<第3章>私の文章修業
〔第17回〕東京新聞社会部・望月衣塑子記者(1)
業界紙誌というのは食品、機械、農業・漁業、自動車、遊戯、量販店など全国に存在する各種産業界の数だけ存在するといっても過言ではありません。発行母体が業界を取りまとめる団体事務局、あるいは新聞社や出版社などによって紙誌の編集方針・内容は大きく異なりますが、なかには個人で限られた企業とエリアを対象に堅実に発行されているケースもあります。ただ編集内容が基本的に共通しているのは、業界内企業の動きをはじめ新商品や販売動向また企業および監督官庁の人事異動などでしょうが、重要なのは業界動向を左右する法律や条例の改定、新たな施策などの情報です。なかでもマネジメントに関する提言は読者層の関心事です。
私が所属していた不動産業界紙は、住宅・建設・不動産業に関わる企業・業者の動向を基本に新商品や技術革新などを情報として提供していました。ただ1980年代から90年代にかけての不動産業界は大きな<変革期>に直面しており、宅建業法の改正や開発指導要綱の制定、流通機構の構築、一方で不動産広告の表示・景品規制が強化された時期でした。それは、その後の業界活性化に向けての基本構想が実現していく過程であり、それだけに日々紙面に反映させる内容への取材と裏付け資料の作成に追われる毎日でした。
ただ、これら一連の取材活動は私にとって表面的なことで、基本となるのは住宅・建設・不動産業界の動向把握のための「基礎資料」の収集と分析、そこで得た市場特性を記事として紙面に反映させることでした。概ね1ヵ月毎・3ヵ月毎・半年毎と一定の期間に区分した市場動向のミクロ的な状況を把握したうえで、マクロ的な傾向を判断し解説していくというものです。そこには業界内部の動向を熟知し記事を発表するタイミングに配慮するということが求められていました。
紙面というのは<生き物>です。その生き物を生み出し管理していく作業は基本的に「記事」として文章を書き連ねていくのですが、一旦、生み出した<生き物>は勝手に増殖し拡散していきます。記事を生み出す記者としては、毎日が「試験」に立ち向かっている気分です。試験に解答はなく記事の内容は全て読者が判断するわけで、そこには赤点は許されません。当然、追試はありません。――<ズル休>なんてとんでもない。
…な~んて言いながらも、夜遅くまで締切りに向かって懸命にペンを走らせていると電話が。「…なんだべな」と思って受話器をとると、住宅会社の社長から「メシ食いにいかない?」だって。そこでね、ペンをピョンと放り出してそそくさと繁華街へ――高校時代に期末試験前日というのに、ボーリングへ行ったり映画を見に行ったりしてましたが。ま、いつまでたってもいい加減な性格は変わっておりません―だったよね?…え。原稿どうするの、って。心配ご無用、何とかなるもので~すよ。ぶふ。
――10年ほど前まで、「紅茶を飲むのにティパックの紐がない!そうだ、紅茶会社に抗議の手紙を出そう。…でも書けな~い」などとほざいていた私が、いつの間にか記事を、いや<文章>と格闘する毎日を送っているのですからね。――ましてや新聞配達をしていた青年が何故か新聞を制作する立場になってしまった。でも、同じ新聞記者でも業界紙記者と日刊紙の記者とはどのように違うのでしょうか。
■何故、望月衣塑子記者が<時の人>となったのか。
東京新聞・社会部の望月衣塑子記者が一躍<時の人>となったのは、毎日午前中に開かれる政府の定例記者会見の席上、菅義偉内閣官房長官に対し喰い込んだ質問を重ねたことです。官房長官の会見には報道機関各社の政治部記者が出席しているのですが、政治部は主に内閣や国会議員を取材し国の政策や外交について発信しています。
一方、望月記者が所属する社会部は事件や疑惑問題を取材し、政治家や検察など権力と対峙する機会が多いのです。その日の望月記者の行動は、記者会見の席に漂う「同調圧力」や「空気を読まない」といった雰囲気のなかで、意外性が賛同に変わったことに関心が寄せられたからでしょう。
東京新聞は戦前から都民の身近な新聞として親しまれていたのですが、戦時体制下では国策に沿った夕刊紙として発行されていました。1967年9月、中部日本新聞社(名古屋)が東京新聞社の東京新聞の発行と編集・販売などそれに付帯する一切の業務を譲り受け、10月1日付から「東京新聞」は中日グループの関東地方の基幹紙として再スタートを切った経緯があります。
望月記者は大学卒業後、中日新聞社に入社し東京本社へ配属。東京新聞の一記者として千葉支局、横浜支局で事件取材に明け暮れ、本社社会部で東京地方検察庁特別捜査部を担当。結婚・育児を経て経済部に所属し、2014年4月から解禁となった武器輸出や軍学共同の現状を取材していました。その後、再び社会部となり2017年4月からは「森友・加計問題」の取材チームの一員として、その背景を追いかけています。現在、社会部遊軍。

望月記者が菅官房長官の会見に初めて出席したのが17年6月6日のこと。それまで内閣記者会見どころか政治部にも所属したことのない彼女が永田町の首相官邸に足を踏み入れ、菅義偉内閣官房長官の定例記者会見に出席したわけで、文部科学省の前事務次官・前川喜平に関する質問を幾つか行なっています。――その後、望月記者が著した新書版『新聞記者』(角川書店=17年10月発行)によると、当日は「初めて出席した記者会見があっけなく終わりそうな雰囲気だったので、質問するつもりはなかったが思わず手を上げた」そうです。
「新聞記者として初めて味わう記者会見室の独特の雰囲気に、さすがに緊張感を覚えながらも幾つかの質問を繰り出した」。しかし、菅官房長官から返された冷淡で無愛想な反応。そして「木を鼻でくくったような態度」。それでも「質問が長いし我ながらしつこいと思う」と、その日の会見の様子を望月記者は記述しています。では何故、望月記者は初めての記者会見の席で「質問するつもりはなかった」のに、「幾つかの質問を繰り出した」のでしょうか。――そこには彼女の生い立ちと、新聞記者に対する姿勢が現われています。
【1】望月衣塑子記者は東京都出身。父親は記者、母親は演劇関係者の家庭に生まれる。多感な幼少女期を経てジャーナリストへの興味をもったのが、母親から勧められた『南ア・アパルトヘイト共和国』(1989年)。フォトジャーナリストの吉田ルイ子が人種隔離政策を合法的に推進している南アフリカ共和国の日常を写真と文とで伝えたもの。「自分の身の回りだけではなく、世界で何が起きているか常に関心を向ける」その思いが伝わった一冊で、吉田ルイ子に対する関心が増していったのです。
その吉田ルイ子を追ってジャーナリスト志向が強まり、英語を学ぶとともに海外へ留学。大学卒業に伴う就職活動で大手新聞社を受けるが全社、筆記や二次試験で落とされる。並行して民放のテレビ局を受けたが面接官から「報道を希望しても貫けない。新聞社に行けば」と最終面接に進む前に落ちてしまった。そこでブロック紙の北海道新聞と東京新聞を受け、ともに筆記試験をクリアし最終面接に進む。先に東京新聞から入社内定を受けたことで2000年4月、ここに望月記者の誕生となる。
新聞社にも一般企業と同じく新入社員研修があるわけで、入社当初、中日新聞名古屋本社で社会部や運動部、写真部の見習いを経験。ここで記事の書き方や写真の撮り方など新聞記者の基本を学ぶわけです。次に研修に組み込まれていたのが実際に新聞を配達すること。愛知県内の新聞配達店に住込み、印刷されたばかりの新聞を各家庭へ配達する過程を経験する。新聞に折り込みチラシを挟み込み雨の日も風の日も原付バイクで読者の元へ届ける作業は、望月記者にとって新鮮だったようだ。
研修を終え8月下旬に東京新聞千葉支局へ配属。支局記者の原点といえる警察署回りで幾多の事件を経験するのだが、それは他紙との競争でもある。やがて本社社会部へ異動。幾つかの実績を重ね、その過程で大手新聞社からの誘いを受けるのだが断って、司法担当へ。ここで「日歯連事件」に遭遇する。しかし彼女自身の取材活動はトラブルを抱えることとなり、結果的に本社の内部部署への異動を命じられる。
【2】内部部署への異動先として指示されたのが整理部でした。紙面を作る側として提稿された記事をトップニュース(紙面トップ)、セカンドニュースと分類し見出しなどを付けて、写真部から提出された写真のなかからカットを選び、コンピュータの画面上でレイアウトしていく一連の作業を行います。読者の読みやすい紙面、一息つける囲み記事を紙面全体の配置に工夫しながら、一方で時間に追われながら製作していく。
望月記者は千葉支局を皮切りに横浜支局や社会部などで、事件を追い続ける記者人生を短期間で経験していただけに、この整理部での経験は総体的な紙面や新聞全体を俯瞰できる感覚を学ぶ。ここで「世の中は事件だけで構成されているわけではない」ことに気付かされ、視野が大きく広がったことで記者生活にプラスとなっています。それは現場の記者が命をかける思いで取材している。「その結晶となる原稿に対して整理部が全力で臨まなければ、現場記者は激怒するだろう」その思いを強くしたのです。
内勤が1年半過ぎても異動の気配は伝わってこない。現場で取材がしたい思いは強いのですが転籍、すなわち移籍の考えが強く持ち上がってきます。新聞社へ入社から数年で望月記者は実力を発揮し、これまで入社試験では採用されなかった大手新聞社、朝日と読売から誘いを受けるのです。それは社会部担当時代の取材が評価されたのかテレビ、新聞と幾つかの報道機関から誘いを受けたなかでのこと。なかでも読売新聞には本来憧れていたこともあって「読売新聞に移ろう」とほぼ決めた直後に父に会います。
望月記者の父親は業界紙の記者として活動しており、彼女が演劇の道かジャーナリストか迷っていたとき記者の大先輩である父親の体験談がジャーナリストへの道を志すようになっています。その父を会社に訪ね赤提灯で杯を傾けながら大手新聞社からの誘いを話し、読売への移籍に背中を押して欲しいとの思いがあったのです。しかし父は「読売だけは嫌なんだよ」と意外な言葉に驚きます。父親は10代から学生運動にのめり込んで安保闘争などに明け暮れ、権力組織が嫌いという考えでした。その父は60歳の定年前に勤めていた会社が倒産し失業。病気が見つかって1年半後の2010年12月に亡くなっています。
内勤が続く過程で日本テレビの清水潔と会う機会を得ます。写真週刊誌『FOCUS』編集部で活躍していたときの清水潔に畏敬の思いを抱いていたのですが、或るストーカー事件で県警より先に犯人を特定したことや某県警の不祥事を暴いたことなど「調査報道」を眼のあたりにして、事件取材記者として雲の上の存在としての思いがあったのです。ここには真実を追求していく手法や取材対象者の口説き方などは、到底まねできない存在でした。
そのような清水潔と会って他紙への移籍を相談したところ、活字媒体と映像媒体の違いを一番に挙げて「東京新聞で記者を続けた方がいいのじゃないか」との言葉をかけられている。ここでは新聞や雑誌が面白いと感じるものをテレビが同じように感じるとは限らない傾向や、日々のニュース番組では深く掘り下げられるテーマよりも広く浅いものが求められることなどを教えてもらっている。
【3】やがて朝日新聞が「森友問題」をスクープした。2017年2月のこと。焦る思いを込めて編集長に直訴のメールを直接送る。「森友問題は安倍昭恵夫人や財務省に波及していく可能性があります。東京新聞でも取材した方がいいと思う」といった内容で。翌日、社会部の部長から電話があって、「森友問題を追うチームに入るように」との指示を受けています。このチームは10名程でメインは政治部、社会部から加わったのは望月記者だけ。
チーム結成の背景には望月記者が編集長に送った1通のメールを受けて、編集長はすぐさま各部署の部長を招集し「重点を置いて行こう」と新たな方針が示されたことによります。編集長から追って「ありがとう」とのメールが望月記者に届けられた。ここには風通しのよい編集部内部の環境と、編集長の機動力と判断の素早さがあったわけです。――ここから一気に望月記者の再起動が始まり、やがて冒頭の17年6月6日の定例記者会見の席上、菅義偉内閣官房長官に対し喰い込んだ質問を重ねたことが「東京新聞社会部・望月衣塑子記者」を一躍<時の人>と注目されることに繋がっていくわけです。
――この間の経緯を、望月記者が自ら著した新書版『新聞記者』(角川書店)が2017年10月に発行され、この本のなかで詳しく述べられています。「記者会見追及事件」から僅か4ヵ月後のことです。同書の題名「新聞記者」を原案に脚色した社会派サスペンション映画が19年に公開されるなど、望月記者が記者会見の席上での追及発言は社会現象として話題となりました。それは「記者クラブ」という報道機関独自の報道管制機能が記者会見席上を覆っているなかで、「同調圧力」や「空気を読まない」といった言葉が社会に蔓延するなかでの望月記者の行動に、多くの人々の期待が集まったこともあります。
なお、望月記者は2017年12月、日本における武器輸出の拡大や軍事研究費の増加について報じた「武器輸出及び大学における軍事研究に関する一連の報道」が、「第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞」の奨励賞に選ばれています。また、2019年11月15日、望月記者の活動を追ったドキュメンタリー映画『i-新聞記者ドキュメント』(監督:森達也)が公開されています。
■東京新聞の存在
この新書版『新聞記者』を記述した東京新聞の社会部・望月衣塑子記者を参考に、日刊紙記者の側面を紹介してみました。確かに望月記者は定例記者会見の席上、菅義偉内閣官房長官に対し喰い込んだ質問を重ねたことが話題となり、一躍、注目を集めることになりました。私個人としては彼女、望月記者のような歯に衣着せぬ物言いをする女性記者を身近に何人も知っています。また取材を通して感じたままを質問、記事にする新聞記者を数多く見ていますが、結果的に紙面を飾る前に編集部サイドで出稿を抑えられたり、原稿の一部分を削除もしくは書き換えられたことなどを、後日、切実に訴えられたことがあります。
私が在京中に新聞配達で生計をたてていた頃、配達紙のなかに「東京タイムス」という新聞があったので、数十年前から政治や社会現象に関わる参考資料として「東京新聞」の記事切抜きが数多く東京から送られてきていますが、「東京タイムスが新聞名を変更したのか、まったく別の新聞なのか」分からない状態でした。今回、改めて『新聞記者』を読むことで東京新聞が中日新聞のブロック紙であり関東エリアの基幹紙であることを知りました。それだけ、他紙に比べ東京新聞の政治や社会に対する観点に鋭いものがあるのです。(なお、東京タイムスは92年に休刊後、解散しています)
今回、『新聞記者』を再読して、望月記者はジャーナリスト志向の強い方であるとともに、彼女の情熱を受け止め、状況に応じた時点で一記者の提言(1通のメール)でも素早く採用し行動に起こす東京新聞の社風というものを改めて気付かされました。 (⇒この項、つづく)
〔第17回〕東京新聞社会部・望月衣塑子記者(1)
業界紙誌というのは食品、機械、農業・漁業、自動車、遊戯、量販店など全国に存在する各種産業界の数だけ存在するといっても過言ではありません。発行母体が業界を取りまとめる団体事務局、あるいは新聞社や出版社などによって紙誌の編集方針・内容は大きく異なりますが、なかには個人で限られた企業とエリアを対象に堅実に発行されているケースもあります。ただ編集内容が基本的に共通しているのは、業界内企業の動きをはじめ新商品や販売動向また企業および監督官庁の人事異動などでしょうが、重要なのは業界動向を左右する法律や条例の改定、新たな施策などの情報です。なかでもマネジメントに関する提言は読者層の関心事です。
私が所属していた不動産業界紙は、住宅・建設・不動産業に関わる企業・業者の動向を基本に新商品や技術革新などを情報として提供していました。ただ1980年代から90年代にかけての不動産業界は大きな<変革期>に直面しており、宅建業法の改正や開発指導要綱の制定、流通機構の構築、一方で不動産広告の表示・景品規制が強化された時期でした。それは、その後の業界活性化に向けての基本構想が実現していく過程であり、それだけに日々紙面に反映させる内容への取材と裏付け資料の作成に追われる毎日でした。
ただ、これら一連の取材活動は私にとって表面的なことで、基本となるのは住宅・建設・不動産業界の動向把握のための「基礎資料」の収集と分析、そこで得た市場特性を記事として紙面に反映させることでした。概ね1ヵ月毎・3ヵ月毎・半年毎と一定の期間に区分した市場動向のミクロ的な状況を把握したうえで、マクロ的な傾向を判断し解説していくというものです。そこには業界内部の動向を熟知し記事を発表するタイミングに配慮するということが求められていました。
紙面というのは<生き物>です。その生き物を生み出し管理していく作業は基本的に「記事」として文章を書き連ねていくのですが、一旦、生み出した<生き物>は勝手に増殖し拡散していきます。記事を生み出す記者としては、毎日が「試験」に立ち向かっている気分です。試験に解答はなく記事の内容は全て読者が判断するわけで、そこには赤点は許されません。当然、追試はありません。――<ズル休>なんてとんでもない。
…な~んて言いながらも、夜遅くまで締切りに向かって懸命にペンを走らせていると電話が。「…なんだべな」と思って受話器をとると、住宅会社の社長から「メシ食いにいかない?」だって。そこでね、ペンをピョンと放り出してそそくさと繁華街へ――高校時代に期末試験前日というのに、ボーリングへ行ったり映画を見に行ったりしてましたが。ま、いつまでたってもいい加減な性格は変わっておりません―だったよね?…え。原稿どうするの、って。心配ご無用、何とかなるもので~すよ。ぶふ。
――10年ほど前まで、「紅茶を飲むのにティパックの紐がない!そうだ、紅茶会社に抗議の手紙を出そう。…でも書けな~い」などとほざいていた私が、いつの間にか記事を、いや<文章>と格闘する毎日を送っているのですからね。――ましてや新聞配達をしていた青年が何故か新聞を制作する立場になってしまった。でも、同じ新聞記者でも業界紙記者と日刊紙の記者とはどのように違うのでしょうか。
■何故、望月衣塑子記者が<時の人>となったのか。
東京新聞・社会部の望月衣塑子記者が一躍<時の人>となったのは、毎日午前中に開かれる政府の定例記者会見の席上、菅義偉内閣官房長官に対し喰い込んだ質問を重ねたことです。官房長官の会見には報道機関各社の政治部記者が出席しているのですが、政治部は主に内閣や国会議員を取材し国の政策や外交について発信しています。
一方、望月記者が所属する社会部は事件や疑惑問題を取材し、政治家や検察など権力と対峙する機会が多いのです。その日の望月記者の行動は、記者会見の席に漂う「同調圧力」や「空気を読まない」といった雰囲気のなかで、意外性が賛同に変わったことに関心が寄せられたからでしょう。
東京新聞は戦前から都民の身近な新聞として親しまれていたのですが、戦時体制下では国策に沿った夕刊紙として発行されていました。1967年9月、中部日本新聞社(名古屋)が東京新聞社の東京新聞の発行と編集・販売などそれに付帯する一切の業務を譲り受け、10月1日付から「東京新聞」は中日グループの関東地方の基幹紙として再スタートを切った経緯があります。
望月記者は大学卒業後、中日新聞社に入社し東京本社へ配属。東京新聞の一記者として千葉支局、横浜支局で事件取材に明け暮れ、本社社会部で東京地方検察庁特別捜査部を担当。結婚・育児を経て経済部に所属し、2014年4月から解禁となった武器輸出や軍学共同の現状を取材していました。その後、再び社会部となり2017年4月からは「森友・加計問題」の取材チームの一員として、その背景を追いかけています。現在、社会部遊軍。

望月記者が菅官房長官の会見に初めて出席したのが17年6月6日のこと。それまで内閣記者会見どころか政治部にも所属したことのない彼女が永田町の首相官邸に足を踏み入れ、菅義偉内閣官房長官の定例記者会見に出席したわけで、文部科学省の前事務次官・前川喜平に関する質問を幾つか行なっています。――その後、望月記者が著した新書版『新聞記者』(角川書店=17年10月発行)によると、当日は「初めて出席した記者会見があっけなく終わりそうな雰囲気だったので、質問するつもりはなかったが思わず手を上げた」そうです。
「新聞記者として初めて味わう記者会見室の独特の雰囲気に、さすがに緊張感を覚えながらも幾つかの質問を繰り出した」。しかし、菅官房長官から返された冷淡で無愛想な反応。そして「木を鼻でくくったような態度」。それでも「質問が長いし我ながらしつこいと思う」と、その日の会見の様子を望月記者は記述しています。では何故、望月記者は初めての記者会見の席で「質問するつもりはなかった」のに、「幾つかの質問を繰り出した」のでしょうか。――そこには彼女の生い立ちと、新聞記者に対する姿勢が現われています。
【1】望月衣塑子記者は東京都出身。父親は記者、母親は演劇関係者の家庭に生まれる。多感な幼少女期を経てジャーナリストへの興味をもったのが、母親から勧められた『南ア・アパルトヘイト共和国』(1989年)。フォトジャーナリストの吉田ルイ子が人種隔離政策を合法的に推進している南アフリカ共和国の日常を写真と文とで伝えたもの。「自分の身の回りだけではなく、世界で何が起きているか常に関心を向ける」その思いが伝わった一冊で、吉田ルイ子に対する関心が増していったのです。
その吉田ルイ子を追ってジャーナリスト志向が強まり、英語を学ぶとともに海外へ留学。大学卒業に伴う就職活動で大手新聞社を受けるが全社、筆記や二次試験で落とされる。並行して民放のテレビ局を受けたが面接官から「報道を希望しても貫けない。新聞社に行けば」と最終面接に進む前に落ちてしまった。そこでブロック紙の北海道新聞と東京新聞を受け、ともに筆記試験をクリアし最終面接に進む。先に東京新聞から入社内定を受けたことで2000年4月、ここに望月記者の誕生となる。
新聞社にも一般企業と同じく新入社員研修があるわけで、入社当初、中日新聞名古屋本社で社会部や運動部、写真部の見習いを経験。ここで記事の書き方や写真の撮り方など新聞記者の基本を学ぶわけです。次に研修に組み込まれていたのが実際に新聞を配達すること。愛知県内の新聞配達店に住込み、印刷されたばかりの新聞を各家庭へ配達する過程を経験する。新聞に折り込みチラシを挟み込み雨の日も風の日も原付バイクで読者の元へ届ける作業は、望月記者にとって新鮮だったようだ。
研修を終え8月下旬に東京新聞千葉支局へ配属。支局記者の原点といえる警察署回りで幾多の事件を経験するのだが、それは他紙との競争でもある。やがて本社社会部へ異動。幾つかの実績を重ね、その過程で大手新聞社からの誘いを受けるのだが断って、司法担当へ。ここで「日歯連事件」に遭遇する。しかし彼女自身の取材活動はトラブルを抱えることとなり、結果的に本社の内部部署への異動を命じられる。
【2】内部部署への異動先として指示されたのが整理部でした。紙面を作る側として提稿された記事をトップニュース(紙面トップ)、セカンドニュースと分類し見出しなどを付けて、写真部から提出された写真のなかからカットを選び、コンピュータの画面上でレイアウトしていく一連の作業を行います。読者の読みやすい紙面、一息つける囲み記事を紙面全体の配置に工夫しながら、一方で時間に追われながら製作していく。
望月記者は千葉支局を皮切りに横浜支局や社会部などで、事件を追い続ける記者人生を短期間で経験していただけに、この整理部での経験は総体的な紙面や新聞全体を俯瞰できる感覚を学ぶ。ここで「世の中は事件だけで構成されているわけではない」ことに気付かされ、視野が大きく広がったことで記者生活にプラスとなっています。それは現場の記者が命をかける思いで取材している。「その結晶となる原稿に対して整理部が全力で臨まなければ、現場記者は激怒するだろう」その思いを強くしたのです。
内勤が1年半過ぎても異動の気配は伝わってこない。現場で取材がしたい思いは強いのですが転籍、すなわち移籍の考えが強く持ち上がってきます。新聞社へ入社から数年で望月記者は実力を発揮し、これまで入社試験では採用されなかった大手新聞社、朝日と読売から誘いを受けるのです。それは社会部担当時代の取材が評価されたのかテレビ、新聞と幾つかの報道機関から誘いを受けたなかでのこと。なかでも読売新聞には本来憧れていたこともあって「読売新聞に移ろう」とほぼ決めた直後に父に会います。
望月記者の父親は業界紙の記者として活動しており、彼女が演劇の道かジャーナリストか迷っていたとき記者の大先輩である父親の体験談がジャーナリストへの道を志すようになっています。その父を会社に訪ね赤提灯で杯を傾けながら大手新聞社からの誘いを話し、読売への移籍に背中を押して欲しいとの思いがあったのです。しかし父は「読売だけは嫌なんだよ」と意外な言葉に驚きます。父親は10代から学生運動にのめり込んで安保闘争などに明け暮れ、権力組織が嫌いという考えでした。その父は60歳の定年前に勤めていた会社が倒産し失業。病気が見つかって1年半後の2010年12月に亡くなっています。
内勤が続く過程で日本テレビの清水潔と会う機会を得ます。写真週刊誌『FOCUS』編集部で活躍していたときの清水潔に畏敬の思いを抱いていたのですが、或るストーカー事件で県警より先に犯人を特定したことや某県警の不祥事を暴いたことなど「調査報道」を眼のあたりにして、事件取材記者として雲の上の存在としての思いがあったのです。ここには真実を追求していく手法や取材対象者の口説き方などは、到底まねできない存在でした。
そのような清水潔と会って他紙への移籍を相談したところ、活字媒体と映像媒体の違いを一番に挙げて「東京新聞で記者を続けた方がいいのじゃないか」との言葉をかけられている。ここでは新聞や雑誌が面白いと感じるものをテレビが同じように感じるとは限らない傾向や、日々のニュース番組では深く掘り下げられるテーマよりも広く浅いものが求められることなどを教えてもらっている。
【3】やがて朝日新聞が「森友問題」をスクープした。2017年2月のこと。焦る思いを込めて編集長に直訴のメールを直接送る。「森友問題は安倍昭恵夫人や財務省に波及していく可能性があります。東京新聞でも取材した方がいいと思う」といった内容で。翌日、社会部の部長から電話があって、「森友問題を追うチームに入るように」との指示を受けています。このチームは10名程でメインは政治部、社会部から加わったのは望月記者だけ。
チーム結成の背景には望月記者が編集長に送った1通のメールを受けて、編集長はすぐさま各部署の部長を招集し「重点を置いて行こう」と新たな方針が示されたことによります。編集長から追って「ありがとう」とのメールが望月記者に届けられた。ここには風通しのよい編集部内部の環境と、編集長の機動力と判断の素早さがあったわけです。――ここから一気に望月記者の再起動が始まり、やがて冒頭の17年6月6日の定例記者会見の席上、菅義偉内閣官房長官に対し喰い込んだ質問を重ねたことが「東京新聞社会部・望月衣塑子記者」を一躍<時の人>と注目されることに繋がっていくわけです。
――この間の経緯を、望月記者が自ら著した新書版『新聞記者』(角川書店)が2017年10月に発行され、この本のなかで詳しく述べられています。「記者会見追及事件」から僅か4ヵ月後のことです。同書の題名「新聞記者」を原案に脚色した社会派サスペンション映画が19年に公開されるなど、望月記者が記者会見の席上での追及発言は社会現象として話題となりました。それは「記者クラブ」という報道機関独自の報道管制機能が記者会見席上を覆っているなかで、「同調圧力」や「空気を読まない」といった言葉が社会に蔓延するなかでの望月記者の行動に、多くの人々の期待が集まったこともあります。
なお、望月記者は2017年12月、日本における武器輸出の拡大や軍事研究費の増加について報じた「武器輸出及び大学における軍事研究に関する一連の報道」が、「第23回平和・協同ジャーナリスト基金賞」の奨励賞に選ばれています。また、2019年11月15日、望月記者の活動を追ったドキュメンタリー映画『i-新聞記者ドキュメント』(監督:森達也)が公開されています。
■東京新聞の存在
この新書版『新聞記者』を記述した東京新聞の社会部・望月衣塑子記者を参考に、日刊紙記者の側面を紹介してみました。確かに望月記者は定例記者会見の席上、菅義偉内閣官房長官に対し喰い込んだ質問を重ねたことが話題となり、一躍、注目を集めることになりました。私個人としては彼女、望月記者のような歯に衣着せぬ物言いをする女性記者を身近に何人も知っています。また取材を通して感じたままを質問、記事にする新聞記者を数多く見ていますが、結果的に紙面を飾る前に編集部サイドで出稿を抑えられたり、原稿の一部分を削除もしくは書き換えられたことなどを、後日、切実に訴えられたことがあります。
私が在京中に新聞配達で生計をたてていた頃、配達紙のなかに「東京タイムス」という新聞があったので、数十年前から政治や社会現象に関わる参考資料として「東京新聞」の記事切抜きが数多く東京から送られてきていますが、「東京タイムスが新聞名を変更したのか、まったく別の新聞なのか」分からない状態でした。今回、改めて『新聞記者』を読むことで東京新聞が中日新聞のブロック紙であり関東エリアの基幹紙であることを知りました。それだけ、他紙に比べ東京新聞の政治や社会に対する観点に鋭いものがあるのです。(なお、東京タイムスは92年に休刊後、解散しています)
今回、『新聞記者』を再読して、望月記者はジャーナリスト志向の強い方であるとともに、彼女の情熱を受け止め、状況に応じた時点で一記者の提言(1通のメール)でも素早く採用し行動に起こす東京新聞の社風というものを改めて気付かされました。 (⇒この項、つづく)