<第3章>私の文章修業
〔第16回〕<文章修業>はじまる(4) =記者修業の道へ=
――都会に自分の居場所がない…そんな思いにとらわれたのも長い期間、都会の片隅で独り誰とも付き合いのないアパート生活を3年余り続けていたことで、独房に長期間幽閉され拘禁症状に追い込まれていたからでしょう。「嗚呼~私は都会を流離う囚人よ♪」そうさ、オレは詐欺師的心情をもった<都会の旅人>なのだ。この精神状態から脱却するには都会を離れるしかない…。
OH~大勢の女性が手を振っているぞ~! 別れの悲しみに泣き叫んでいるのかなァ…あれ?よく見ると手の甲を下に向けて上下に振っている。。。シッシ、ということだね。なんと薄情な奴らめ――都会のオナゴは、そんなものサ。
中学を卒業するまで生活していた東北の片隅に位置する村落を30年ぶりに訪れ、そこで再会したかつての文学少女が、やつれた表情をしていたので精神的に病んでいることに気付かされたのです。彼女は長年、独り読書に没頭し読んだ本の内容を誰とも話すことなく、ただ自分のなかに<思考の塊>として閉じ込めていたことは明らか。そのことで自分を追い詰めていたのでしょう。でも私は自分の立ち位置をハッキリと自覚していたので「精神的に病む」状態にまでは至っていませんでしたし、「許容範囲を過ぎると危ない」ということは認識していました。
それは、「私の登場を待っている世界があるのだ、きっと~」などと考える余地があったからです。もっとも何ら根拠のない勝手な思い込みですが、ね。しかし、ここには悲壮感もなく高揚感もない。ふと「そろそろ出かけましょうか」と思って身の回りの僅かばかりの荷物を知人に預け、一週間後には<大都会・東京>を脱出する列車に乗っていました。
地方都市へ移り住んだところで何ら生活の裏付けはなく、新たな仕事への目途もなし。でも、めげることもなく無謀ながら新聞社の面接を受けたところ採用通知が届いたわけです。研修を終え企業訪問を続けるうちに、新聞社が発行している経済誌の購読契約の営業実績は入社同期メンバーに比べ好調に推移していました。――ん?なんでだ。
■営業の本質をつかむ
仕事とはいえ企業を独りで訪問するなんて初めてのこと。しかも担当者と会って経済誌の購読を勧めるのですからね。我ながら無謀です。それじゃ入社早々の研修をそのまま実践したかというと、何もしない。企業訪問時の挨拶の仕方や名刺の差しだし方など基本的動作は研修通りなのですが、営業活動は「何もしない」のです。それなのに何故、購読契約が結べたのか。
入社して初めて新聞社が発行している経済誌を手に取ると、これがまったく面白いとは思えません。何故なら私はこれまで企業とか売上・営業活動とは無縁の生活をしていたので、経済誌のなかに何が書かれているのか、それがどのように役に立つのか関心がありません。それ故に「この冊子を勧めてこい」などといわれても、「はぁ~」と答えるだけ。しかも研修を終え企業訪問に向かう道すがら、「何をどのように話してよいのか」が全く分からない。
何しろ自分では面白くもない冊子を他人にどのように説明してよいのかね。それでも新聞社が指示した企業を訪問しなくてはならない。「まあ何とかなるさ」と考え、初めて訪問先のドアを開けました。すると、受付で来意をつげるとスンナリ担当者を呼んで応接間に通されました。担当者に名刺を渡し、こちらから「まことに勉強不足なのですが御社はどのようなお仕事をなされているでしょうか?」と切りだしました。
このあたり先方より先に話し始めた方が勝ち。こちらのボロが出ないと考えたわけです。その後はスムーズに話しが弾み何故か30分も話し込んでしまって、「あ。すみません…お忙しいところお時間をとらせてしまいまして。ここらでお暇致します」と腰を上げようとしましたら、先方が「ところで今日は何のご要件で来られたのですか?」と聞きます。
そこで「じつは当社が発行している経済誌をお勧めに伺ったのですが、いままでのお話ですと御社の方が充分な情報をお持ちのようですので、出しそびれてしまいました…」などと半分でまかせに言ったのですが、すると担当者は「そうですか。いや~貴方は当社の話しをよく聞いて下さった。ありがとうございます。…宜しければその冊子、購読しますよ」だって。
当方は経済誌の中身を説明していないし勧めてもいない。なのに先方から「購読したい」というのですからね。「あれ!」てなものです。――いくつかの企業を訪問しても同じパターンが続きます。当方は意図して営業活動は「何もしない」のではなく、何もできないし自覚に乏しい。しかし、初期の企業訪問を終えて購読契約の成果が表れた理由を自分なりに分析してみました。
ここには二つの理由があるのです。ひとつは企業訪問の際、新聞社の担当者が事前に連絡(アポイント)をとっていたこと。訪問企業側にすれば新聞社から連絡が入ると「当社に取材の申し込みか」と思っているのではないかと考え、このことをうまく応用したわけです。ふたつ目は、私自身が経済誌を単に冊子としてみないで「企業に関する情報誌」としての位置付けを行って、そのことを訪問先に強調したことです。
「…御社は同業者の情報は多く持っておられるでしょうが、他の業界や他社動向を知っていて損はありません。ここにその情報が週刊単位で手に入ります」とね。しかし内容には一切触れないし説明などしない。でも入社同期の他のメンバーは、この経済誌を冊子として売り込もうとしていたので、はなから相手にしてくれないわけです。
――まぁね。高校時代に社研部創設、写真部創設、記録映画の賛同者集めなど趣旨説明から行動指針まで熱を込めて語る…といった詐欺師的弁舌で乗り越えておりまして、初めての企業訪問でも当日が初仕事とは思えない「2~3年は実績のある態度」で対応したわけです。新聞配達店の争議の際にも店員の代表として大手新聞本社に乗込んで、「いま新聞店はスト状態に入っています。朝から新聞は配達していません」と冷ややかに申し出ました。そうです。私は現場に立つと日頃の「論理的に語るのが苦手ですぅ~」なんて言葉は何処に行ったのか、沈着冷静に堂々と話すことができるのです…だったかな。ん?我ながら不思議。
■編集長との出会い
――そんな日々を過ごしているうちに入社から一ヵ月余りが過ぎたある日の夕刻、私に対し編集長から呼び出しがありました。日頃、社内では挨拶程度の面識しかないのに不審に思いながら、編集長の机へ向かいました。すると「おお~来たか!」日頃、強面の編集長がにこやかに迎えてくれます。不気味です。「キミは毎日、企業を回るだろう。なにか面白い話はないかのぅ…」と広島弁で語ります。「面白い話と言われましても、どのようなことが面白いのですか?」と私。
「はは。面白い話というのはだなぁ、新しい商品を開発したとか売り出したとかいうんよ。それとかなぁ、新しく営業所をだすとか創業何周年の記念式典を催すとか、話題はいろいろあろうが…」と続きます。私にとって新商品の開発とか新しい営業所の話しなど面白いとは思わない。でも、編集部には編集長以下4~5名の編集スタッフがいるのですが、このメンバーでは訪問する企業も限られており週刊単位の取材では記事が回らない。そこで毎日、新しい企業を営業で回っている私に取材協力を依頼したというわけです。
編集長は私に向かって「何か面白い話題があったらメモに書いて出してくれんかのぅ」とね。確かに毎日平均4~5社は回っており、私くし的には購読契約の営業話しというより雑談しに行くようなものなのですが様々な企業の内情を聞くのは大変面白い。何しろ、ご飯用のフリカケだけを作って全国に販売している会社、消防車の特殊車両を専属に製作している企業、不動産会社など初めて知る世界に毎日触れるわけですからね。――そこで耳にした話題の幾つかをレポート用紙にまとめて企業案内や商品パンフ、担当者の名刺などを一式そろえて編集長に差しだしました。
すると編集長は、「アホ!新聞社でメモを書くちゅうんはのぉ、原稿用紙に書くんじゃ」だって。「そのように言われても原稿用紙を見たことも触ったこともありません」と私。困ったものだという顔で、若い女性記者に向かって「原稿用紙、まとめて渡しておけ」だってさ。その女性記者から藁半紙に15字10行詰で頭部をボンドで固めた、厚さ1センチほどの原稿用紙を数冊受け取りました。――それが新聞社における原稿用紙を初めて手にしたきっかけです。
編集長の依頼で、数日ごとに原稿用紙に訪問先の話題を箇条書的に書いて提出していました。すると半月を経た頃、原稿用紙を届けに行くと編集長は椅子に座って横を向いたまま、いきなり「おまえ、来週から編集部にこいや」だって。――あれ、なに言ってんのかな…そんな思いでしたが。私が編集部に移ることは社内でも調整済みだったらしく、翌週から経済誌の記者として動くことになりました。東京を離れて2ヵ月半、気づくと新聞社の記者となっていました。大丈夫かなぁ。。。原稿はおろか文章なんて何んにも書けないんだモン、僕…。
ひょんな経緯から経済新聞社へ入社して約2ヵ月。新入り記者として新たな世界を踏み出したのですが、私の人生に「記者稼業」というのは全く予定されていませんでしたし、まずもって経済記者たるものが何をやっているのか分からない。誰も教えてくれない。小説や映画、テレビで知る記者というのは取材して原稿・記事を書くイメージだけが先行して仕事の中味が見えない。確かに今回、新聞社を応募したのも映画に登場する政治ネタ中心の記者に「カッコイイな。秘密を握って殺される…ロマンだね」と思った程度。それが自分の予測を超えて記者稼業のワラジを履いてしまった、というよりも履かされてしまったわけです。
でも何故か、未知の世界とはいえ<記者>の仕事が全くできないとの思いはなかったのですね。ただ自分の意思が及ばないところで、いきなり<記者>の世界へ引っ張りだされたことに驚きと戸惑いがあっただけですが、なにしろ私は現場に強いのですから何とかなるものです…かな。
編集部への出仕初日。年配の記者・編集者3名と若い女性記者、それに同期入社の男子に囲まれて何をしてよいのか分からない。すると編集長が原稿1本をわたして「割付をしろ」との指示。原稿を割り付ける専門用紙の空いたスペースに、原稿の行数を計算して割りつけるものです。初めての作業で、しかも幾ら計算し考えても空白スペースに原稿の行数は入らない。隣の記者は忙しそうだし聞くほどのことはない。
…途方に暮れ、しばらくして編集長に「どうしても行数が入りません」と言うと、「行間を縮めりゃいいだろうが」だって。原稿を割りつける際に行と行の隙間(ピッチ)は一定の間隔が決められているのですが、紙面に無理やり原稿を押し込もうとするとピッチ間を狭くすることがあります。「なるほど」と思う前に、「何も教えずにいきなりの指示だもんなぁ…ムカつく~」とね。
■小料理屋学校の日々
本来、新聞社というのは組織規模の大小はあっても社会の動向を見極め、それを情報として迅速に正確に広範囲に広報することが求められるメディアです。近年、IT技術の発達でネット情報が氾濫しており若者を中心に新聞・冊子など紙媒体への依存は減少しています。しかし新聞・冊子など紙媒体には独自の情報伝達と記録し保存する役割があります。それだけ社会に向けた情報発信に対する責任と義務が課せられるわけで、製作する側としては人材の質が問われます。新聞社は世論をリードするだけの人材を育成していくのですが、登用する記者なり制作部門の人員は通常、大学なりメディア関連の専門学校をでた優秀?な人物を面接や試験を通じて選別し採用するのでしょう。でも、私が紛れ込んだ経済新聞社は都会からふらりと移り住んだ人物(私のこと)を試験もしないで面接だけで採用し、いきなり記者に登用したわけですからね。
――入社からしばらくして面接会場で私を担当した面接当人に採用理由を聞いたのですが、「あ、そうね。都会的な雰囲気がよかったからね。」だとさ。なんだこりゃ? 記者稼業のきっかけが「都会的な雰囲気がよかった」ことを理由に70~80名もの応募者のなかから選んでしまうなんて、正気じゃないよね。でも、この面接担当者によって私の新たな世界が広がったわけですし、まったく未知数の人物を記者に登用した編集長も何らかの思いがあったからでしょう。何重ものバリアーを張り巡らして、ここを通過したものを厳選し記者を登用する方法と、私のように「雰囲気」だけで採用し記者へ向かわせる…そのような世界もあるのですね。――結果的に新聞業界に一匹の<ヤクザ虫>が誕生しただけさ。
ただ、私としても4年近い<冬眠期間>を無為に過ごしていたわけではなく、1960年代末の<激動期>。まさに安保・反戦闘争という政治の季節に無自覚のまま巻き込まれるなか、自らの不甲斐なさに恥じ入って「新たな激動期が訪れたときに動じることなく対応できる思想性と対応力を日頃から養っておかなければならない」との思いが強く、自らを律していたわけです。
この<冬眠期間>に何をしていたかというと、基本的に社会科学分野の文献・書物を読み込み世界がどのような歴史と経緯で今日の情勢が広がっているか、との認識を得ました。そして文学・文芸・宗教の分野で人間の心の動き知恵などを学ばされました。それというのも経済学者・宇野弘蔵の著書に「読書は社会科学を縦軸に、文学を横軸に」といったことが書いてあったので、これをひとつの指針としていたわけです。
――さて。経済誌の記者となって当初は記事を書くことに苦労をしたのは確かですが、誰しも最初からスラスラ原稿が書けることはありません。編集部の先輩記者も「初めて取材したときは原稿に半日はかかった」と言われていました。私も初めは記事を書くことに時間はかかりましたが、毎日同じことをやっていれば慣れるわけです。そのうち完成した記事を頭に描いて取材することを覚えていきました。
しかし時間が経つと取材に記事にと慣れてくると物足りなさを感じます。そのような頃、編集長から「メシに付きあえ」という誘いを受けて週に1~2回、新聞社近くの小料理屋で編集長の酒の相手をすることになったのです。――そのことが、その後の記者生活への大きな足掛かりとなりました。本格的な「記者修業」の始まりです。
編集長は当時50代に入ったばかりでしょうか。大学卒業後、大手商社にはいって様々な業態を経験したのち日本経済新聞社の記者となります。その後、出身地の広島に戻って不動産関連の専門紙を自ら発行し現在も社主と編集責任者を兼ねているとのこと。ただ、現在は本業を休んで(休刊して)当経済誌の創刊にあたり新聞社の社主に頼まれ編集全般の「助っ人として雇われている」とのこと。「…だからのぅ。わしゃヨメさんを広島においてマンションに独り暮らしじゃ。それだから独り夕飯の相手がいないのでオマエを誘った」ということです。――だからというわけではないのでしょうが、「あのなぁ~あの女性記者がおろうが。彼女を誘っているのだがうまくいかんのじゃ…。なんとか口説いてくれんかのぅ~」だって。今日ではセクハラどころかパワハラもいいところです。私は「そのようなことは私などに頼むことではありません。ご自分で努力されることです…」と冷ややかに言います。
でも、実際には「新商品発表会や記念事業など、その企業にとって一度しかない機会だから大勢のメディアが集まる。そこで、テープカットなどの写真を撮るときは誰よりも前に出ろ」との教えは重要でした。そのためには事前に会場へ向かい誰もいない所で、テープカットという一瞬の機会を逃がさないためにカメラポジションを確保するようにしました。同じように他社の記者とは異なる核心を突いた質問を心がけることなど、その教えは多岐にわたります。それは、記者というのは「自分が親方」といった職人気質の世界のなかで、自らの体験を伝授された貴重な経験でありました。
この編集長との<小料理屋学校>は、時に独り住まいのマンション部屋だったりレストランや喫茶店などで繰り広げられ、新聞社へ在籍中の数年間にわたることになります。それは商社での取引事例や新聞社での記者経験などに裏打ちされた<記者魂>の根幹でしょうか。それは日常の編集作業中にも現われます。あるとき、取材先から経済誌に掲載された記事内容にクレームが付き訂正記事を書くことになりました。その原稿を編集長に渡しましたら、「訂正記事というのはだな、できるだけ小さく書くものだ。こんなに長々と書くバカがいるか。それからな、取材先には絶対、謝ったらいかん。必ず『もっといい記事書きますから、いまの記事以上の話題を下さい。』と食い下がれ」と。――そのことは、その後の記者生活のなかで重要な位置を占めることになります。
それは後年、ある記者が取材先から電話で「オレの言った内容と記事が違っている!読者に一軒一軒、間違っていました、といって土下座してこい!」と凄い剣幕で怒鳴られたことがあります。このとき、担当の記者が取材先の社長に直接会って「言った、言わない」の混戦模様になって最終的に謝罪する羽目になったのですが、編集長が言うように正面から謝罪すると先が続かなくなる。むしろ「もっといい記事書きますから、いい話題を下さい」と一見、責任所在を曖昧にする手法なのですが、一旦、印刷され読者に回った記事を撤回することはできませんし、当該取材先との関係性を今後とも続けるならば止む得ない手法です。――それにしても最近の大手新聞には「訂正お詫び」の欄が目立ちます。基本的に記事の裏付けを充分に取っていなかったからです。
■高橋亀吉『私の実践経済学』
ところで。「気付くと経済記者になっていました」と書くのは簡単なのですが、いざ「経済―」を頭に置く以上、現状の経済動向に対しどれだけ勉学や知識経験があるかというと、それが心もとない。当然だよね。先輩記者と現状の「石油危機」以降の経済政策、今後の景気動向の意見交換をしていますと先輩が「…それはケインズの理論そのもので―」などを言われて、少しはケインズ理論をかじっているものの、それ以上でも以下でもない。
この世には「泥縄式」とか「泥縄的」などという諺がありますが、要は「泥棒を捕らえて縄をなう」。つまり日頃からの準備を怠り、いざ重大局面が噴出して慌てて対応に取組むさまを表しているのですが、私に関しては「泥棒を捕らえて、やおら縄の原材料となる稲を用意するために苗を植えはじめる」といったところでしょうか。「泥棒さん、縄を作るのに当分日時を要します。それまで待っててね!…あら稲が育つのは天候次第だわ、どないしょ。」なぁ~んて言っておられない。
新聞社には銀行や証券会社、信用調査会社などが短期経済動向や経済指標など幾つかの資料を提供していますが、それはあくまでも表面的な現象の解説にすぎない。そこで当時、話題となっていた高橋亀吉の『私の実践経済学』(東洋経済新報社刊)、『日本経済躍進の根本要因』(日本経済新聞社刊)などを揃えて読み込みました。ところがこれが大変面白い。「…昭和48年以降の、いわゆる石油危機(石油価格の革命)に対しては、即時に、これを従来の物価高とは異質の重大新事態としてとらえることができた。以来、私はずっとその立場で物価問題をとらえ、そこからの経済を考察しているのである」と述べています。

また「計量経済学」に関しては、「…アメリカにおいて発達したものであって、根本の考え方は、過去のトレンド(趨勢)を基にし、これを先に延ばして予測するという手法である(略)…こうした性格をもつ計量経済学が日本に移入されたが、アメリカ式のやり方では日本の現実には合わない場合が少なくなかった」との指摘がなされています。この計量経済学に関しては、その後、不動産業界紙に移って様々な需給動向の統計分析を担当するのですが、どのマーケット分析資料も計量経済学的手法で理論立てするので現状の実態にあわず高橋亀吉の指摘を納得した経緯があります。
高橋亀吉は1891年(明治24年)生まれで山口県出身。家業が衰退し大阪へ丁稚奉公に出るのですが1年で辞めて、朝鮮へ渡航し貿易実務や請負仕事を通じて本格的に商売の勉強を志し早稲田大学の校外生として優秀な成績を収めています。その後、東洋経済新報社へ入社し編集長や取締役を歴任し、経済評論家・経済史研究者と知られ日本における「民間エコノミストの草分け的存在」と言われています。
なお、東洋経済新報社入社直後に記者として欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆しています。――この高橋亀吉の経済分析を参考に、その後の原稿の中味に重層感がでてきたかどうかは不明ですが。
■不動産業界紙へ移籍
新聞社の日常生活は取材先を訪ねて記事を書き、仕上がった原稿版下の校正など経済誌発行の作業が週刊単位で続きます。それ自体は慣れてくると退屈はしないのですが面白くもない。できれは大きな誌面で思い切った記事を書いてみたいとの思いが募ってきました。現状では企業の動向や人事などを取材し記事にしているのですが、ときに創立記念式典や新年賀詞交換会などに招かれ様々な人士と出逢う機会は多いのですが、難なくこなしてしまう。初めての取材先では経済誌の購読を依頼するのですが、「予算がない」と頭から拒否されることを除けば概ね成約します。――取材と営業を兼ね備えた記者として徐々に活動の場が広がっていきます。
原稿は最初のうちは編集長の手が入っていましたが、この頃になると編集長の原稿を見て「あ。ここ抜けていますよ…そろそろ引退ですか」などと茶化すことも。――そのようななか経済新聞社の社主が交代し本社が遠くへ移転する話が持ち上がりました。通勤には時間がかかりそうです。また社主が代わることで編集長も御役目御免となって古巣の自社経営の不動産専門紙へ戻ることになりました。さて、私はどうしよう…。
そのようなとき、レセプション会場などで時折会って居酒屋で世間話を何度かしたことのある不動産業界紙の記者に久しぶりに会って、実情を話したところ「うちの新聞社に来ないか」との話し。――実現するには少し時間がかかったのですが、不動産業界紙への移籍が決まりました。それは1980年春のことです。
〔第16回〕<文章修業>はじまる(4) =記者修業の道へ=
――都会に自分の居場所がない…そんな思いにとらわれたのも長い期間、都会の片隅で独り誰とも付き合いのないアパート生活を3年余り続けていたことで、独房に長期間幽閉され拘禁症状に追い込まれていたからでしょう。「嗚呼~私は都会を流離う囚人よ♪」そうさ、オレは詐欺師的心情をもった<都会の旅人>なのだ。この精神状態から脱却するには都会を離れるしかない…。
OH~大勢の女性が手を振っているぞ~! 別れの悲しみに泣き叫んでいるのかなァ…あれ?よく見ると手の甲を下に向けて上下に振っている。。。シッシ、ということだね。なんと薄情な奴らめ――都会のオナゴは、そんなものサ。
中学を卒業するまで生活していた東北の片隅に位置する村落を30年ぶりに訪れ、そこで再会したかつての文学少女が、やつれた表情をしていたので精神的に病んでいることに気付かされたのです。彼女は長年、独り読書に没頭し読んだ本の内容を誰とも話すことなく、ただ自分のなかに<思考の塊>として閉じ込めていたことは明らか。そのことで自分を追い詰めていたのでしょう。でも私は自分の立ち位置をハッキリと自覚していたので「精神的に病む」状態にまでは至っていませんでしたし、「許容範囲を過ぎると危ない」ということは認識していました。
それは、「私の登場を待っている世界があるのだ、きっと~」などと考える余地があったからです。もっとも何ら根拠のない勝手な思い込みですが、ね。しかし、ここには悲壮感もなく高揚感もない。ふと「そろそろ出かけましょうか」と思って身の回りの僅かばかりの荷物を知人に預け、一週間後には<大都会・東京>を脱出する列車に乗っていました。
地方都市へ移り住んだところで何ら生活の裏付けはなく、新たな仕事への目途もなし。でも、めげることもなく無謀ながら新聞社の面接を受けたところ採用通知が届いたわけです。研修を終え企業訪問を続けるうちに、新聞社が発行している経済誌の購読契約の営業実績は入社同期メンバーに比べ好調に推移していました。――ん?なんでだ。
■営業の本質をつかむ
仕事とはいえ企業を独りで訪問するなんて初めてのこと。しかも担当者と会って経済誌の購読を勧めるのですからね。我ながら無謀です。それじゃ入社早々の研修をそのまま実践したかというと、何もしない。企業訪問時の挨拶の仕方や名刺の差しだし方など基本的動作は研修通りなのですが、営業活動は「何もしない」のです。それなのに何故、購読契約が結べたのか。
入社して初めて新聞社が発行している経済誌を手に取ると、これがまったく面白いとは思えません。何故なら私はこれまで企業とか売上・営業活動とは無縁の生活をしていたので、経済誌のなかに何が書かれているのか、それがどのように役に立つのか関心がありません。それ故に「この冊子を勧めてこい」などといわれても、「はぁ~」と答えるだけ。しかも研修を終え企業訪問に向かう道すがら、「何をどのように話してよいのか」が全く分からない。
何しろ自分では面白くもない冊子を他人にどのように説明してよいのかね。それでも新聞社が指示した企業を訪問しなくてはならない。「まあ何とかなるさ」と考え、初めて訪問先のドアを開けました。すると、受付で来意をつげるとスンナリ担当者を呼んで応接間に通されました。担当者に名刺を渡し、こちらから「まことに勉強不足なのですが御社はどのようなお仕事をなされているでしょうか?」と切りだしました。
このあたり先方より先に話し始めた方が勝ち。こちらのボロが出ないと考えたわけです。その後はスムーズに話しが弾み何故か30分も話し込んでしまって、「あ。すみません…お忙しいところお時間をとらせてしまいまして。ここらでお暇致します」と腰を上げようとしましたら、先方が「ところで今日は何のご要件で来られたのですか?」と聞きます。
そこで「じつは当社が発行している経済誌をお勧めに伺ったのですが、いままでのお話ですと御社の方が充分な情報をお持ちのようですので、出しそびれてしまいました…」などと半分でまかせに言ったのですが、すると担当者は「そうですか。いや~貴方は当社の話しをよく聞いて下さった。ありがとうございます。…宜しければその冊子、購読しますよ」だって。
当方は経済誌の中身を説明していないし勧めてもいない。なのに先方から「購読したい」というのですからね。「あれ!」てなものです。――いくつかの企業を訪問しても同じパターンが続きます。当方は意図して営業活動は「何もしない」のではなく、何もできないし自覚に乏しい。しかし、初期の企業訪問を終えて購読契約の成果が表れた理由を自分なりに分析してみました。
ここには二つの理由があるのです。ひとつは企業訪問の際、新聞社の担当者が事前に連絡(アポイント)をとっていたこと。訪問企業側にすれば新聞社から連絡が入ると「当社に取材の申し込みか」と思っているのではないかと考え、このことをうまく応用したわけです。ふたつ目は、私自身が経済誌を単に冊子としてみないで「企業に関する情報誌」としての位置付けを行って、そのことを訪問先に強調したことです。
「…御社は同業者の情報は多く持っておられるでしょうが、他の業界や他社動向を知っていて損はありません。ここにその情報が週刊単位で手に入ります」とね。しかし内容には一切触れないし説明などしない。でも入社同期の他のメンバーは、この経済誌を冊子として売り込もうとしていたので、はなから相手にしてくれないわけです。
――まぁね。高校時代に社研部創設、写真部創設、記録映画の賛同者集めなど趣旨説明から行動指針まで熱を込めて語る…といった詐欺師的弁舌で乗り越えておりまして、初めての企業訪問でも当日が初仕事とは思えない「2~3年は実績のある態度」で対応したわけです。新聞配達店の争議の際にも店員の代表として大手新聞本社に乗込んで、「いま新聞店はスト状態に入っています。朝から新聞は配達していません」と冷ややかに申し出ました。そうです。私は現場に立つと日頃の「論理的に語るのが苦手ですぅ~」なんて言葉は何処に行ったのか、沈着冷静に堂々と話すことができるのです…だったかな。ん?我ながら不思議。
■編集長との出会い
――そんな日々を過ごしているうちに入社から一ヵ月余りが過ぎたある日の夕刻、私に対し編集長から呼び出しがありました。日頃、社内では挨拶程度の面識しかないのに不審に思いながら、編集長の机へ向かいました。すると「おお~来たか!」日頃、強面の編集長がにこやかに迎えてくれます。不気味です。「キミは毎日、企業を回るだろう。なにか面白い話はないかのぅ…」と広島弁で語ります。「面白い話と言われましても、どのようなことが面白いのですか?」と私。
「はは。面白い話というのはだなぁ、新しい商品を開発したとか売り出したとかいうんよ。それとかなぁ、新しく営業所をだすとか創業何周年の記念式典を催すとか、話題はいろいろあろうが…」と続きます。私にとって新商品の開発とか新しい営業所の話しなど面白いとは思わない。でも、編集部には編集長以下4~5名の編集スタッフがいるのですが、このメンバーでは訪問する企業も限られており週刊単位の取材では記事が回らない。そこで毎日、新しい企業を営業で回っている私に取材協力を依頼したというわけです。
編集長は私に向かって「何か面白い話題があったらメモに書いて出してくれんかのぅ」とね。確かに毎日平均4~5社は回っており、私くし的には購読契約の営業話しというより雑談しに行くようなものなのですが様々な企業の内情を聞くのは大変面白い。何しろ、ご飯用のフリカケだけを作って全国に販売している会社、消防車の特殊車両を専属に製作している企業、不動産会社など初めて知る世界に毎日触れるわけですからね。――そこで耳にした話題の幾つかをレポート用紙にまとめて企業案内や商品パンフ、担当者の名刺などを一式そろえて編集長に差しだしました。
すると編集長は、「アホ!新聞社でメモを書くちゅうんはのぉ、原稿用紙に書くんじゃ」だって。「そのように言われても原稿用紙を見たことも触ったこともありません」と私。困ったものだという顔で、若い女性記者に向かって「原稿用紙、まとめて渡しておけ」だってさ。その女性記者から藁半紙に15字10行詰で頭部をボンドで固めた、厚さ1センチほどの原稿用紙を数冊受け取りました。――それが新聞社における原稿用紙を初めて手にしたきっかけです。
編集長の依頼で、数日ごとに原稿用紙に訪問先の話題を箇条書的に書いて提出していました。すると半月を経た頃、原稿用紙を届けに行くと編集長は椅子に座って横を向いたまま、いきなり「おまえ、来週から編集部にこいや」だって。――あれ、なに言ってんのかな…そんな思いでしたが。私が編集部に移ることは社内でも調整済みだったらしく、翌週から経済誌の記者として動くことになりました。東京を離れて2ヵ月半、気づくと新聞社の記者となっていました。大丈夫かなぁ。。。原稿はおろか文章なんて何んにも書けないんだモン、僕…。
ひょんな経緯から経済新聞社へ入社して約2ヵ月。新入り記者として新たな世界を踏み出したのですが、私の人生に「記者稼業」というのは全く予定されていませんでしたし、まずもって経済記者たるものが何をやっているのか分からない。誰も教えてくれない。小説や映画、テレビで知る記者というのは取材して原稿・記事を書くイメージだけが先行して仕事の中味が見えない。確かに今回、新聞社を応募したのも映画に登場する政治ネタ中心の記者に「カッコイイな。秘密を握って殺される…ロマンだね」と思った程度。それが自分の予測を超えて記者稼業のワラジを履いてしまった、というよりも履かされてしまったわけです。
でも何故か、未知の世界とはいえ<記者>の仕事が全くできないとの思いはなかったのですね。ただ自分の意思が及ばないところで、いきなり<記者>の世界へ引っ張りだされたことに驚きと戸惑いがあっただけですが、なにしろ私は現場に強いのですから何とかなるものです…かな。
編集部への出仕初日。年配の記者・編集者3名と若い女性記者、それに同期入社の男子に囲まれて何をしてよいのか分からない。すると編集長が原稿1本をわたして「割付をしろ」との指示。原稿を割り付ける専門用紙の空いたスペースに、原稿の行数を計算して割りつけるものです。初めての作業で、しかも幾ら計算し考えても空白スペースに原稿の行数は入らない。隣の記者は忙しそうだし聞くほどのことはない。
…途方に暮れ、しばらくして編集長に「どうしても行数が入りません」と言うと、「行間を縮めりゃいいだろうが」だって。原稿を割りつける際に行と行の隙間(ピッチ)は一定の間隔が決められているのですが、紙面に無理やり原稿を押し込もうとするとピッチ間を狭くすることがあります。「なるほど」と思う前に、「何も教えずにいきなりの指示だもんなぁ…ムカつく~」とね。
■小料理屋学校の日々
本来、新聞社というのは組織規模の大小はあっても社会の動向を見極め、それを情報として迅速に正確に広範囲に広報することが求められるメディアです。近年、IT技術の発達でネット情報が氾濫しており若者を中心に新聞・冊子など紙媒体への依存は減少しています。しかし新聞・冊子など紙媒体には独自の情報伝達と記録し保存する役割があります。それだけ社会に向けた情報発信に対する責任と義務が課せられるわけで、製作する側としては人材の質が問われます。新聞社は世論をリードするだけの人材を育成していくのですが、登用する記者なり制作部門の人員は通常、大学なりメディア関連の専門学校をでた優秀?な人物を面接や試験を通じて選別し採用するのでしょう。でも、私が紛れ込んだ経済新聞社は都会からふらりと移り住んだ人物(私のこと)を試験もしないで面接だけで採用し、いきなり記者に登用したわけですからね。
――入社からしばらくして面接会場で私を担当した面接当人に採用理由を聞いたのですが、「あ、そうね。都会的な雰囲気がよかったからね。」だとさ。なんだこりゃ? 記者稼業のきっかけが「都会的な雰囲気がよかった」ことを理由に70~80名もの応募者のなかから選んでしまうなんて、正気じゃないよね。でも、この面接担当者によって私の新たな世界が広がったわけですし、まったく未知数の人物を記者に登用した編集長も何らかの思いがあったからでしょう。何重ものバリアーを張り巡らして、ここを通過したものを厳選し記者を登用する方法と、私のように「雰囲気」だけで採用し記者へ向かわせる…そのような世界もあるのですね。――結果的に新聞業界に一匹の<ヤクザ虫>が誕生しただけさ。
ただ、私としても4年近い<冬眠期間>を無為に過ごしていたわけではなく、1960年代末の<激動期>。まさに安保・反戦闘争という政治の季節に無自覚のまま巻き込まれるなか、自らの不甲斐なさに恥じ入って「新たな激動期が訪れたときに動じることなく対応できる思想性と対応力を日頃から養っておかなければならない」との思いが強く、自らを律していたわけです。
この<冬眠期間>に何をしていたかというと、基本的に社会科学分野の文献・書物を読み込み世界がどのような歴史と経緯で今日の情勢が広がっているか、との認識を得ました。そして文学・文芸・宗教の分野で人間の心の動き知恵などを学ばされました。それというのも経済学者・宇野弘蔵の著書に「読書は社会科学を縦軸に、文学を横軸に」といったことが書いてあったので、これをひとつの指針としていたわけです。
――さて。経済誌の記者となって当初は記事を書くことに苦労をしたのは確かですが、誰しも最初からスラスラ原稿が書けることはありません。編集部の先輩記者も「初めて取材したときは原稿に半日はかかった」と言われていました。私も初めは記事を書くことに時間はかかりましたが、毎日同じことをやっていれば慣れるわけです。そのうち完成した記事を頭に描いて取材することを覚えていきました。
しかし時間が経つと取材に記事にと慣れてくると物足りなさを感じます。そのような頃、編集長から「メシに付きあえ」という誘いを受けて週に1~2回、新聞社近くの小料理屋で編集長の酒の相手をすることになったのです。――そのことが、その後の記者生活への大きな足掛かりとなりました。本格的な「記者修業」の始まりです。
編集長は当時50代に入ったばかりでしょうか。大学卒業後、大手商社にはいって様々な業態を経験したのち日本経済新聞社の記者となります。その後、出身地の広島に戻って不動産関連の専門紙を自ら発行し現在も社主と編集責任者を兼ねているとのこと。ただ、現在は本業を休んで(休刊して)当経済誌の創刊にあたり新聞社の社主に頼まれ編集全般の「助っ人として雇われている」とのこと。「…だからのぅ。わしゃヨメさんを広島においてマンションに独り暮らしじゃ。それだから独り夕飯の相手がいないのでオマエを誘った」ということです。――だからというわけではないのでしょうが、「あのなぁ~あの女性記者がおろうが。彼女を誘っているのだがうまくいかんのじゃ…。なんとか口説いてくれんかのぅ~」だって。今日ではセクハラどころかパワハラもいいところです。私は「そのようなことは私などに頼むことではありません。ご自分で努力されることです…」と冷ややかに言います。
でも、実際には「新商品発表会や記念事業など、その企業にとって一度しかない機会だから大勢のメディアが集まる。そこで、テープカットなどの写真を撮るときは誰よりも前に出ろ」との教えは重要でした。そのためには事前に会場へ向かい誰もいない所で、テープカットという一瞬の機会を逃がさないためにカメラポジションを確保するようにしました。同じように他社の記者とは異なる核心を突いた質問を心がけることなど、その教えは多岐にわたります。それは、記者というのは「自分が親方」といった職人気質の世界のなかで、自らの体験を伝授された貴重な経験でありました。
この編集長との<小料理屋学校>は、時に独り住まいのマンション部屋だったりレストランや喫茶店などで繰り広げられ、新聞社へ在籍中の数年間にわたることになります。それは商社での取引事例や新聞社での記者経験などに裏打ちされた<記者魂>の根幹でしょうか。それは日常の編集作業中にも現われます。あるとき、取材先から経済誌に掲載された記事内容にクレームが付き訂正記事を書くことになりました。その原稿を編集長に渡しましたら、「訂正記事というのはだな、できるだけ小さく書くものだ。こんなに長々と書くバカがいるか。それからな、取材先には絶対、謝ったらいかん。必ず『もっといい記事書きますから、いまの記事以上の話題を下さい。』と食い下がれ」と。――そのことは、その後の記者生活のなかで重要な位置を占めることになります。
それは後年、ある記者が取材先から電話で「オレの言った内容と記事が違っている!読者に一軒一軒、間違っていました、といって土下座してこい!」と凄い剣幕で怒鳴られたことがあります。このとき、担当の記者が取材先の社長に直接会って「言った、言わない」の混戦模様になって最終的に謝罪する羽目になったのですが、編集長が言うように正面から謝罪すると先が続かなくなる。むしろ「もっといい記事書きますから、いい話題を下さい」と一見、責任所在を曖昧にする手法なのですが、一旦、印刷され読者に回った記事を撤回することはできませんし、当該取材先との関係性を今後とも続けるならば止む得ない手法です。――それにしても最近の大手新聞には「訂正お詫び」の欄が目立ちます。基本的に記事の裏付けを充分に取っていなかったからです。
■高橋亀吉『私の実践経済学』
ところで。「気付くと経済記者になっていました」と書くのは簡単なのですが、いざ「経済―」を頭に置く以上、現状の経済動向に対しどれだけ勉学や知識経験があるかというと、それが心もとない。当然だよね。先輩記者と現状の「石油危機」以降の経済政策、今後の景気動向の意見交換をしていますと先輩が「…それはケインズの理論そのもので―」などを言われて、少しはケインズ理論をかじっているものの、それ以上でも以下でもない。
この世には「泥縄式」とか「泥縄的」などという諺がありますが、要は「泥棒を捕らえて縄をなう」。つまり日頃からの準備を怠り、いざ重大局面が噴出して慌てて対応に取組むさまを表しているのですが、私に関しては「泥棒を捕らえて、やおら縄の原材料となる稲を用意するために苗を植えはじめる」といったところでしょうか。「泥棒さん、縄を作るのに当分日時を要します。それまで待っててね!…あら稲が育つのは天候次第だわ、どないしょ。」なぁ~んて言っておられない。
新聞社には銀行や証券会社、信用調査会社などが短期経済動向や経済指標など幾つかの資料を提供していますが、それはあくまでも表面的な現象の解説にすぎない。そこで当時、話題となっていた高橋亀吉の『私の実践経済学』(東洋経済新報社刊)、『日本経済躍進の根本要因』(日本経済新聞社刊)などを揃えて読み込みました。ところがこれが大変面白い。「…昭和48年以降の、いわゆる石油危機(石油価格の革命)に対しては、即時に、これを従来の物価高とは異質の重大新事態としてとらえることができた。以来、私はずっとその立場で物価問題をとらえ、そこからの経済を考察しているのである」と述べています。

また「計量経済学」に関しては、「…アメリカにおいて発達したものであって、根本の考え方は、過去のトレンド(趨勢)を基にし、これを先に延ばして予測するという手法である(略)…こうした性格をもつ計量経済学が日本に移入されたが、アメリカ式のやり方では日本の現実には合わない場合が少なくなかった」との指摘がなされています。この計量経済学に関しては、その後、不動産業界紙に移って様々な需給動向の統計分析を担当するのですが、どのマーケット分析資料も計量経済学的手法で理論立てするので現状の実態にあわず高橋亀吉の指摘を納得した経緯があります。
高橋亀吉は1891年(明治24年)生まれで山口県出身。家業が衰退し大阪へ丁稚奉公に出るのですが1年で辞めて、朝鮮へ渡航し貿易実務や請負仕事を通じて本格的に商売の勉強を志し早稲田大学の校外生として優秀な成績を収めています。その後、東洋経済新報社へ入社し編集長や取締役を歴任し、経済評論家・経済史研究者と知られ日本における「民間エコノミストの草分け的存在」と言われています。
なお、東洋経済新報社入社直後に記者として欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆しています。――この高橋亀吉の経済分析を参考に、その後の原稿の中味に重層感がでてきたかどうかは不明ですが。
■不動産業界紙へ移籍
新聞社の日常生活は取材先を訪ねて記事を書き、仕上がった原稿版下の校正など経済誌発行の作業が週刊単位で続きます。それ自体は慣れてくると退屈はしないのですが面白くもない。できれは大きな誌面で思い切った記事を書いてみたいとの思いが募ってきました。現状では企業の動向や人事などを取材し記事にしているのですが、ときに創立記念式典や新年賀詞交換会などに招かれ様々な人士と出逢う機会は多いのですが、難なくこなしてしまう。初めての取材先では経済誌の購読を依頼するのですが、「予算がない」と頭から拒否されることを除けば概ね成約します。――取材と営業を兼ね備えた記者として徐々に活動の場が広がっていきます。
原稿は最初のうちは編集長の手が入っていましたが、この頃になると編集長の原稿を見て「あ。ここ抜けていますよ…そろそろ引退ですか」などと茶化すことも。――そのようななか経済新聞社の社主が交代し本社が遠くへ移転する話が持ち上がりました。通勤には時間がかかりそうです。また社主が代わることで編集長も御役目御免となって古巣の自社経営の不動産専門紙へ戻ることになりました。さて、私はどうしよう…。
そのようなとき、レセプション会場などで時折会って居酒屋で世間話を何度かしたことのある不動産業界紙の記者に久しぶりに会って、実情を話したところ「うちの新聞社に来ないか」との話し。――実現するには少し時間がかかったのですが、不動産業界紙への移籍が決まりました。それは1980年春のことです。