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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【9Ⅱ-03】 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(2) 

2019年05月28日 12時46分12秒 | 第9部 映画館の片隅で
<第2章> 『多田なお事件』を追って
〔第3回〕 佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(2)

1960年代半ばに始まったベトナム戦争は、米軍による地上戦の困難性から爆撃機や攻撃性ヘリコプターを用いた空からの攻撃に重点を置くようになりました。戦線の拡大・激化に伴い米軍政下にある沖縄から海兵隊や戦略爆撃機B52が直接出撃していくなかで日本本土の兵站基地や野戦病院などが果たす役割は増大していきます。
そのようななかでベトナム戦の象徴的な存在、原子力空母エンタープライズの巨大な艦体が佐世保港に登場するということに対し全国の学生(全学連)をはじめ労働者にとって「戦争反対」の立場から実力で寄港を阻止する闘いが始まった、というべきでしょう。この「空母エンタープライズ寄港阻止」の闘いは、やがて日本中の反戦闘争へ大きな影響を与えていきます。

――1968年1月。全学連本隊を乗せた急行列車「西海」は途中、鹿児島本線と長崎本線の分岐する鳥栖駅で停車中の僅かな時間に地元の労働組合が用意した大量の角材を積み込み、午前9時45分に佐世保駅に到着しました。佐世保に登場した全学連は一気に米軍基地に向かって走り平瀬橋で権力の放水や催涙ガスによる阻止線と激突、市街戦さながらの闘いが起きています。
やがて多くの学生が逃げ込んだ市民病院の中にまで機動隊が追いかけていき、無抵抗の学生らを警棒などで殴りつけ逮捕し引きずり出します。それは病院の待合室にいた患者や市民、病院関係者が注視するなかで繰り広げられた残虐な行為です。この機動隊の一連の暴行の様子は瞬く間に佐世保市民に知らされました。また、その日の夕刻、NHKテレビは佐世保闘争の様子をデモ隊の後方から撮影した映像を流しました。そこでは正面からデモ隊に襲いかかる機動隊の姿が生々しく報道されました。

警棒を乱打し血を流してうずくまる学生の頭上に攻撃を加える機動隊の殺人的な暴力を目の当たりにした佐世保市民は「警察権力こそ暴力団だ。学生こそ正義だ」と叫んで一斉に立ち上がりました。街全体が政府・権力への怒りとなって表われ、全学連のデモ隊は市民の熱烈な声援と支援を受けて連日、機動隊の壁を破ろうと血みどろの闘いを貫いていきます。
当時、全学連の隊列に加わり闘争に参加した女子学生は次のように証言しています。「私たちの闘いに共鳴してくれたのでしょう。衣料店の方から女性の下着などが大量に差し入れられました。何しろ寒いなかで全身に放水を浴びて歯の根も合わぬほど震えていたので乾いた下着は大変助かりました」と。

その日の闘争を終え、商店街アーケードで闘争カンパを訴えたところカンパ袋は大きく膨らみました。しかし軽いので「たいした金額ではないな」と誰もが思っていたのですが、いざ計算してみると百円札が10000枚以上。優に100万円以上の金額がカンパされていました。今日の貨幣価値では500万円以上でしょうか。東京から来た学生にとって百円は硬貨が主流でしたが、地方都市ではいまだ百円札だけが流通していたようです。
ところで全学連は当初、今回の佐世保闘争は1日程度の予定で遠征していました。それはデモ隊が千人単位で一堂に宿泊できる施設が佐世保市をはじめ周辺になかったからです。しかし闘争初日の闘いで佐世保市民からの声援と支援を受けて闘争の延期を急遽決意、宿泊地として電車で片道3時間かかる福岡県の九州大学へ向かうことに決めました。

全学連本隊が博多駅に到着したのが夜遅く。そこから九州大学(六本松キャンパス)へ向かうと正面の門扉は閉じられたまま。学生らが開門を要求しても開かれる気配はありません。そこで全員が門扉前で「開門!」を連呼しながらジグザグデモを行っていたところ、デモ隊を囲むかたちで機動隊が包囲します。さらに「午前零時をもって全員検挙!」と警告が発せられます。
激しく「開門!」を連呼しジグザグデモを続けるのですが閉まったまま。しかし午前零時まであと数分というところで正面門扉は開きました。デモ隊はジグザグデモの成果を確認するとともに安堵の声を上げ一斉に九大キャンパスへなだれ込みました。

その裏では九大法学部長の井上正治(後の「多田なお事件」弁護人)が、正面門扉の責任者として「開門」を指示したといわれています。それは単に法学部長の開門判断というより、九大当局が当初、学生らの構内「立入禁止」を告示していたのですが、エンプラ闘争のもつ正当な社会性を否定することができず、締め出しという強硬策を貫徹することができなかった事情があるようです。
この「九大キャンパスの開門」というのは何気ない出来事のようですが、仮に門扉が閉ざされたままであったなら、いたずらに「検挙」を叫ぶ機動隊との衝突は避けられなかったわけで、「佐世保闘争」のその後の行方が左右されたかと思われます。これらの事情を考えると、私のなかで「井上正治」の名前がエピソードとして刻み込まれていたわけです。 

やがて全学連の学生たちは九州大学(福岡県)を宿泊場所に電車で佐世保―博多(福岡)間を往復6時間かかるところを克服して1月17日から22日までの6日間、連日の闘争を展開していきます。全学連の果敢な阻止行動は長崎の被爆者をはじめ労働組合・大衆の怒りに押され、総評系・同盟系等の各労組が佐世保への組織動員を決定します。
一方で日放労や三菱造船社研の反戦青年委員会を先頭に全政治潮流が闘いに参加し、1月18日の現地集会には4万7千人が結集して佐世保の歴史始まって以来の大闘争が始まります。佐世保橋上で警察の装甲車を占拠して闘う全学連部隊を、現地集会を終えた労働者や市民が合流し後方支援にまわります。やがて全学連部隊は高圧の催涙放水にひるむことなく闘って午後5時半過ぎ、ついに川を渡って基地内に突入していくのです。

■佐世保橋。高圧放水にひるまず闘う全学連部隊


――これら一連の激闘は、結果的に佐世保の労働者・市民との連帯を勝ち取ることに成功し大衆的不動の信頼を獲得していきます。やがて「19日佐世保市民の会」結成という<佐世保闘争>の継承がなされていくのですが、この後15年にわたって原子力空母が日本に寄港できない状況を作り出していたのです。

■王子野戦病院闘争へ
1967年秋の「羽田闘争」に続く68年1月の「佐世保闘争」は新たな激動の到来を告げるものでした。全学連本隊が帰京した1月下旬、米軍当局は東京都北区内に設けられている米軍王子キャンプにベトナム傷病兵用の「野戦病院」を3月初めまでに開設する計画を明らかにしました。当時、日本各地に設けられている米軍の野戦病院にベトナム戦争で負傷して運ばれてくる米兵の数は毎月4000名を超えていました。
住宅密集地域への野戦病院増設計画に、地元では労働組合を先頭に地域ぐるみの反対闘争が始まっていました。2月20日の反対集会に全学連と反戦青年委員会が合流し、ここから一気に闘いが爆発しました――。

――「看護反戦」高野紘子(看護婦)は、『多田なお事件』裁判に向けた「特別弁護人申請書」(草稿)のなかで次のように記述しています。
〔 …病院の中が病人にとって決して安全かつ適切な場所ではないのに、一方では次々と病人をつくりだす作業をしている。水俣病、イタイイタイ病、ゼンソク、交通事故、そして繁栄の谷間で貧困にあえぎ、過労からくる多くの病気。私たち看護婦は、それらの人を病院の中でじっと待ちうけ、病院の中でさらに患者を苦しめる存在でしかないではないか。
ベトナムでは人間の命をいとも簡単に傷つけ、殺すという作業――戦争が起きているというのに、私たち看護婦は黙って心を痛めるふりをするだけでいいのか。日本にある、アメリカの野戦病院にベトナムから飛行機で大量に運びこまれてくる傷病兵を看護するだけでいいのか。
「人間の命を守り育てる」という看護の思想は、より積極的でなければならないはずだ。病人をつくり出すあらゆる者に攻撃的でなければならないはずだ。私は、私と同じように悩み苦しんだ看護婦とともに、70年代の初め、ささやかながら看護反戦の旗をかかげた。私はやっと看護婦としての確実な一歩をあゆみ出したのだ。 〕

■多田なお看護婦との出会い
別の記述に、『加害者から真の加害者たれ――看護者の原点』と題し、多田なお看護婦と看護反戦メンバーとの出会いが描かれています。
〔 被告と呼ばれている多田なお看護婦とわれわれがはじめて話し合いをもったのは、事件当日から1年2ヵ月余も経過した時であった。彼女はすでに減俸の行政処分を受けており、1969年10月17日には、千葉地方検察庁から「業務上過失致死」容疑で刑法211条によって起訴されている時であった。
千葉大の看護学校を卒業し、臨床3年目を迎えたという彼女は、若々しい身体をまるで喪服としかいいようのない黒づくめの服装であった。一言一言事件の経過とその罪の重さを自分に語りかけるような調子で語り…(中略)そして多田看護婦は、「自分はなにも知りはしないのに、知っているような錯覚のなかで、命令されなくても率先して仕事をこなす、でしゃばりな看護婦であった」ことを強調し、「私はこの事件だけで裁かれようとは思っていない。私の過去は医療事故でいっぱいだったのだから。私はいつも人を殺しても気がつかなかった。だから私は起訴されても当然だと思っているし、どんな重い罪も受けるつもりです」と語った。
この話を聞いているうちに、皆のなかに同じ思いが走った。「この吸引器なら私も間違えたかもしれない」「医療事故なんか山ほどあるのに、健康人であるがために、不幸にも隠ペイできなかっただけじゃないか」「私たちと多田さんとどこがちがうというのだ」…(中略)われわれはこの千葉大採血裁判を、多田さんとともに担っていこうと決心するのだが、その理由は他でもない、われわれ自身の看護婦像(日本中の看護婦像)を多田さんのなかにみたからであった。…(中略)多田さんがいみじくも自分で語ったように、ずさんな教育しか受けていないのに、危険も顧みずなんでも得意にやってのける看護婦像がそこにあった。…(以下略) 〕

――これらの文面からすると看護反戦メンバーが多田なお看護婦と初めて会ったのが、「事件当日から1年2ヵ月余も経過した時」と述べられているので、概ね1970年6~7月頃だったのでしょう。私が「看護反戦」の女性たちと初めて会ったのが同年の夏頃だったので、多田なお看護婦への支援体制が立ち上がって間もない頃だったかと思われます。
「看護反戦」の登場は、羽田闘争から佐世保闘争、王子野戦病院闘争以降の激しい反戦闘争の過程で問われた課題を自らの置かれている立場を通して確認し、自己変革が求められた過程でもあったのです。


〔お断り〕 本欄記述に伴い、以下の2点について文面表記を統一しています。
●医療現場における「看護婦」という呼称は、2001年に「保健婦助産婦看護婦法」が「保健師助産師看護師法」に改定され、2002年施行に伴い3月から男女とも「看護師」に統一されています。ただ、本欄は1969年及び70年当初の時代背景であり、当時の呼称「看護婦」を用いています。
●「千葉大病院採血事故」の当事者である「多田なお看護婦」の名前は、当初、「多田なを」と表記していました。「なを」は戸籍上の表記ですが手元の裁判資料では「なを」と「なお」の両方が併載されています(⇒起訴状には「なを」の表記)。ただ寄稿文には現代文の「なお」が多用されていることから、本欄記述にあたって「なお」に統一しています。

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