のいわゆる「丁稚」よりも厳しい環境だったともいわれています。
地方から出てきて都会に就職した若者のなかには高校へ進学できなかったことや、社会の下積みとして働かされていることへの劣等感を持っている者も多いようです。こういった若年の労働者は、「将来性が高い」という意味と「安い給料で雇える」という意味から「金の卵」と呼ばれてもてはやされたのですが、「金の卵」とは、あくまでも企業側の論理であって「若い安価な労働力」。それが「金の卵」の実体であって企業の利潤追求には欠かせないものとしてあったのですが、高度経済成長期の労働力となった若者たちの「時代の象徴的」な意味あいがあります。
■都会の「若年労働者」不足
<集団就職>が60年代に集中した背景には、都会における別の課題がありました。それは、東京都の高校進学率が1951年(昭和26年)に51%に達していたのに対し、東北・青森県を例にとると同県の高校進学率が51%に達したのは63年(昭和38年)で、ここに12年の格差がありました。つまり、東京都の高校進学率が過半数を超えて急上昇しており、都会では教育熱心で「学歴インフレ」が進んでいたことから、「若年労働者」が不足していたわけです。
そこで、中学卒業後に就職者が多かった東北や九州などの地方に求人募集の的を絞り、中卒者の求人倍率は1952年(昭和27年)に1倍を超えて、団塊の世代が中学校を卒業した1963年~65年(昭和38年~40年)には、男子・女子とも求人倍率は3倍を超えていました。
1960年代からの21年間で、集団就職列車に乗った70%以上が東北地方と九州地方の中卒者でした。集団就職によって都会へ出た中卒者の就職先は中小・零細企業が多かったのは、都市の大企業は自宅から通える若者を優先的に採用したことによります。それは住宅を用意する必要がないし管理も容易だったからです。しかし、次第に都市部では進学率も上昇し、大企業も年少者を積極的に採用するようになって深刻な人手不足が進行していました。
■集団就職の終焉
しかし、年月が経て経済の成長とともに、ひとつの職場で働き続ける以外に別の就業の可能性が増えてきました。集団就職者の転職や離職が目立ち始め、「就職から3年」で半数が職業を変えているとの調査資料があります。
それまでは、「集団求人方式」は通常の雇用に比べ離職率が低いといわれていましたが、別の就業の可能性が増えてきたことで、これまでの集団求人のメリットが薄らいできたのです。「金の卵」ともてはやされた若者たちも「自分たちは企業の都合のいいように使われるだけの低賃金労働者として雇われていた」のだと気付き始め、彼らを職場に縛っておくだけの理由がなくなったわけです。
1970年代に入ると日本の産業構造が大きく変化していきます。急速に進む高度経済成長の代表的な職場は、女性では繊維工場、男性では住込みの店員や零細工場でした。しかし経済の発展のなかで大工場は機械化が進み、零細な商店や工場は家族経営に切り換えるという二極化が進んでいきます。地方から若者が大挙して都会に就職先を求めるという必然性は消えていき、企業の生産調整が行われ中卒者の採用延期が増えてきたのです。
義務教育のみしか終了していない中卒者を送り出す側の事情として何があったのでしょうか。生計が苦しく高校などに進学させる余裕がない世帯が多く、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが保護者にも学校側にも存在しました。こうした状況のなかで中学校も企業の求人を生徒に斡旋して「集団就職」として送り出したのですが、やがて農村の余剰人口は枯渇し始めます。企業もまた高度経済成長の終わりを意識しはじめ、「金の卵」であった中卒者の希少性は薄らぎ、1975年(昭和50年)3月末の<集団就職列車>が最後となっています。
ただ、この21年間に<集団就職列車>に乗って都会へ出ていった若者は、「金の卵」の固い殻をうまく破ることができたのでしょうか。その後、どこへ行ったのでしょうか?
⇒<第3章>へ続く。
前夜、東北各地から乗車して不安げな若者たちを満載した<集団就職列車>が上野駅に到着すると、プラカードを持った企業の担当者や職員が彼らを迎えます。映画『三丁目の夕日』で青森から集団就職でやってきた堀北真希が扮する女生徒・星野六子を、上野まで迎えにきた自転車修理工場の店主との初対面シーンが現実的に再現されていました(⇒この映画では、六子の希望する「自動車修理工場」と間違ってひと騒動ありました)。
集団就職してきた若者の大半は当初説明された「立派な社屋」とは異なり、実際に働かされたのは小さくて汚い工場であったり、その2階での住込みなどの現実でした。条件とは異なる過酷な労働環境。でもその職場が気に入らないからと「逃げたい」と思って飛び出したとしても、中卒者として採用してくれる企業は皆無に等しい。本来やりたい仕事があったとしても、学歴がないことから落とされる。やがて待っているのは度重なる転職と放浪の生活です。
公共職業安定所(現:ハローワーク)からも農村や地方の中学校に求人を出していたのですが、求人倍率も3・3倍前後と人手不足でした。職種としてはブルーカラー(製造業など)やサービス業(商店や飲食店など)での単純労働が主な仕事内容でした。<男子中卒労働者>の統計結果によると「工員」が過半数を占め、次に多いのは「職人」続いて「店員」の順でした。<女子中卒労働者>は「工員」が4割と最多、次に「店員」で続いて「事務員」の順で多かったのです。
ほとんどが労働組合のない京浜工業地帯等の中小零細企業だったため、雇用条件や作業環境もかなり厳しく離職者も多かったようです。様々な理由から勤続後の独立開業が困難であったことから、戦前のいわゆる「丁稚」よりも厳しい環境だったともいわれています。
地方から出てきて都会に就職した若者のなかには高校へ進学できなかったことや、社会の下積みとして働かされていることへの劣等感を持っている者も多いようです。こういった若年の労働者は、「将来性が高い」という意味と「安い給料で雇える」という意味から「金の卵」と呼ばれてもてはやされたのですが、「金の卵」とは、あくまでも企業側の論理であって「若い安価な労働力」。それが「金の卵」の実体であって企業の利潤追求には欠かせないものとしてあったのですが、高度経済成長期の労働力となった若者たちの「時代の象徴的」な意味あいがあります。
■都会の「若年労働者」不足
<集団就職>が60年代に集中した背景には、都会における別の課題がありました。それは、東京都の高校進学率が1951年(昭和26年)に51%に達していたのに対し、東北・青森県を例にとると同県の高校進学率が51%に達したのは63年(昭和38年)で、ここに12年の格差がありました。つまり、東京都の高校進学率が過半数を超えて急上昇しており、都会では教育熱心で「学歴インフレ」が進んでいたことから、「若年労働者」が不足していたわけです。
そこで、中学卒業後に就職者が多かった東北や九州などの地方に求人募集の的を絞り、中卒者の求人倍率は1952年(昭和27年)に1倍を超えて、団塊の世代が中学校を卒業した1963年~65年(昭和38年~40年)には、男子・女子とも求人倍率は3倍を超えていました。
1960年代からの21年間で、集団就職列車に乗った70%以上が東北地方と九州地方の中卒者でした。集団就職によって都会へ出た中卒者の就職先は中小・零細企業が多かったのは、都市の大企業は自宅から通える若者を優先的に採用したことによります。それは住宅を用意する必要がないし管理も容易だったからです。しかし、次第に都市部では進学率も上昇し、大企業も年少者を積極的に採用するようになって深刻な人手不足が進行していました。
■集団就職の終焉
しかし、年月が経て経済の成長とともに、ひとつの職場で働き続ける以外に別の就業の可能性が増えてきました。集団就職者の転職や離職が目立ち始め、「就職から3年」で半数が職業を変えているとの調査資料があります。
それまでは、「集団求人方式」は通常の雇用に比べ離職率が低いといわれていましたが、別の就業の可能性が増えてきたことで、これまでの集団求人のメリットが薄らいできたのです。「金の卵」ともてはやされた若者たちも「自分たちは企業の都合のいいように使われるだけの低賃金労働者として雇われていた」のだと気付き始め、彼らを職場に縛っておくだけの理由がなくなったわけです。
1970年代に入ると日本の産業構造が大きく変化していきます。急速に進む高度経済成長の代表的な職場は、女性では繊維工場、男性では住込みの店員や零細工場でした。しかし経済の発展のなかで大工場は機械化が進み、零細な商店や工場は家族経営に切り換えるという二極化が進んでいきます。地方から若者が大挙して都会に就職先を求めるという必然性は消えていき、企業の生産調整が行われ中卒者の採用延期が増えてきたのです。
義務教育のみしか終了していない中卒者を送り出す側の事情として何があったのでしょうか。生計が苦しく高校などに進学させる余裕がない世帯が多く、子供が都会の企業に就職することで経済的にも自立することを期待して、都市部の企業に積極的に就職させようとする考えが保護者にも学校側にも存在しました。こうした状況のなかで中学校も企業の求人を生徒に斡旋して「集団就職」として送り出したのですが、やがて農村の余剰人口は枯渇し始めます。企業もまた高度経済成長の終わりを意識しはじめ、「金の卵」であった中卒者の希少性は薄らぎ、1975年(昭和50年)3月末の<集団就職列車>が最後となっています。
ただ、この21年間に<集団就職列車>に乗って都会へ出ていった若者は、「金の卵」の固い殻をうまく破ることができたのでしょうか。その後、どこへ行ったのでしょうか?
⇒<第3章>へ続く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます