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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【5Ⅲ-04】 10・21国際反戦デー<新宿闘争>

2014年11月25日 19時01分31秒 | 第5部 地殻変動
<第3章>社研部、動く。
〔4回〕 10・21国際反戦デー<新宿闘争>

新たなクラブ活動として発足した<社研部>ですが、いざフタを開けてみると下級生の女生徒をはじめ十数名の部員が集まりました。この<社研部>、もとをただせば上級生のシゲさんが彼の周りに集まる生徒を中心に組織、クラブ活動として創設した経緯があります。日頃からジゲさんと話していた午後部担任で英語担当の女性教師が顧問に、また交替部担任の男性教師を副顧問として、68年度・新学期に開催された生徒総会で正式に承認されています。
クラブ発足当初は、たびたび集まって「どのような活動を行っていくのか」が議論されていました。後に知ったことですが高校における「社研部」というのは、その高校ではどちらかといえば秀才型の人々の集まる集団だとか。まぁエリート生徒の集まりとまではいえないのでしょうが、なにしろ「社会科学的に論理を重ねていく」集団として学内からも「政治活動を行う団体」視されていたきらいがあります。「社会科学的に論理」するというのはマルクス主義を論理の中心として展開、「なんだか難しそうな議論ばかりしている集団」として危険視する方々もいたようです。

もっともミツマメ君は、そんなこと考えもしないで上級生のジゲさんに誘われるまま<社研部>発足に一役買ったところがあります。まぁね、ミツマメ君は校内の秀才エリート生徒には程遠い存在でしたし、「何となく面白そう…」というのが本音のところ。ところで、改めて後に知ったのですが二人の顧問は年齢的に「60年安保闘争」経験組で、女性教師は闘争過程で警官隊に追われるなかで「助けてくれたのが、いまの主人」とか。
1学期はこれといった活動もなく過ぎていったのですが、<社研部>として本格的に動き出したのが2学期になってからです。

■2学期の衝撃
何しろ1学期は、3学年に進級したと思ったら生徒会の代議員に選出されて総務委員会や代議員会に駆り出され、当面の行事である「生徒総会」向けの事業計画や予算審議に振り回されていました。一方で新聞販売店での待遇改善に向けた活動が活発化しており、<社研部>に顔を出すことで三つ巴の忙しさに巻き込まれた感じでした。
それでも1学期は、学内で大きな動きもなく何となく無難に過ごしていたのですが、夏休みを終え2学期が始まり9月14日(土曜日)に開催された初回の<社研部>会議で、毎年秋11月に開催される「文化祭」に、我が<社研部>として「何か課題を発表しなくてはならない」ということになって、論議の末、「誰もが、いま最も関心の高い<安保問題>ではないか」というのが全体の意見でした。「はぁ。安保問題ねぇ。アンポ、アンポでアンポンタン」なんて会議のなかで他人事のように頭の中で調子をとっていましたら、いきなり「安保問題をテーマに各自分担を決めて発表しよう」ということになりまして、「ミツマメ君は、『安保と経済』ね」だって。

これって人権無視じゃないですか!――ミツマメ君の頭の中には安保問題どころか「アンポ、アンポでアンポンタン」の世界で一杯なのに、いきなり『安保と経済』を振り分けられてもねぇ。ここで初めて<社研部>へ加入したことの恐ろしさと、後には引けない断崖の絶壁感を味わったわけです。その後、ミツマメ君の人生に予期せぬ事態に追い込まれ「恐ろしさと後には引けない断崖の絶壁感」を何度も味わうことになります。でも人間って、追い詰められると何とかなるもんですよ。ハイ。
その日の会議が終わると頭の中は『安保と経済』で一杯になり、さっそく新宿の大型書店に駆け込み安保関連の書物を漁るハメとなりました――この日をもって能天気な世界が終わったのです…でもないか。

実のところ、それまでの読書といえば小説の類やハウツウもの、ガールフレンドの薦めで『リーダースダジェスト』を読むくらいでしたので、いざ「安保」とか「経済」といわれても取りつく島もない。これを教師や学友に聞くのは簡単だけども、いきなり難しい単語を並べられても理解の袋がはち切れそうなので、ここはともかく自分の世界に「安保」と「経済」を取り込んでおこうとの魂胆で書店に向かったわけです。
さすがに「安保」関連本は山積みされていました。そのなかでどの本を選ぶか。結局、3冊を選び、とにかく読み始めました。

2学期が始まって早々、<社研部>に突きつけられた『安保と経済』は、結果的に私にとって大きな転機となりました。手にした「安保」関連本は読み始めると、とにかく面白い。確かに日米安保の構造が列挙されている本や、先の大戦による敗戦後の経済政策など、これまで避けてきた社会問題に直接触れると「へぇ~。面白い世界だな」と思ったのが間違いの始まり。つい学校の授業が遠のいてしまって…それでなくとも遠のきつつある授業がさらに彼方へ行ってしまって、頭のなかは「安保」で一杯になってしまいました。

もっとも2学期に入って社研部の活動ばかりやっていたわけではなく、相変わらず映画館にはせっせと通い詰めていましたし、なんと女優の坂倉春江さんと「喫茶『どる』に寄る」とか、10月に入って中期試験の前に「化学のアンチョコ借りる」とメモに記載されています。坂倉さんは1年生の3学期に転校してきた交替部の女生徒ですが、下校時に一緒になる機会があると時折、サ店に入ったりしていましたから。坂倉さんとの付き合いも順調だったようですね。…ムム。。。君ねぇ~モデル兼撮影助手のクマちゃんやK子ちゃんがいながら坂倉さんと付きあうなんて…な~んて言わないでくださいね。だって彼女達は同級生。手も握ったこともない学友、学友なのですよ!(…なんで強調するのだろう)
9月23日(月曜日)にはニッポン放送のラジオ番組で「三部制高校」が放送されています。「録音」したとの記録が残っていますが手許に録音テープは見当たりませんので、この放送がどのようなものだったか分かりません。

■<10・21国際反戦デー>の新宿
頭の中に「安保」のことで一杯になっていたころ、ひとつの出来事が私のなかで「彼岸」と思っていたことが身近な課題として突きつけられました。それは「文化祭」に向けて行動していたなかで我が<社研部>の顧問である女性教師と社研部のメンバーが、10月21日「国際反戦デー」の新宿に集結したデモに参加していたということです。

――ここで少し<10・21国際反戦デー>について紹介しましょう。
1960代後半にベトナム戦争が激化するなかで全世界的に反戦闘争が高揚していました。このようななかで日本の労働組合のナショナルセンターであった「総評」(日本労働組合総評議会=当時の構成組合員数420万人)が、「ベトナム反戦統一ゼネスト」を提唱し、そのことを66年に全世界の反戦運動団体にも「ベトナム戦争反対」を呼びかけたことで「国際反戦デー」が始まりました。
66年10月21日のストライキには48単産211万人が参加しており、労働組合が「ベトナム反戦」を掲げて歴史上初めて敢行したストとして世界中から注目されるようになり、1967年10月21日にはアメリカのワシントンD.C.で10万人を超えるベトナム戦争反対デモ(ペンタゴン大行進)がおこなわれ、西ヨーロッパでも同様な示威活動が展開されています。その後、日本でも「10・21」は<反戦闘争の日>として労働者・学生に浸透していきました。

ところで「10月21日」が何故、「反戦闘争の日」となったのでしょうか。それは、1943年(昭和18年)に東京・神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開かれ、東條首相出席のもと関東地方の学生7万人が集まったことによるものです。この年、太平洋戦争の敗色濃くなったなかで、それまで大学・高等学校・専門学校生は「兵役法」で徴兵を猶予されていましたが、10月1日に「在学徴集延期臨時特例」を公布し高等教育機関の20歳以上の文科系学生が徴兵され、出征させられたのです。
出征した学生数は10万~13万人といわれていますが死者数は概数すらつかめていません。神宮外苑競技場での出陣学徒の多くが南方の激戦地や特攻攻撃で命を落としています。また学徒出陣以外でも「勤労動員」(学徒動員)というかたちで学生は戦争協力を強制され、敗戦時の動員学徒総数は約340万人といわれています。

この神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開催された「10月21日」をもって、「国際反戦デー」が始まったのですが、戦後の学生運動は「学生は再び戦争協力を強制されてはならない」をスローガンに果敢に闘っていきます。
1968年7月に開催された「全学連定期大会」に全国の大学から101校・157自治会・2150余名の代議員・評議員などが結集し、「10・21国際反戦闘争を68年最大の闘争」として全国学生ゼネストで闘う方針が決定されました。そして、そこに向かって「日米安保の実体」である全国の米軍基地への解体・撤去闘争や、米軍物資の輸送阻止闘争が提起されたのです。

そこで最大の焦点として浮上したのが新宿駅を通過する「米軍タンク輸送阻止闘争」でした。前年(67年)8月8日未明に新宿駅構内で貨物列車同士が衝突し、米軍燃料タンク輸送車が爆発、炎上したことで国電1100本が運休するという大事故が発生しています。この事故で、タンク輸送車には米軍のジェット機燃料が搭載されていたことが明るみになったのです。
横浜市浜安善石油基地までタンカーで運ばれてきた燃料は二つの鉄道ルートを経由して、立川と横田の米軍基地に運ばれていました。危険なジェット機燃料を搭載した米軍タンク車が事故当時で一日平均70~120両が首都圏のド真中を運行されていたという事実が、これまで一切、公表されずに押し隠されていました。

■1968年<10・21>当夜
10月21日「国際反戦デー」当日の私は、中期試験の2日目で午後から独りで映画を観に行っています。その夜、勉強をしていたわけではないのですが、遅くまで机に向かってラジオを聴いていました。首都圏各地での反戦集会や抗議デモが行われていることが報じられていましたが、すると深夜、零時の時報を聞いて間もなく「新宿の群衆に対し騒乱罪が適用された」といった臨時ニュースが流れ、現場からの中継音に入り混じって群衆の叫び声やシュプレヒコール、拡声器音など緊迫した空気が流れました。
この日、ベトナム戦争に反対して全国で18単産76万人がストライキを行い46都道府県の560ヵ所で集会とデモが行われています。この集会には456万人が結集するなど戦争に反対する人々の熱気が伝わる一日となりました。

【写真↓】新宿駅構内を進撃する学生部隊


また各大学がストに突入、国鉄労働者は米軍タンク車の拠点10ヵ所で時限ストに入ってタンク車240車両を止めています。全学連部隊の一部は御茶ノ水駅に集結し代々木駅から線路上を進撃して新宿駅構内に突入し機動隊との攻防を経て、東口広場に集まった労働者・学生などの群衆と合流しています。明治公園で開催されていた総評の集会に参加していた労働者が解散地点から新宿駅東口広場の群衆と合流しており、その数約2万人。駅前一帯は立錐の余地なく埋め尽くされていました(写真参照)。
この間、機動隊は群衆を規制しようとしていましたが、逆に群衆が機動隊に襲いかかるシーンも。恐怖に駆られた権力は深夜零時を過ぎて「騒乱罪」を発動し、機動隊が群衆に突入し無差別逮捕、殴る蹴るのリンチを加え暴虐の限りを尽くして鎮圧を図っています。この日の闘争で逮捕者は745名、うち450名に騒乱罪が適用されています。
この<新宿闘争>を経て、「70年安保闘争」へと本格的な武装闘争が始まりました。


【写真↑】新宿駅東口に集結した約2万人の群衆。零時過ぎ騒乱罪が発動され機動隊が暴力的な無差別逮捕を行った。

――社研部顧問の女性教師とメンバーが、この新宿闘争に参加していたということを知ったのは登校してからです。その夜、新宿三光町(現在は歌舞伎町と新宿5丁目の一部)付近で群衆に紛れていたが機動隊の暴力的無差別逮捕に必死で逃げた、とのこと。その話を聞いた時、私は「オレも行きたかったなぁ」と思いました。だって、面白そうだからです。でも、その日は中間試験が終わって独りさっさと映画を観に下校していますからね。もし教室に残っていたら誘われていたかもしれません。嗚呼、残念だったなぁ…。

■『日大闘争の記録』上映顛末記(1)
「文化祭」も近づいたある日、顧問の女性教師が言い出したのか、それとも社研部の誰かが言いだしたのかは判然としませんが「日大闘争の記録映画を文化祭で上映しよう!」と提案しました。その映画のフィルムは日大全共闘の芸術学部が撮影し管理しているとのこと。ただ上映にあたっては映写機の手配と、このフィルムは「16ミリ」なので上映するには映写資格を持った人がいなくてはならない、という問題がありました。すると入学以来、親しくしていた学友E君が「ボクが資格を持っている。映写機も手配しよう」と言うではないですか。さすが定時制高校は違うな、と感じた瞬間でした。

10・21国際反戦デー<新宿闘争>や<日大闘争>という「現実の闘い」そのものが、様々な経緯を経て私の背中合わせの所に潜んでいました。――ところで、この『日大闘争の記録』を借りに行く過程で日大全共闘の連中と会う機会があったのですが、「文化祭」で上映したあとで、ひと騒動あったのですね…。(⇒この項、続く)
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