<第3章>私の文章修業
〔第14回〕<文章修業>はじまる(2)=不動産業界の変遷=
とんとん トマトちゃんの かくれんぼっこ~♪
おはなばたけは そよかぜのダンス
おやおや? いな~い いない♪
いない いない いない いない
いない いない いない いない …ばあ~!

■Eテレ『いないいないばあ』から
〔前回 つづき〕
…… ……
またひらいて てをうって
そのてを うえに
そして柏手うって 土俵入りだい! ……あら~そんなぁ つまんないわ。。。
――私が不動産業界紙の記者として活動をはじめた1980年代当初というのは、70年代に2度のオイルショックを経験したことで60年代の高度経済成長期の反動から、これまでにない経済の混乱が起きていました。政府は公定歩合を引き上げ、総需要抑制策をとったことから繁華街のネオンが消え消費者マインドは低下していました。
なかでも住宅需要の落ち込みは大きく、住宅関連業者は「売れない。不況のせいだ」と嘆いてばかり。しかし私の業界紙は「現状は住宅不況ではない。これまでが<作れば売れる>営業政策を当たり前としてきた。土地を仕入れ建物を建て利益を上乗せした価格で販売していたが、ここには建築費と粗利益を上乗せするだけの<積上げ方式>で商売を行ってきたことになる。しかし、需要が抑えられているのであれば自社に都合のよい〔積上げ方式〕ではなく、顧客の立場にたった〔売れる住宅、買える住宅〕を作るべきではないか。」といった状況打開に向けた基本姿勢を提示したのです。
そのためには何をするのか。まず「買える住宅」というのは誰が買うのか、そのターゲットは何処にいるのか。それは戦後間もない1947年から49年にかけて3年間で累計約800万人以上が誕生した子供たちが「団塊世代」といわれるようになり、そんな彼らが1980年代に入り企業の管理職に赴こうとする。この団塊世代をターゲットに徹底したマーケット調査(市場分析)を行うことで、「彼らが結婚しアパート暮らしから脱却して、まず手に入れる住宅の価格は如何ほどか」。さらに「どれほどの価格設定であれば無理なく購入できるのか」ということが営業政策の検討課題となりました。
その背景には国の政策として公定歩合が高まり、住宅購入に際して住宅ローン金利が高くなることで購入控が懸念され「個人住宅のローンを低率に設定」するとことが主要課題となりました。そこで住宅金融公庫(当時)の「融資金利の上限を5・5%」(通常金利8~9%)に設定、需要抑制策のなかでも個人の持ち家政策に助成していったのです。そこには一軒の住宅が売れることで建設業者はもちろん付随して住設・内装、引越し業者など関連業界が活性化するわけで、まさしく住宅産業は「オーケストラ産業」と言われていました。一方で「住宅取得年収5倍論」が謳われ、「年収500万円であれば2500万円のマイホームが手に入る」というわけです。
そこで当業界紙としては「個人で無理なく購入できる住宅価格を提示するには、顧客が購入できる価格の設定」。そのためには、「建築費を抑えた販売価格。すなわちローコストの営業戦略が求められる」と提示していくのです。ただね、「ローコスト戦略」には大きな落とし穴があるわけで、ただ単に「値段が安ければいいのだろう」という考えでは先が見えない。「建築費を抑えた販売価格=ローコスト戦略」を実践していくには、建築コストをいかに抑え間接ロスを少なくし、しかも一定の居住水準を確保して販売価格をどれだけ抑えるのか。ここに、住宅企業の経営姿勢が問われるわけです――。
〔不動産業界の戦後史〕
●不動産業界紙というのは住宅市場を見詰めるだけではなく、不動産市場全般を見渡し経済から社会動向など多様な要因を考慮し時節に応じた話題性や市場分析、また市場特性など多角的な情報を提示しなくてはなりません。基本となるのは不動産市場を対象として経済活動を行う企業・業者の動向なのでしょうが、彼らが何をもって不動産市場を把握しようとしているのか。そこには法制度の変転や産業構造の変化、金融市場の動向などによって不動産業の在り方は大きく姿を変えていきますので、あらゆる分野の情報を網羅、分析しなくてはなりません。
ひとつの専門領域、不動産業界を知るためには、まず、その不動産業界の歴史性に目を向けなくてはなりません。なぜなら今日、眼の前に現われている現象やことの本質を知るためには、過去から現在まで繋がっている歴史性やその経緯を正確に認識し適切に対応しながら、次の世代へと引き継いでいくことが重要でしょう。――まず「不動産業界の戦後史」からみてみましょう。
●明治初期に「不動産業」が産業として成立したのは、明治維新後の社会変革を通じて近代的な土地所有が成立したからです。第1次世界大戦期の好景気から1920年代~30年代初頭の慢性的な不況、1932年以降の景気回復という景気変動は地価の動きを決定づけ不動産業の業況に大きな影響を及ぼします。日中戦争の開始を受けて戦時経済統制が始まり1939年に地代家賃統制、1940年に宅地建物等価格統制令が発令されると不動産業は活力を失い地価上昇は抑制されました。
●先の大戦によって空襲などで大勢の人々が家屋を失い、土地の所有を巡って多くの混乱がありました。戦後復興にあわせて民間企業による宅地開発が活発に行われますが、この段階で多くの不動産会社が創業されています。戦前の不動産取引・仲介に対する規制は地方行政のなかで行われており、その規制は大日本帝国憲法によるものでした。敗戦に伴い新憲法が施行され民法を改正、これまでの不動産取引・仲介に対する行政の規制は撤廃され失効したのです。その結果、不動産仲介業は誰でも自由に開業ができるようになっています。
●法的規制がないことで不動産取引に関する不祥事から顧客に損害を与える事案が急増し紛争が多発しました。なかでも悪徳業者による不動産取引が急増したことで社会問題となっていきます。農地法の改革とともに1952年に現在の「宅地建物取引業法」(宅建業法)が誕生、これが現在の不動産取引の基盤となっています。その後、東京オリンピックが開催された1964年に宅建業法が改正され、業者の免許制に移行されて悪質な不動産業者は減少していきます。
●敗戦後、経済統制が解除されると1952年頃から不動産業は活気を取り戻し地価が上昇するようになります。1960年代の高度経済成長期を反映し「地価上昇」は長期化、1970年代の石油危機によって高度経済成長が終焉した後も変わることなく、バブル景気が崩壊する1991年まで継続しているのです。
この間、日本の不動産業は実需だけでなく地価上昇によって生じた資産効果に支えられて急速な成長をとげました。しかしバブル崩壊後、日本経済が長期不況に陥ると地価は低落傾向を示すようになり不動産業の業況も悪化。このことは日本経済全体の動きが不動産業の在り方を規定づけていることがわかるのですが、見方を変えると不動産業の在り方が経済全体の動向に影響を及ぼしているわけです。
●不動産業の発展と日本経済の動向はどのように関係してきたのでしょうか。基本的に日本経済全体の動きが不動産業の在り方を規定づけてきたわけで、それは都市の形成に大きな影響を及ぼしたのは商業地についてだけではなく大都市郊外において顕著でした。戦後の復興期を経て1960年代の高度経済成長期におけるニュータウン開発でピークを迎えます。それは民間デベロッパーだけでなく耕地整理組合、土地区画整理組合、日本住宅公団など様々な開発主体が不動産業の担い手として活躍したからです。不動産業に携わる様々な担い手が農地転用や沿岸部の埋め立てなどを推進することで工場用地の供給を実現していき重化学工業化に貢献、また商業地と住宅地を開発することを通じて都市化を促進したことになります。それは個人や特定の企業が単独では成し得ない大規模な土地利用プランを立案、資金調達しプラン遂行に沿って必要な土地の購入、さらに土地の利用性を可能とし具体化する開発機能が発揮されたというべきです。
●不動産業の担い手は専業の大手に限らず、電鉄会社や信託会社などによる不動産業の兼業も活発です。とりわけ電鉄会社は自社で鉄道を付設し営業を行っている沿線周辺に大型開発を行うことで住宅需要を確保、リフォーム・中古市場へのサイクルシステムを確立していきます。また、生業的な小規模不動産業者も重要な役割を果たしています。
一方で土地区画整理に伴う再開発、不動産開発事業、高度経済成長期における地価上昇、これに伴う不動産金融(迂回的資金供給、財投融資)の活性化。1970年代半ばからの「土地神話」、そして極大化と崩壊。ビジネスチャンスの変化と土地バブルの法制度基盤など様々な経緯を経て今日の不動産業界は成り立っています。なかでもバブル期の不動産金融の本格的展開と特質など不動産業の開発機能が、日本の経済発展のなかで発揮した最大の機能のひとつといえましょう。
〔不動産業界の特性〕
●不動産業は、日本の重要産業のひとつです。この不動産業を他の産業と区別する最大の特徴は事業対象である「不動産」が資産としての価値をもち、その資産価値が変動することにあるのです。それは戦後、不動産の「資産価値」の中核を占める地価が長期的にわたって継続的に上昇したことからです。
地価上昇は不動産評価額が拡大(含み益増加)し不動産担保による借入拡大、さらに需要と設備投資の増大による不動産業の規模拡大を背景に、資産効果に立脚したメカニズムが成り立ちます。そこで「資産効果経営」とは、このメカニズムに依存した事業拡大を図る不動産業経営となるのですが、しかし、この資産効果経営には大きな落とし穴があるのです。
●日本の地価は、先の大戦を経て経済統制が解除されると上昇に転じました。1960年代初頭の「工業用地ブーム期」、1970年代前半の「列島改造ブーム期」、1980年代後半の「バブル経済期」という3つの急騰局面を経験しています。しかし1990年代初頭のバブル経済の崩壊は、このような地価動向を反転させます。1992年から地価の下落が始まり、1977年を「100」とする基準地価指数は1991年から2003年にかけて全国の住宅地で「225⇒164」へ。また、全国の商業地で「227⇒102」へと大幅な下落傾向がみられました。
●このことは、「資産効果経営」の前提条件である継続的な地価上昇がバブル経済の崩壊によって終わったことを意味します。それは日本の不動産業が戦後長く続いた地価上昇という追い風に乗って事業を拡大してきたのですが、実需に限らず資産効果を期待した経営が行き詰ったからです。しかし、これは従来の資産効果経営から脱却した「不動産業の新時代」の到来を意味するわけで、地価上昇のみに頼らない不動産業界の成長を実現するための新たなビジネスモデルの確立が期待されるわけです。そのひとつが不動産証券化に伴う賃貸・管理事業の強化でしょう。
●資産効果経営の行き詰まりを見せるなかで、リスク管理の在り方が問われるようになりました。それは開発事業に限らず賃貸・管理事業においても同様の事態が表われています。さらに1980年に入って宅建業法改正に伴い専任媒介制度(依頼者が他の媒介業者を重複して依頼することができない契約類型)が法定化され、透明な不動産市場を整備することを目的に全国的な「指定流通機構」が整備されていきます。
不動産証券化が進行することで、不動産企業は資産を保有することなく賃貸・管理事業に携わることができるようになりました。分譲事業においても従来の資産効果を織り込んだビジネスモデルから、実需のみに焦点をあわせた事業展開が可能となっており分譲物件の商品企画力、物件の差別化が事業の成否を左右するようになっています。
●それは、分譲マンションでは間取りや内部仕様に関し防音機能や気密性の向上、ペット飼育を可能とするなど消費者(入居者)のライフスタイルに応じた仕組みの導入が新たなセールスポイントとなっています。また、都市部を中心とした地価高騰は郊外周辺部まで波及しており、資産効果経営の行き詰まりのなかで実需向けを対象に、新規物件の供給がマンション・戸建てと困難となっているなかで中古物件というストック重視の流通市場確立、リフォームやリノベーションなど補修・改築ビジネスへの期待が高まっています。
――このように不動産業界の歴史的変遷と業界特性を眺めてみますと、不動産業の発展と日本経済の動向は表裏一体でリンクしていることがわかります。しかし、この不動産業界は他ならず人間が動かしているわけで、その<人間>に肉薄して業界の動向・情報を引き出していくのが業界紙記者の役割なわけです。
新聞紙面を作るのが目的なのか、業界の来るべき未来に向けて行動していたのか――いまとなっては判然としませんが、現在の私は、この不動産業界に教えられ育てられたと思うこの頃です。それは代々木高校時代に得た多くの経験が基礎にあったからでしょう…そのことを一時も忘れることはありませんでした。
〔第14回〕<文章修業>はじまる(2)=不動産業界の変遷=
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いない いない いない いない …ばあ~!

■Eテレ『いないいないばあ』から
〔前回 つづき〕
…… ……
またひらいて てをうって
そのてを うえに
そして柏手うって 土俵入りだい! ……あら~そんなぁ つまんないわ。。。
――私が不動産業界紙の記者として活動をはじめた1980年代当初というのは、70年代に2度のオイルショックを経験したことで60年代の高度経済成長期の反動から、これまでにない経済の混乱が起きていました。政府は公定歩合を引き上げ、総需要抑制策をとったことから繁華街のネオンが消え消費者マインドは低下していました。
なかでも住宅需要の落ち込みは大きく、住宅関連業者は「売れない。不況のせいだ」と嘆いてばかり。しかし私の業界紙は「現状は住宅不況ではない。これまでが<作れば売れる>営業政策を当たり前としてきた。土地を仕入れ建物を建て利益を上乗せした価格で販売していたが、ここには建築費と粗利益を上乗せするだけの<積上げ方式>で商売を行ってきたことになる。しかし、需要が抑えられているのであれば自社に都合のよい〔積上げ方式〕ではなく、顧客の立場にたった〔売れる住宅、買える住宅〕を作るべきではないか。」といった状況打開に向けた基本姿勢を提示したのです。
そのためには何をするのか。まず「買える住宅」というのは誰が買うのか、そのターゲットは何処にいるのか。それは戦後間もない1947年から49年にかけて3年間で累計約800万人以上が誕生した子供たちが「団塊世代」といわれるようになり、そんな彼らが1980年代に入り企業の管理職に赴こうとする。この団塊世代をターゲットに徹底したマーケット調査(市場分析)を行うことで、「彼らが結婚しアパート暮らしから脱却して、まず手に入れる住宅の価格は如何ほどか」。さらに「どれほどの価格設定であれば無理なく購入できるのか」ということが営業政策の検討課題となりました。
その背景には国の政策として公定歩合が高まり、住宅購入に際して住宅ローン金利が高くなることで購入控が懸念され「個人住宅のローンを低率に設定」するとことが主要課題となりました。そこで住宅金融公庫(当時)の「融資金利の上限を5・5%」(通常金利8~9%)に設定、需要抑制策のなかでも個人の持ち家政策に助成していったのです。そこには一軒の住宅が売れることで建設業者はもちろん付随して住設・内装、引越し業者など関連業界が活性化するわけで、まさしく住宅産業は「オーケストラ産業」と言われていました。一方で「住宅取得年収5倍論」が謳われ、「年収500万円であれば2500万円のマイホームが手に入る」というわけです。
そこで当業界紙としては「個人で無理なく購入できる住宅価格を提示するには、顧客が購入できる価格の設定」。そのためには、「建築費を抑えた販売価格。すなわちローコストの営業戦略が求められる」と提示していくのです。ただね、「ローコスト戦略」には大きな落とし穴があるわけで、ただ単に「値段が安ければいいのだろう」という考えでは先が見えない。「建築費を抑えた販売価格=ローコスト戦略」を実践していくには、建築コストをいかに抑え間接ロスを少なくし、しかも一定の居住水準を確保して販売価格をどれだけ抑えるのか。ここに、住宅企業の経営姿勢が問われるわけです――。
〔不動産業界の戦後史〕
●不動産業界紙というのは住宅市場を見詰めるだけではなく、不動産市場全般を見渡し経済から社会動向など多様な要因を考慮し時節に応じた話題性や市場分析、また市場特性など多角的な情報を提示しなくてはなりません。基本となるのは不動産市場を対象として経済活動を行う企業・業者の動向なのでしょうが、彼らが何をもって不動産市場を把握しようとしているのか。そこには法制度の変転や産業構造の変化、金融市場の動向などによって不動産業の在り方は大きく姿を変えていきますので、あらゆる分野の情報を網羅、分析しなくてはなりません。
ひとつの専門領域、不動産業界を知るためには、まず、その不動産業界の歴史性に目を向けなくてはなりません。なぜなら今日、眼の前に現われている現象やことの本質を知るためには、過去から現在まで繋がっている歴史性やその経緯を正確に認識し適切に対応しながら、次の世代へと引き継いでいくことが重要でしょう。――まず「不動産業界の戦後史」からみてみましょう。
●明治初期に「不動産業」が産業として成立したのは、明治維新後の社会変革を通じて近代的な土地所有が成立したからです。第1次世界大戦期の好景気から1920年代~30年代初頭の慢性的な不況、1932年以降の景気回復という景気変動は地価の動きを決定づけ不動産業の業況に大きな影響を及ぼします。日中戦争の開始を受けて戦時経済統制が始まり1939年に地代家賃統制、1940年に宅地建物等価格統制令が発令されると不動産業は活力を失い地価上昇は抑制されました。
●先の大戦によって空襲などで大勢の人々が家屋を失い、土地の所有を巡って多くの混乱がありました。戦後復興にあわせて民間企業による宅地開発が活発に行われますが、この段階で多くの不動産会社が創業されています。戦前の不動産取引・仲介に対する規制は地方行政のなかで行われており、その規制は大日本帝国憲法によるものでした。敗戦に伴い新憲法が施行され民法を改正、これまでの不動産取引・仲介に対する行政の規制は撤廃され失効したのです。その結果、不動産仲介業は誰でも自由に開業ができるようになっています。
●法的規制がないことで不動産取引に関する不祥事から顧客に損害を与える事案が急増し紛争が多発しました。なかでも悪徳業者による不動産取引が急増したことで社会問題となっていきます。農地法の改革とともに1952年に現在の「宅地建物取引業法」(宅建業法)が誕生、これが現在の不動産取引の基盤となっています。その後、東京オリンピックが開催された1964年に宅建業法が改正され、業者の免許制に移行されて悪質な不動産業者は減少していきます。
●敗戦後、経済統制が解除されると1952年頃から不動産業は活気を取り戻し地価が上昇するようになります。1960年代の高度経済成長期を反映し「地価上昇」は長期化、1970年代の石油危機によって高度経済成長が終焉した後も変わることなく、バブル景気が崩壊する1991年まで継続しているのです。
この間、日本の不動産業は実需だけでなく地価上昇によって生じた資産効果に支えられて急速な成長をとげました。しかしバブル崩壊後、日本経済が長期不況に陥ると地価は低落傾向を示すようになり不動産業の業況も悪化。このことは日本経済全体の動きが不動産業の在り方を規定づけていることがわかるのですが、見方を変えると不動産業の在り方が経済全体の動向に影響を及ぼしているわけです。
●不動産業の発展と日本経済の動向はどのように関係してきたのでしょうか。基本的に日本経済全体の動きが不動産業の在り方を規定づけてきたわけで、それは都市の形成に大きな影響を及ぼしたのは商業地についてだけではなく大都市郊外において顕著でした。戦後の復興期を経て1960年代の高度経済成長期におけるニュータウン開発でピークを迎えます。それは民間デベロッパーだけでなく耕地整理組合、土地区画整理組合、日本住宅公団など様々な開発主体が不動産業の担い手として活躍したからです。不動産業に携わる様々な担い手が農地転用や沿岸部の埋め立てなどを推進することで工場用地の供給を実現していき重化学工業化に貢献、また商業地と住宅地を開発することを通じて都市化を促進したことになります。それは個人や特定の企業が単独では成し得ない大規模な土地利用プランを立案、資金調達しプラン遂行に沿って必要な土地の購入、さらに土地の利用性を可能とし具体化する開発機能が発揮されたというべきです。
●不動産業の担い手は専業の大手に限らず、電鉄会社や信託会社などによる不動産業の兼業も活発です。とりわけ電鉄会社は自社で鉄道を付設し営業を行っている沿線周辺に大型開発を行うことで住宅需要を確保、リフォーム・中古市場へのサイクルシステムを確立していきます。また、生業的な小規模不動産業者も重要な役割を果たしています。
一方で土地区画整理に伴う再開発、不動産開発事業、高度経済成長期における地価上昇、これに伴う不動産金融(迂回的資金供給、財投融資)の活性化。1970年代半ばからの「土地神話」、そして極大化と崩壊。ビジネスチャンスの変化と土地バブルの法制度基盤など様々な経緯を経て今日の不動産業界は成り立っています。なかでもバブル期の不動産金融の本格的展開と特質など不動産業の開発機能が、日本の経済発展のなかで発揮した最大の機能のひとつといえましょう。
〔不動産業界の特性〕
●不動産業は、日本の重要産業のひとつです。この不動産業を他の産業と区別する最大の特徴は事業対象である「不動産」が資産としての価値をもち、その資産価値が変動することにあるのです。それは戦後、不動産の「資産価値」の中核を占める地価が長期的にわたって継続的に上昇したことからです。
地価上昇は不動産評価額が拡大(含み益増加)し不動産担保による借入拡大、さらに需要と設備投資の増大による不動産業の規模拡大を背景に、資産効果に立脚したメカニズムが成り立ちます。そこで「資産効果経営」とは、このメカニズムに依存した事業拡大を図る不動産業経営となるのですが、しかし、この資産効果経営には大きな落とし穴があるのです。
●日本の地価は、先の大戦を経て経済統制が解除されると上昇に転じました。1960年代初頭の「工業用地ブーム期」、1970年代前半の「列島改造ブーム期」、1980年代後半の「バブル経済期」という3つの急騰局面を経験しています。しかし1990年代初頭のバブル経済の崩壊は、このような地価動向を反転させます。1992年から地価の下落が始まり、1977年を「100」とする基準地価指数は1991年から2003年にかけて全国の住宅地で「225⇒164」へ。また、全国の商業地で「227⇒102」へと大幅な下落傾向がみられました。
●このことは、「資産効果経営」の前提条件である継続的な地価上昇がバブル経済の崩壊によって終わったことを意味します。それは日本の不動産業が戦後長く続いた地価上昇という追い風に乗って事業を拡大してきたのですが、実需に限らず資産効果を期待した経営が行き詰ったからです。しかし、これは従来の資産効果経営から脱却した「不動産業の新時代」の到来を意味するわけで、地価上昇のみに頼らない不動産業界の成長を実現するための新たなビジネスモデルの確立が期待されるわけです。そのひとつが不動産証券化に伴う賃貸・管理事業の強化でしょう。
●資産効果経営の行き詰まりを見せるなかで、リスク管理の在り方が問われるようになりました。それは開発事業に限らず賃貸・管理事業においても同様の事態が表われています。さらに1980年に入って宅建業法改正に伴い専任媒介制度(依頼者が他の媒介業者を重複して依頼することができない契約類型)が法定化され、透明な不動産市場を整備することを目的に全国的な「指定流通機構」が整備されていきます。
不動産証券化が進行することで、不動産企業は資産を保有することなく賃貸・管理事業に携わることができるようになりました。分譲事業においても従来の資産効果を織り込んだビジネスモデルから、実需のみに焦点をあわせた事業展開が可能となっており分譲物件の商品企画力、物件の差別化が事業の成否を左右するようになっています。
●それは、分譲マンションでは間取りや内部仕様に関し防音機能や気密性の向上、ペット飼育を可能とするなど消費者(入居者)のライフスタイルに応じた仕組みの導入が新たなセールスポイントとなっています。また、都市部を中心とした地価高騰は郊外周辺部まで波及しており、資産効果経営の行き詰まりのなかで実需向けを対象に、新規物件の供給がマンション・戸建てと困難となっているなかで中古物件というストック重視の流通市場確立、リフォームやリノベーションなど補修・改築ビジネスへの期待が高まっています。
――このように不動産業界の歴史的変遷と業界特性を眺めてみますと、不動産業の発展と日本経済の動向は表裏一体でリンクしていることがわかります。しかし、この不動産業界は他ならず人間が動かしているわけで、その<人間>に肉薄して業界の動向・情報を引き出していくのが業界紙記者の役割なわけです。
新聞紙面を作るのが目的なのか、業界の来るべき未来に向けて行動していたのか――いまとなっては判然としませんが、現在の私は、この不動産業界に教えられ育てられたと思うこの頃です。それは代々木高校時代に得た多くの経験が基礎にあったからでしょう…そのことを一時も忘れることはありませんでした。