<第3章>社研部、動く。
〔5回〕 『日大闘争の記録』上映顛末記(2)
日本大学は当時、全国で最も学生数が多い大学(約10万人)として「マンモス大」と呼ばれていましたが、巷では「ポン大」(本大)ともいわれていました。それは「多少オツムガ弱くても金さえ出せば入れる大学」といった揶揄した響きがあります。その実、日本大学は学生の自治活動はもとより主義主張・意見などを立て看板(タテカン)で表現することや政治的なビラ一枚も配布できない管理の厳しい大学として知られ、違反すれば厳しい処罰が待っていました。そんな大学へ通う学生に対し「そんな殻を打ち破る度胸もないのか」などとやや挑発的な響きが「ポン大生」といった呼ばれ方をされていたようです。
1960年代末の大学進学率は16%ながら徐々に増加していましたが、経済成長の過程で多くの私立大学が営利目的で学生数を増やす、いわゆるマス・プロ大学の代表格として日本大学のような「マンモス大」が現れたのでしょう。そんな大学が68年5月23日をもって「日大」と呼ばれるような出来事が起きたのです。
それは、管理の厳しい構内で5月23日、数十名の学生がスクラムを組んで数百メートルのデモを行ったのです。大学の歴史では初めてのことで、そのデモを行った学生を中心として5月27日に「日大全共闘」が結成され、大学当局に対し果敢な闘争を挑んだのです。そのことで日大闘争は全国的に広く知れ渡り、「ポン大」変じて誰もが「日大」と呼ぶようになりました。
大学による理不尽な学生支配に対し民主化を求める闘争が続いているなか、20億円もの使途不明金が発覚し出納係の女子職員が自殺するなどの事件が相次ぎました。「我々の金が勝手に使われた」といったささやかな怒りが発端となって日大闘争として拡大していきます。初めての構内デモから4か月後の9月30日、両国講堂に3万名の学生が結集して大学当局との団体交渉を行い学生側の勝利となりました。大学闘争のなかでも画期的な出来事です。しかし、あろうことか翌日には時の首相佐藤栄作が「団交による要求を認めるべきでない」と発言、日大闘争の激発を招いたのです。
――『日大闘争の記録』は、そんな5月の闘争発端から9月団交までの大学闘争を記録した1時間ほどのドキュメント映画でした。
■「文化祭」のなかの社研部
代々木高校における『文化祭』は毎年11月の中旬に開催されていました。入学した年と翌2学年の時は、木造校舎を利用してクラブ活動の「課題展示」や喫茶店などの模擬店が出店されていました。本校は講堂・体育館が設置されていなかったことから演劇クラブや音楽クラブの発表の場は近くの公民館などを借りて、一日興業?を行っていました。
3学年になると、かねてから改築中の校舎が完成して『文化祭』の「課題展示」は新校舎で催すことになったのですが、南棟1棟しか完成しておらず校庭が資材置き場となっていたことから、『文化祭』最終日夜の最大イベント?「フォークダンス」は開催されません。このことで紅涙にくれた女生徒一団が「ミツマメ王子とダンスが出来なきゃ代々木高校にきた意味がありません! 迎賓館を借りるか、校舎屋上でフォークダンスができるようにしてください!」と嘆願書をもって校長室に押しかけた…などという噂は一切ありませんでした。K子ちゃんとおテテつなげないね…ショポン。
まぁね。期待の女生徒が近づいてくるワクワク感豊かなフォークダンスは、日頃、女性と手をつなぐ機会のない寂しい男子生徒にとって開催中止は失望の極みにあったわけで、それは多くの女生徒も同じだったはず…え!面倒なことしなくてよいからさっぱりした、の?…そんな惨いこと言わないで――というわけで、「課題展示」に集中できたわけです。ハイ。
【写真↓】お姐さん女生徒達から「カワユイ~」といわれていた男子下級生(右)。
ボクの時代は終わった…。

【写真↓】<書>がロッカーに貼られています。掲示する場がなかったのかしら。

創設間もない<社研部>が初めての課題発表の場として、『文化祭』では「安保問題」を掲げ教室一杯に研究成果を掲示しました。
社研部は11月に入って3日(日曜日)に登校。「文化祭」での展示方法や準備手順を打ち合わせました。翌4日の月曜日から「文化祭」に向けて毎日3時限目以降、準備のため全学休講となっています。さっそく社研部では私と1年先輩のシゲさんに下級生の女生徒2名の計4名で、上原商店街の文房具店に展示材料一式の買出しに出かけています。この文房具店では「代々木高校です」といえば模造紙やマジックなど文房具一式が現金支払なしで購入できるようになっており、いわば「代々木高校御用達」という有難い存在でありました。
ところで我ら4名で買出しに出かけたのはいいのですが、下級生の女生徒2名とは日頃親しく話すわけでもないので、ただ私とシゲさんの後ろからピッタリ付いてきている感じ。ふと立ち止まって振り返ると、背の高い女生徒2名が黒く長いコートを着て無言のままピタッと立ち止まる。しばらく歩いて振り向くと彼女たちは無言のまま付いてきているのがわかる。何だか「背後霊」に付きまとわれているような不気味さを感じたのですが、考えてみればクラブ活動とはいえ強面の上級生の男子生徒に付いて行くことにある種の緊張感を感じていたのかなぁ…というのは杞憂でありまして、その後の展開を思えば、ね。
さて「文化祭」の準備を行うかたわら、社研部が『日大闘争の記録』を上映することになって、10月中旬に顧問の女性教師とE君など3名が西武池袋線・江古田駅近くの日大芸術学部を訪れました。当時、日大全共闘が芸術学部の校舎をバリケードで封鎖しており、このバリケードを乗り越えて全共闘芸術学部に対し女性顧問自らが先頭に立ってフィルムの貸出しを交渉しようという訳です。初日の交渉では「貸出しOK」となりましたが、具体的な貸出し期日および受取り方法は改めて話し合うことになりました。
【写真】バリケード封鎖中の日大全共闘芸術学部(『叛逆の記録』から)

11月8日、私とシゲさんの二人で日大全共闘芸術学部を訪ねました。具体的なフィルムの引き渡し日時を決める交渉のためです。江古田駅を降り立ち徒歩わずかの所に日大芸術学部の校舎があります。初めて訪れる日大芸術学部ですが、バリケード封鎖中なので正門から入ることが出来ず関係者だけの出入り口が設けられ(写真参照)、ハシゴ階段を登っていくと上からヘルメット姿の学生が手を引いてくれました。途中、ロッカーや書庫などを並べ人ひとりが歩けるような狭い迷路のような通路を進み、指定された部屋へ行くと、そこにはだだっ広い部屋の片隅に一台のコタツが置かれ二人の学生が寝そべっていました。
全共闘といえばいつも走り回っているイメージがあるのですが、暴力的な襲撃でも受けなければ閑散とした雰囲気の構内です。シゲさんとコタツに入って二人の学生と小一時間は話したでしょうか。別に難しい内容を語ったわけではありません。まぁ同じ世代ということで、フィルムの話しの後は四方山話で終わったと思います。
『文化祭』は11月10日(日曜日)に「演劇会」、翌11日(月曜日)が「展示会」のスケージュールでしたので、9日(金曜日)に『日大闘争の記録』の上映ポスターを作ったり、課題である『安保問題』に関する論文を模造紙に書き連ねる作業を行っています。夕刊を配って夜7時に再登校して作業を行っており「ねむ―」とのメモ。疲れ果てていました。
『文化祭』初日の10日は、近くの公民館で「演劇会」が行われていましたが、私は模造紙に書き込む作業が忙しく登校、午後から公民館に向かっています。その日、シゲさんとE君の二人が『日大闘争の記録』のフィルムを受取りに出かけました。そして、翌11日に「展示会」が催され我々社研部の出番となりました。
――『安保問題』に関する展示室で独り来場者の対応をしていましたら、40代の男性が熱心に展示内容を読んでいました。そして振り返ると「ここの展示内容は、討論したことを表現したのか」といったことを質問されました。私は正直に「内容に関する討論はしていない」といった答えをしたと思います。その答えを聞いて40代の男性は無言で出て行きました。
必ずしも私の担当課題(安保と経済)に対する質問ではなかったと思いますが、やはり創部早々の課題展示ということもあって出来合いの展示だったのでしょう。内容の浅いことを見抜かれた思いです。その40代の男性はどのような方か分かりません。でも「討論した内容を表現したのか」との問いかけは、公の場で課題に対する発表を行う際の重要な指摘だと今日でも肝に銘じています。
■『日大闘争の記録』上映。そして…
「展示会」当日の午前10時から『日大闘争の記録』の上映会が催されました。約束通りE君は映写機を運び入れフィルムをセットしました。この重い映写機をどのようにして運んだのかなぁ。彼は時折、オートバイで通学していたので、きっとバイクで運んだのでしょう。
上映会場となった教室一杯に生徒が入って、この日大闘争に関する関心の高さを改めて感じた思いでした。ただ、『日大闘争の記録』という映画は、確かに日大の学生を中心に大学側との交渉経緯や構内、街頭でのデモシーンなどがスクリーンに映し出されていますが、映像は断片的で音声と重なっていません。いわば編集前のラッシュ状態の印象でした。「これが新たな映像手法だよ」と言われればそれまでですが、これまで観てきた映画というのは、それなりのストーリーがあって物事の展開を描き表現者の口元と音声が伴っていました。でも、この映画はドキュメンタリータッチの手法なのか違和感を受けたのは確かです。でも大学当局に対する学生の怒り闘いの激しさを、映像を通じて強く感じました。
映画終了後、来場者とともに「安保問題」をはじめ学生運動など今日的な課題を中心に「討論会」が行われています。
『文化祭』は無事終わり、『日大闘争の記録』の上映会も好評でした。ところが、いざフィルムを返す段になってひと騒動が起きたのです。
「文化祭」明けの12日、フィルムをE君が独りで返しに行ってくれることになりました。私は連日の準備作業で精魂疲れ果て、<ズル休>ならぬ「疲労休」で休みました。すると、当日、日大全共闘芸術学部に機動隊が導入されたとのニュースが流れました。午後になると社研部の一人から「E君から連絡はないか?」と私の新聞店に電話がありました。「何もない」と答えると、誰もが「E君はどうなった? フィルムは?」と案じている様子。
今日のように誰もが携帯電話をもっている時代と異なり、相手と個別に連絡を取る手段はありません。社研部の皆が、芸術学部の構内に機動隊が入った時点で「E君が構内に居たのか」どうかが最大の関心事でした。そしてフィルムを全共闘に返していたのか。もし返していなくて警察に押収でもされたら、当方に責任があるわけで一番気のなるところです。いくら気にしても彼からの連絡待ちの状態でどうすることもできない。そこで、夕方6時過ぎに彼の自宅へ電話を入れたのですが、家族の方からは「帰宅していない」とのこと。結局、彼との連絡が取れないまま、その日は過ぎました。
翌日、登校してきたE君を社研部のメンバーが取り囲んで、彼から経緯を聞きました。
「芸術学部の建物に近づくと大勢の機動隊が見えたので『ヤバイ!』と思って物陰から様子を窺っていると、構内へ入ることが出来そうもないと思ってフィルムの箱を抱えて一旦現場を離れた」とのこと。上映1時間のフィルムを巻いたリールを箱に入れると30センチ角の大きさになり目立ちます。それをE君は抱え持ち運んだわけです。この間の状況を誰かに相談するにも、連絡宛がないことで彼の独自判断に委ねられたわけです。
その後、全共闘の担当者に連絡が取れ無事にフィルムを返還できたとの連絡を、E君から受けました。
――社研部の課題であった「安保問題」をはじめ映画上映にまつわる一連の出来事を契機に、当時としては最もラジカルな闘いの渦中にいた日大全共闘の現実を垣間見る機会を得ました。そのことで社研部一同はもとより私自身に、現在、闘われている学生運動や反戦活動、労働運動など様々な社会現象の本質を見極める論理性、また闘争現場を知ることの重要性を感じ始め、<社研部>の動きが活発となりました。
〔5回〕 『日大闘争の記録』上映顛末記(2)
日本大学は当時、全国で最も学生数が多い大学(約10万人)として「マンモス大」と呼ばれていましたが、巷では「ポン大」(本大)ともいわれていました。それは「多少オツムガ弱くても金さえ出せば入れる大学」といった揶揄した響きがあります。その実、日本大学は学生の自治活動はもとより主義主張・意見などを立て看板(タテカン)で表現することや政治的なビラ一枚も配布できない管理の厳しい大学として知られ、違反すれば厳しい処罰が待っていました。そんな大学へ通う学生に対し「そんな殻を打ち破る度胸もないのか」などとやや挑発的な響きが「ポン大生」といった呼ばれ方をされていたようです。
1960年代末の大学進学率は16%ながら徐々に増加していましたが、経済成長の過程で多くの私立大学が営利目的で学生数を増やす、いわゆるマス・プロ大学の代表格として日本大学のような「マンモス大」が現れたのでしょう。そんな大学が68年5月23日をもって「日大」と呼ばれるような出来事が起きたのです。
それは、管理の厳しい構内で5月23日、数十名の学生がスクラムを組んで数百メートルのデモを行ったのです。大学の歴史では初めてのことで、そのデモを行った学生を中心として5月27日に「日大全共闘」が結成され、大学当局に対し果敢な闘争を挑んだのです。そのことで日大闘争は全国的に広く知れ渡り、「ポン大」変じて誰もが「日大」と呼ぶようになりました。
大学による理不尽な学生支配に対し民主化を求める闘争が続いているなか、20億円もの使途不明金が発覚し出納係の女子職員が自殺するなどの事件が相次ぎました。「我々の金が勝手に使われた」といったささやかな怒りが発端となって日大闘争として拡大していきます。初めての構内デモから4か月後の9月30日、両国講堂に3万名の学生が結集して大学当局との団体交渉を行い学生側の勝利となりました。大学闘争のなかでも画期的な出来事です。しかし、あろうことか翌日には時の首相佐藤栄作が「団交による要求を認めるべきでない」と発言、日大闘争の激発を招いたのです。
――『日大闘争の記録』は、そんな5月の闘争発端から9月団交までの大学闘争を記録した1時間ほどのドキュメント映画でした。
■「文化祭」のなかの社研部
代々木高校における『文化祭』は毎年11月の中旬に開催されていました。入学した年と翌2学年の時は、木造校舎を利用してクラブ活動の「課題展示」や喫茶店などの模擬店が出店されていました。本校は講堂・体育館が設置されていなかったことから演劇クラブや音楽クラブの発表の場は近くの公民館などを借りて、一日興業?を行っていました。
3学年になると、かねてから改築中の校舎が完成して『文化祭』の「課題展示」は新校舎で催すことになったのですが、南棟1棟しか完成しておらず校庭が資材置き場となっていたことから、『文化祭』最終日夜の最大イベント?「フォークダンス」は開催されません。このことで紅涙にくれた女生徒一団が「ミツマメ王子とダンスが出来なきゃ代々木高校にきた意味がありません! 迎賓館を借りるか、校舎屋上でフォークダンスができるようにしてください!」と嘆願書をもって校長室に押しかけた…などという噂は一切ありませんでした。K子ちゃんとおテテつなげないね…ショポン。
まぁね。期待の女生徒が近づいてくるワクワク感豊かなフォークダンスは、日頃、女性と手をつなぐ機会のない寂しい男子生徒にとって開催中止は失望の極みにあったわけで、それは多くの女生徒も同じだったはず…え!面倒なことしなくてよいからさっぱりした、の?…そんな惨いこと言わないで――というわけで、「課題展示」に集中できたわけです。ハイ。
【写真↓】お姐さん女生徒達から「カワユイ~」といわれていた男子下級生(右)。
ボクの時代は終わった…。

【写真↓】<書>がロッカーに貼られています。掲示する場がなかったのかしら。

創設間もない<社研部>が初めての課題発表の場として、『文化祭』では「安保問題」を掲げ教室一杯に研究成果を掲示しました。
社研部は11月に入って3日(日曜日)に登校。「文化祭」での展示方法や準備手順を打ち合わせました。翌4日の月曜日から「文化祭」に向けて毎日3時限目以降、準備のため全学休講となっています。さっそく社研部では私と1年先輩のシゲさんに下級生の女生徒2名の計4名で、上原商店街の文房具店に展示材料一式の買出しに出かけています。この文房具店では「代々木高校です」といえば模造紙やマジックなど文房具一式が現金支払なしで購入できるようになっており、いわば「代々木高校御用達」という有難い存在でありました。
ところで我ら4名で買出しに出かけたのはいいのですが、下級生の女生徒2名とは日頃親しく話すわけでもないので、ただ私とシゲさんの後ろからピッタリ付いてきている感じ。ふと立ち止まって振り返ると、背の高い女生徒2名が黒く長いコートを着て無言のままピタッと立ち止まる。しばらく歩いて振り向くと彼女たちは無言のまま付いてきているのがわかる。何だか「背後霊」に付きまとわれているような不気味さを感じたのですが、考えてみればクラブ活動とはいえ強面の上級生の男子生徒に付いて行くことにある種の緊張感を感じていたのかなぁ…というのは杞憂でありまして、その後の展開を思えば、ね。
さて「文化祭」の準備を行うかたわら、社研部が『日大闘争の記録』を上映することになって、10月中旬に顧問の女性教師とE君など3名が西武池袋線・江古田駅近くの日大芸術学部を訪れました。当時、日大全共闘が芸術学部の校舎をバリケードで封鎖しており、このバリケードを乗り越えて全共闘芸術学部に対し女性顧問自らが先頭に立ってフィルムの貸出しを交渉しようという訳です。初日の交渉では「貸出しOK」となりましたが、具体的な貸出し期日および受取り方法は改めて話し合うことになりました。
【写真】バリケード封鎖中の日大全共闘芸術学部(『叛逆の記録』から)

11月8日、私とシゲさんの二人で日大全共闘芸術学部を訪ねました。具体的なフィルムの引き渡し日時を決める交渉のためです。江古田駅を降り立ち徒歩わずかの所に日大芸術学部の校舎があります。初めて訪れる日大芸術学部ですが、バリケード封鎖中なので正門から入ることが出来ず関係者だけの出入り口が設けられ(写真参照)、ハシゴ階段を登っていくと上からヘルメット姿の学生が手を引いてくれました。途中、ロッカーや書庫などを並べ人ひとりが歩けるような狭い迷路のような通路を進み、指定された部屋へ行くと、そこにはだだっ広い部屋の片隅に一台のコタツが置かれ二人の学生が寝そべっていました。
全共闘といえばいつも走り回っているイメージがあるのですが、暴力的な襲撃でも受けなければ閑散とした雰囲気の構内です。シゲさんとコタツに入って二人の学生と小一時間は話したでしょうか。別に難しい内容を語ったわけではありません。まぁ同じ世代ということで、フィルムの話しの後は四方山話で終わったと思います。
『文化祭』は11月10日(日曜日)に「演劇会」、翌11日(月曜日)が「展示会」のスケージュールでしたので、9日(金曜日)に『日大闘争の記録』の上映ポスターを作ったり、課題である『安保問題』に関する論文を模造紙に書き連ねる作業を行っています。夕刊を配って夜7時に再登校して作業を行っており「ねむ―」とのメモ。疲れ果てていました。
『文化祭』初日の10日は、近くの公民館で「演劇会」が行われていましたが、私は模造紙に書き込む作業が忙しく登校、午後から公民館に向かっています。その日、シゲさんとE君の二人が『日大闘争の記録』のフィルムを受取りに出かけました。そして、翌11日に「展示会」が催され我々社研部の出番となりました。
――『安保問題』に関する展示室で独り来場者の対応をしていましたら、40代の男性が熱心に展示内容を読んでいました。そして振り返ると「ここの展示内容は、討論したことを表現したのか」といったことを質問されました。私は正直に「内容に関する討論はしていない」といった答えをしたと思います。その答えを聞いて40代の男性は無言で出て行きました。
必ずしも私の担当課題(安保と経済)に対する質問ではなかったと思いますが、やはり創部早々の課題展示ということもあって出来合いの展示だったのでしょう。内容の浅いことを見抜かれた思いです。その40代の男性はどのような方か分かりません。でも「討論した内容を表現したのか」との問いかけは、公の場で課題に対する発表を行う際の重要な指摘だと今日でも肝に銘じています。
■『日大闘争の記録』上映。そして…
「展示会」当日の午前10時から『日大闘争の記録』の上映会が催されました。約束通りE君は映写機を運び入れフィルムをセットしました。この重い映写機をどのようにして運んだのかなぁ。彼は時折、オートバイで通学していたので、きっとバイクで運んだのでしょう。
上映会場となった教室一杯に生徒が入って、この日大闘争に関する関心の高さを改めて感じた思いでした。ただ、『日大闘争の記録』という映画は、確かに日大の学生を中心に大学側との交渉経緯や構内、街頭でのデモシーンなどがスクリーンに映し出されていますが、映像は断片的で音声と重なっていません。いわば編集前のラッシュ状態の印象でした。「これが新たな映像手法だよ」と言われればそれまでですが、これまで観てきた映画というのは、それなりのストーリーがあって物事の展開を描き表現者の口元と音声が伴っていました。でも、この映画はドキュメンタリータッチの手法なのか違和感を受けたのは確かです。でも大学当局に対する学生の怒り闘いの激しさを、映像を通じて強く感じました。
映画終了後、来場者とともに「安保問題」をはじめ学生運動など今日的な課題を中心に「討論会」が行われています。
『文化祭』は無事終わり、『日大闘争の記録』の上映会も好評でした。ところが、いざフィルムを返す段になってひと騒動が起きたのです。
「文化祭」明けの12日、フィルムをE君が独りで返しに行ってくれることになりました。私は連日の準備作業で精魂疲れ果て、<ズル休>ならぬ「疲労休」で休みました。すると、当日、日大全共闘芸術学部に機動隊が導入されたとのニュースが流れました。午後になると社研部の一人から「E君から連絡はないか?」と私の新聞店に電話がありました。「何もない」と答えると、誰もが「E君はどうなった? フィルムは?」と案じている様子。
今日のように誰もが携帯電話をもっている時代と異なり、相手と個別に連絡を取る手段はありません。社研部の皆が、芸術学部の構内に機動隊が入った時点で「E君が構内に居たのか」どうかが最大の関心事でした。そしてフィルムを全共闘に返していたのか。もし返していなくて警察に押収でもされたら、当方に責任があるわけで一番気のなるところです。いくら気にしても彼からの連絡待ちの状態でどうすることもできない。そこで、夕方6時過ぎに彼の自宅へ電話を入れたのですが、家族の方からは「帰宅していない」とのこと。結局、彼との連絡が取れないまま、その日は過ぎました。
翌日、登校してきたE君を社研部のメンバーが取り囲んで、彼から経緯を聞きました。
「芸術学部の建物に近づくと大勢の機動隊が見えたので『ヤバイ!』と思って物陰から様子を窺っていると、構内へ入ることが出来そうもないと思ってフィルムの箱を抱えて一旦現場を離れた」とのこと。上映1時間のフィルムを巻いたリールを箱に入れると30センチ角の大きさになり目立ちます。それをE君は抱え持ち運んだわけです。この間の状況を誰かに相談するにも、連絡宛がないことで彼の独自判断に委ねられたわけです。
その後、全共闘の担当者に連絡が取れ無事にフィルムを返還できたとの連絡を、E君から受けました。
――社研部の課題であった「安保問題」をはじめ映画上映にまつわる一連の出来事を契機に、当時としては最もラジカルな闘いの渦中にいた日大全共闘の現実を垣間見る機会を得ました。そのことで社研部一同はもとより私自身に、現在、闘われている学生運動や反戦活動、労働運動など様々な社会現象の本質を見極める論理性、また闘争現場を知ることの重要性を感じ始め、<社研部>の動きが活発となりました。