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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【9Ⅲ-15】 新書版『新聞記者』(その3)

2020年08月06日 15時15分28秒 | 第9部 映画館の片隅で
<第3章>私の文章修業
〔第15回〕<文章修業>はじまる(3) =編集長が呼んでるよ。=


――ここで、〔1973年秋の舞台〕へと、時間を遡ってみましょう。

この年、10月6日に「第4次中東戦争」が勃発。これを受け石油輸出機構(OPEC)加盟国のうちペルシア湾岸の6ヵ国が原油公示価格を70%引き上げることを発表し、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定したのです。石油価格が引き上げられたことでエネルギー源を中東の石油に依存していた日本は、1960年代以降にエネルギー革命を行い、それまでの石炭から石油に置き換えていたことから71年のニクソン・ショック(ドル・ショック)による経済の落ち込みから立ち直りかけていた景気に、直撃を受けました。
前年の列島改造ブームによる地価急騰で急激なインフレが発生していたことから、この石油価格引き上げに伴う「石油危機」は市場に出回るあらゆる商品に対し未曾有の便乗値上げを引き起こし、「狂乱物価」という造語まで現われています。政府はただちに「石油緊急対策要綱」を閣議決定し、「総需要抑制策」を採ったことで消費は急速に低迷、しかも大型公共事業が相次いで凍結・縮小され企業の設備投資を抑制する政策がとられています。結果的に翌74年の経済成長率は戦後初めてマイナスとなって、ここに「高度経済成長」が終焉しました。――遠く離れた中東の戦争が日本の経済成長を終わらせたのです。

――この頃の私といえば、高校を卒業とともに住込みで働いていた新聞店を辞めて独りアパート生活を始めるのですが、自分の殻に閉じこもって<冬眠>状態に入って3年が経過。1年置きに転居を繰り返し郊外から徐々に都心近くに生むようになり、やがて4度目の冬を迎えようとしていました。生活のためにも昼間は働きに出るのですが、仕事によっては夜勤も厭わないといったハードな日常を過ごしていました。
確かに独り暮らしの気ままな生活なのでしょうが、それでもさすがに4年目となると精神的に負担になってきたのか、「そろそろ、この生活から脱出しなくては…」と思いながらも、ついつい惰性で日常の生活に埋没してしまう。仕事先では通常の会話と業務態度なのでしょうが、一旦、自室に戻るとこれがいけない。

■言葉が出てこない。
精神的に負荷がかかっているのか今日的な症状としては鬱(ウツ)状態なのでしょうが、当時は<ウツ>という言葉はなく、強いていえば神経衰弱のありさま。確かに毎日のように昼夜問わず読書の日々を過ごしているわけで、それも本を読むだけ。少しはメモを取るなり読書録もしくは感想文でも記述すればよいのだろうが、何も書かないし書こうとはしない。ただ時折、本のなかで気になる箇所や文書、表現を見つけては線を引いたり簡単なメモを書きこむだけ。――しばし気が向くと街中へ出て昔付き合っていた学習会仲間などと居酒屋へ入って、最近の社会情勢や現在読んでいる本の内容などについて話をするのだが、それがいけない。世間話をしているうちはよいとして、一旦、社会の動きやその背景の内容に踏み込むと言葉が出てこない。これには困った。
相手が話すことや最近話題の本の内容に踏み込んで論議されても、よくわかる。昔の自分であったならば分からずじまいで、ただ解ったような顔をして頷いていただろうことでも、よく理解できる。確かに<冬眠>期間中に集中して本を読んでいた成果はあったのだろう。しかし、「それでは…」と相手の話した内容や社会情勢の幾つかについて自分の考えを述べようとして、ハタと息詰まる。言葉が出てこないのだ。そうです。言葉が何も出ない。

頭のなかには様々な知識や意見、批判や反論などが渦を巻いているのだが、言葉となって出てこない。まるで失語症にでもなったみたいだ。これにはさすがの自分も焦ってしまって背中に冷や汗が出る始末。相手の顔をみながら「何故だろう…」と考えるだけで、いつの間にか相手の話している内容が曖昧になってくる。自室に戻って相手との話しのあれこれを思い出しながら、自分に言葉が出てこないことを考えてみました。それは多分に「独り自室に閉じこもって何ら他人との会話がないからだ」とね。人間は他者との交わりのなかで生きている。それを拒否して自らの殻のなかに閉じこもっている。「自由に生活できている反動で、話したいことや自分の考えていることが体系的に言葉となっていかない」のだろうか。

――でも決定的なことは、日常的に読んでいる書物について受け身として読んでいるだけで何ら自らの意見や感想を表現していないことに、最大の欠点があるのではないか。例えば大学や専門学校などでは、専門とする分野を論文や討議で研究過程や方向性が明らかになってくる。ゼミに参加していれば担当する教授なり助手からの助言や研究文献などの提示を受ける。そのことによって論点を明らかにしていくのであろう。しかし私はただ独り黙々と好みに合った書物を読んでいるだけ。断片的な知識や応用があるのみ。「何とか体系的に論理構成ができないものか」…そのようなことを考える日々を過ごしていました。

■都会に居場所はない。
独り身の気楽さで、世の中が「オイルショックだ、何もかも値上がりしている」とか、「いろんな商品の値上がりに便乗してトイレットペーパーの売り惜しみが始まっている! 急いで買いに行かなくちゃ!」そんな噂を耳にしても、「そんなものかな」と思うだけ。なにしろ部屋のなかには家具など何もないし食事は外で食べているので食材を買うこともない。トイレットペーパーはアパートの共同トイレに備わっているので値段などに関心がない。
ただ、勤務先の仕事用車両のガソリン代が、それまでは月契約で「リットル当たり23円か24円」でガソリンスタンドと強気の交渉をしていたものが、オイルショックを機に主客転倒。スタンド側が「ガソリンはありません」の一点張りで売り惜しみを仕掛けてくる。しかもリットル当たり単価をこれまでの倍以上を提示してくるので、経営者は頭を抱えるしまつ。そのような情景が至るところで見受けられるようになりました。

やがて、その年の冬を迎えた頃。「…都会に自分の居場所はないな」と思うようになりました。そもそも自らの意思で東京へ出てきたわけではない。東北の中学を卒業と同時に親に追い出され、やむなく新聞店の2階で不自由な生活を余儀なくさせられた…そのような思いが強かったので、「なにも東京で生活することはない」との考えは早くからあったのですが、「それでは何処に住むのか」。それ以前に、「なにをもって、どのような仕事で働こうとしているのか」焦点がいつまでたっても定まらない。
その一方で精神的な重みが日々増してくるわけで、この原因は日々読書漬けの生活に起因しているとはいえ、ただそれだけではなかろうとの思いが強かったのです。それは多分に「都会生活に疲れている」その一言でしょう。東北の海と山の自然豊かな生活に慣れ親しんでいた少年が高層ビルと人混みに囲まれ、裏路地に棲まう生活を10年近く過ごしていることで疲れが滞留しているのだ。――でも、頭の片隅には、「この<冬眠状態>から抜けだし活動の場を見つけて、再び<激動の世界>へ舞い戻らなければ」との思いを強く感じていました。…その時期は何時なのか。

でも現実には「都会に自分の居場所はないな」と思いながらも、「都会生活に疲れている」一方で新たな生活の場、活動の場を積極的に見つける気にはなれない。――そんな思いが重なっているうちに新しい年が明けたのです。
1974年に入りました。しかし日常生活は何ら変わらない。精神的な負荷は益々重くなってくる。人と会わずに会話がない、本を読んでも文章は書かないし書き方が分からない…そのような堂々巡りの毎日を過ごしているうちに、寒いある日の夕方。布団に横になっていると私の寝ている上を大型犬、ドーベルマンらしい黒い動物が音もなく飛び越えて行くではないですか。「なんだ、これは!」現実と眩惑が入り混じっていく。ある日、ドアが開いた気配を感じたので振り向くと女性が独り立っていて衣服を脱ごうとする…。

池袋に出て久々に映画を観た帰りのことです。池袋には大きなデパートが二つあるのですが、そのうちのひとつのデパートに寄って最上階からさらに屋上に登って金網越しに下界を見詰めていました。遠くに山は見えず周囲に樹木は見当たりません。ただ眼下にビルと家屋が折り重なるように平坦に無限と思われるように広がっています。「これが都会か…」と思っているうちに、これらの景色が私にむかって競り上がってくる気配に圧倒され息苦しさを感じました。初めての経験です。「なんだ、これは…。もはや重症だな」そのような自分がハッキリと見えていたのです。もはや猶予はない―新たな行動を開始しなくては。

――この時代、1960年代に集団就職に限らず中学校を卒業し、何らかの理由で都会へ出てきて就職した若年労働者が一定の年齢に達したとき、そのまま都会に定着した割合はどの程度なのか分かりません。私の知る限り大半の人々が故郷に帰っていました。ただ、私など故郷を喪失した人間にとって帰りたくとも帰る場所がない。
だからといって何ら目的のない<都会の旅人>は、巨大都市・東京のなかを果てしなく彷徨しかないわけで…。むしろ、これから発展しそうな地方都市へ移って新たな生活の場を構築した方が賢明ではないか―と考えたわけです。

■新たな生活の場へ。
それから数か月後。余計なことを考えず何の宛てもなく、ましてや誰に頼ることもなく私は列車に飛び乗り、ともかく10年余り棲んでいた大都会・東京を離れることにしました。――地方都市のある街に降り立ち、駅前の区画整理途上のビル建設予定地と思われる空地が幾つも目立つ情景を眼にして「ここにしばらく住んでみるか」。そんな思いで一歩、新たな生活を始めることにしたのです。

何とか住まいだけは確保したのですが「はて。何の仕事をしようか」まったく宛はありません。無謀といえば無謀です。そこで喫茶店に入って手にした新聞に掲載されている求人広告欄で仕事を探すことにしました。先年のオイルショックを機に一本調子で右肩上がりの日本経済は一気に減速し不況の波が押し寄せていました。それでも紙面一杯に求人蘭は広がっています。
求人広告蘭を前に、20代後半の私が潜り込む仕事の一つや二つはあるだろうとの思いはあったのですが、何しろ簿記をはじめ事務仕事や機械工作、電気工事などこれといって何の資格ももっていない。高校4学年のとき思いたって沖縄渡航を試みたとき何も考えず、「とにかく沖縄の土を踏みしめてから考えよう」と無謀な計画でしたが、最終的に一本の細い紐を頼りに沖縄の旅を踏み出したことが思い出されました。

でも今回は「単なる旅行ではない。自分の生活、生き方そのものがかかっているのだ」との思いは強いのですが、何をしてよいのやらわからない。…新聞の募集広告を何度も見返しても何の目安もありません。そこで自分が経験した仕事を思い出しても住込みの新聞配達、樹脂加工工場、印刷工場、清掃作業くらいです。まぁ~ね。在京中はなんと申しますか、これ全て肉体労働の世界で働いていたわけで、それじゃ「机の上で働きましょう」と考えても何の知恵もわかない―それも当然でしょうね。結論的に「清掃作業であれば何とかできるか」との思いで、数社をピックアップして出かけてみました。

初めの1社。ビジネス街の一角に建つビルの清掃会社を訪ねると狭い事務所に年配の専務と名乗る人物がひとり机に座っていたのですが、来意を告げると応接セットの椅子を勧められました。専務は持参した履歴書を一瞥して、「東京ならいざ知らず、こんな地方都市では清掃作業は年寄りのやる仕事です。貴方はお若い。若い方に相応しい仕事に就かれた方がいいですよ」とね。
その言葉を聞いて、「若い方に相応しい仕事」の一言に衝撃を受けたのです。このように私の仕事に対してアドバイスを受けたのは初めてのことですし、「若い方に相応しい仕事」と言われても、これまで散々考えても思い浮かばず「清掃作業」に意を決して訪ねてきたのに…との思いが強かったのですが。

面接のあと専務と雑談の後、表通りに出たのですが頭のなかは「若い方に相応しい仕事」の言葉だけが渦巻いています。どこを歩いたのかわからぬまま気づくと繁華街へ出ていまして、近くに映画館の看板を見つけました。「まぁ、思い悩んだときは映画でも見るさ」それがこれまでの私の信条です。映画館のポスターに『金環蝕』が貼ってありました。この映画は、九頭竜川ダム汚職をモデルに保守政党の総選挙を巡る汚職事件を描いた石川達三の長編小説を映画化したもので、当時、話題となっていました。
映画は主要な配役に官房長官の仲代達矢、金融王に宇野重吉、代議士に三國連太郎などそうそうたる俳優の名が並んでおり重奏なストーリィ展開でした。物語が展開していくうちに政治新聞社の代表兼記者役として高橋悦史が登場し、この汚職事件の重要な秘密を握って自分の新聞にスクープとして記事にする直前に殺害されます。

高橋悦史は私の好きな俳優で渋い演技に心惹かれるものがあります。その彼が政治専門紙を発行、つまり政治がらみのゴシップ記事を話題に政界財界を嗅ぎまわっているトップ屋なのですが、トレンチコートを着て事件の真相へ迫っていく。「…しかも事件の秘密を握ったまま殺害される記者。嗚呼~これはロマンだねぇ」なんて、先ほどまでの「若い方に相応しい仕事」の一言に衝撃を受けたことなど忘れて高橋悦史の演技というより、秘密を握って殺される政治記者のカッコよさに酔っていました。

そうはいっても現実に戻ると、清掃会社を1社目で断られたわけで他の会社を回る気はしなくなって振りだしに戻り、再び喫茶店での新聞広告に掲載されている求人案内を見詰めます。しかも頭のなかには「若い方に相応しい仕事」をヒントにするのですが、相変わらず何の仕事もヒットしない。――その時です。紙面の片隅に「…記者 若干名募集 ○○経済新聞社」という文句が目についたのです。「新聞社の記者!」その一言が、数日前に観た映画『金環蝕』のなかで、汚職事件の秘密を握ったまま殺害される高橋悦史の記者姿が蘇ってきたのです。
この辺りは真に単純な思考法なのですが、これといった手がかりもないなかで「若い方に相応しい仕事」の言葉と、高橋悦史の「記者姿」がショートしただけです。考えるまでもなく新聞記者というのはハードな活動と頭を使う仕事、そのような仕事を気に留めるなんて我ながらまったく能天気な性格だこと。

「ダメ元でいいから、とにかく記者募集とやらの現場を見てみるか」そんな思いで数日後、一着だけのスーツを引っ張り出し指定された面接会場へノコノコ出かけました。会場のドアを開けてビックリ。広い待合室には70~80名はいるのではないかと思われるほど大勢の応募者が集まっていました。「コリャ、ダメだ」思わず声に出たほどです。オイルショックから数年経っていましたが、いまだ世の中は不況の最中です。仕事を探す人で溢れていたのですね。
ドアを閉め帰ろうとしたのですが、一着だけのスーツを着てワザワザ出かけてきたのです。再び喫茶店で求人広告を見る己の姿を思いだして、「ダメ元でいいから」と考え面接に来たのだから面接者に挨拶だけして帰るつもりで会場のなかに入りました。――面接から数日後、「採用」の通知を受け取ったときは半信半疑。「まさか…」の思いが先に立ったのですが、ともかく喫茶店で求人広告を見ることはなくなったことに安堵したものです。

■何故か営業回りを。
採用通知を受け指定された日時に新聞社を訪れました。ビル2階の本社は広く手前の総務部越しに奥まったところで編集部らしい人の動きがみられます。「はぁ。ここが新聞社か。自分が働く場としては似つかわしくないな」との思いが強く感じたのが入社一日目の感想です。奥の会議室へ通され担当者の挨拶に続いて、さっそく会社説明と研修が始まりました。ここで初めて新聞社の実態と自分がこれから担当するであろう仕事の内容を知らされた、というわけです。今回の応募で採用されたのは男子ばかり私を含めて5名、しかも同じ世代。

2日間の研修を受けて翌3日目から全員表に出て、各自独りで指定された企業の訪問が始まりました。私といえば、ついひと月前までグレーの作業服を着て清掃作業をしていたものが、いまではスーツに身を固め革靴で街中を歩く。しかし何ら違和感がない。――とはいえ要は新聞社が発行しているノート大の経済誌、その定期購読契約の営業をしてこい、というわけです。この経済誌は様々な企業の活動や新製品の紹介、競売情報、不渡り情報など細かな経済記事が週刊単位で掲載されているのですが、私にとっては何ら面白い冊子とは思えません。「面白くもない冊子を他人様に紹介するのも気が引けるなぁ」との思いが強い。
よくよく考えてみると求人広告に「営業・記者 若干名募集」と書いてあったな、と思い出しました。それを「…記者 若干名募集」だけに気がまわって今回の面接に応じたわけです。もし、「営業」という言葉を先に見つけていたならば応募することはなかったでしょうが。――このかた営業などという経験はないのだが、いまさら引き返すこともできません。ただ、2日間で受けた研修通りに実行していくしかありません。何とかなるでしょう。

その、「何とかなるでしょう。」そのままに、一ヵ月が経ったころ約20件もの契約がとれたのです。同期の他のメンバーは実績4~5件ほど、なかには実績ゼロのひとも。一ヵ月をたたずに2名が辞めていき、1名は編集の経験があることで編集部に配属されたので、購読契約の営業で残るのは私を含め2名。――この世は「数字」が全ての世界なのでしょうか。一日平均5社を回って一ヵ月間で約100社を訪問、実績約20件ですから20%の成績。新聞社は喜ぶ。担当者は鼻が高い。何故、これほどの数字が上げられたのでしょうね。我ながら不思議。

――入社から一ヵ月を過ぎたある日の夕方のことです。企業回りを終え帰社し机の上で資料整理をしていましたら、「オイ。編集長が呼んでるよ。」の声。…え。あの角刈り頭で強面、いつも眼鏡を額に乗せて渋い顔をして資料を読んでいる編集長に直接の面識はない。それなのに何んで自分が呼び出しを受けたのか。そっと編集部の方を見やりながら思いあぐねていました…。



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