戦後20年余を経て重工業を中心に日本の経済は急成長。1965年から「いざなぎ景気」が始まりました。67年に入って街全体に活気が溢れてきましたが、まだまだ我々庶民にはその恩恵を受けるほどではありません。まぁ新聞少年は、銭湯の帰りにアイスのひとつも口に入れることができたくらいかな。
それでも街には乗用車の走行が目立ち始めました。トヨタ自動車が「カローラ」、日産自動車が「サニー」を発売し大衆車ブームがやって来ました。夕刊配達の途中、郊外の田んぼのなかを通る国道をボンヤリ眺めていましたら(⇒なんだかいつもボンヤリしているようですが…)、通行する車の8割がカローラやサニー2種の乗用車であったことを今でも覚えています。
■1967年〔上半期〕
好景気のなか1967年〔上半期〕の、社会的な主な出来事を列挙してみますと▼2月11日= 初の「建国記念の日」▼3月12日= 青年医師連合(36大学、2400人加盟)がインターン制度に反対して医師国家試験をボイコット▼4月16日=東京都知事選挙で美濃部亮吉が当選▼6月5日=イスラエル・アラブ連合間で戦闘開始(第3次中東戦争)。6月11日に戦闘が終結しイスラエルの圧勝▼6月10日= 東京教育大学の筑波研究学園都市への移転が決定▼6月17日=中国が初の水爆実験を行う―といったことが注目されます。
「建国記念の日」の制定で「2月11日」が祝日となりました。「紀元節の復活」と反対運動が活発に行われました。青年医師連合(青医連)のインターン制度反対に伴う「医師国家試験」ボイコットは大きな話題となりました。厚生省(当時)がインターン制度に代わる「登録医制度」を提案し医師法の一部改正案を国会に提出したことで、青医連は「管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を何ひとつ解決されないままの登録医制度」として反対しました。このインターン制度は「大学医学部卒業後、無給で研修させる制度」です。後に東大闘争の発端となっています。
東京都知事選で美濃部亮吉が当選したことで全国に革新知事が多く登場しました。6月の「第3次中東戦争」は東西冷戦下の「7日間戦争」といわれました。東京教育大学が「筑波研究学園都市」へ移転することに対し、「官制都市創造=管理強化」と大学闘争を巻き込んだ反対運動が起きています。
■1967年〔下半期〕
同年〔下半期〕の主な出来事は▼7月3日=FM東海(TOKYO FMの前身)でFM最長番組「JET STREAM」が放送開始▼8月1日=資生堂が男性化粧品の「MG5」を発売▼8月8日=国鉄新宿駅構内で米軍用燃料を積載したタンク車と貨物列車が衝突、脱線炎上する事故(米軍燃料輸送列車事故)▼10月1日=深夜放送の代名詞的存在であるニッポン放送系のラジオ番組「オールナイトニッポン」が放送開始▼10月2日=ツイッギー来日。日本にミニスカートブーム到来▼10月20日=吉田茂元首相死去(10月31日、戦後初の国葬挙行)。
東海大学はFMの試験放送局を行っていましたが、城達也のナレーションによる「JET STREAM」をFM東海で放送を開始しました。当時はFM電波で通信高校の教育放送を行っていた関係から、一般の音楽放送は1970年4月に開局したエフエム東京(TOKYO FM)から始まりました。
また、ラジオ深夜番組「オールナイトニッポン」は、夜にうごめく若者にとって新たなメディア登場。虚構の世界の創造ながらリスナーの妙な連帯感を醸し出しました。私は一度、女優・内藤洋子さんとの出逢いを投稿しましたら採用されました。あちこちから「聞いたぞ」と連絡を受けて「皆遅くまで起きているのだ」と知って、オドロキ。
英国からモデル・ツイッギーが来日しミニスカートブームが到来したのはいいのですが、街中にツイッギー(小枝)ならぬウインナーやハム足が溢れ、免疫のできていない男子諸君は右往左往しておりました。だってね、駅のエレベータを登るさいにミニスカ嬢はスカートの後ろをバックでわざわざ押さえるのですよ。「観て観て!~でも見ないでぇ」どっちやねん!
街中の豆腐が売り切れまして政府が緊急声明を出したほどです―何故かって? だって私を含む<うら若き心ある青年>は「ウインナーやハム足を直視してよいものか…見ないほうがよいのか。それが問題だ」と豆腐の角に頭をぶつけて悩んでおりました、から―ウソじゃないもん。
吉田茂元首相死去に伴い戦後初の「国葬」が挙行されましたが、我がクラスの担任はホームルームの時間に「国葬」の是非について討議させました。
■新宿で米軍ジェット機燃料列車炎上
8月に国鉄新宿駅構内で米軍用燃料積載のタンク車と貨車が衝突し脱線炎上した事故(米軍タンク車事故)。都心のど真ん中・新宿に、ベトナム戦争に加担する燃料積載列車が白昼堂々と通過していたという事実に、都民をはじめ全国民が驚きました。
その年の秋から翌年にかけて本格的な抗議活動が巻き起こり、翌68年10月21日の「国際反戦デー」には新宿駅東口広場に1万数千名の群衆が抗議の集会を開いています。その日、私は夕刊配達があったのでいつも通り帰って夜ラジオを聞いていましたら、夜半、群衆に向け「騒乱罪」が発動されたことを報じていました。
【写真↓】新宿駅東口広場に集結した1万数千名の群衆(『叛逆の記録』から)

その時は知らなかったのですが、当夜、新宿駅東口広場の群衆のなかに我が代々木高校の教師と生徒の数名が混じっていたのです。翌日、彼らから「機動隊に追いかけられ逃げ回った」と聞かされました。当夜の機動隊の暴力は凄まじく、逃げ惑う群衆を誰彼かまわず警棒やジュラルミンの盾で滅多打ちにして怪我人続出の状態だったとか。
問題は、67年秋から68年秋にかけて日本社会に何が起きて、我が代々木高校で何が起きていたかということです。なお、当夜の新宿駅東口広場前の群衆に対し発動された「騒乱罪」を契機に、同広場には「人々が多数で集まらないように」大きな植栽が設けられ今日に至っています。「広場」が一日で消えちゃった!
⇒<第4章>へ続く。
それでも街には乗用車の走行が目立ち始めました。トヨタ自動車が「カローラ」、日産自動車が「サニー」を発売し大衆車ブームがやって来ました。夕刊配達の途中、郊外の田んぼのなかを通る国道をボンヤリ眺めていましたら(⇒なんだかいつもボンヤリしているようですが…)、通行する車の8割がカローラやサニー2種の乗用車であったことを今でも覚えています。
■1967年〔上半期〕
好景気のなか1967年〔上半期〕の、社会的な主な出来事を列挙してみますと▼2月11日= 初の「建国記念の日」▼3月12日= 青年医師連合(36大学、2400人加盟)がインターン制度に反対して医師国家試験をボイコット▼4月16日=東京都知事選挙で美濃部亮吉が当選▼6月5日=イスラエル・アラブ連合間で戦闘開始(第3次中東戦争)。6月11日に戦闘が終結しイスラエルの圧勝▼6月10日= 東京教育大学の筑波研究学園都市への移転が決定▼6月17日=中国が初の水爆実験を行う―といったことが注目されます。
「建国記念の日」の制定で「2月11日」が祝日となりました。「紀元節の復活」と反対運動が活発に行われました。青年医師連合(青医連)のインターン制度反対に伴う「医師国家試験」ボイコットは大きな話題となりました。厚生省(当時)がインターン制度に代わる「登録医制度」を提案し医師法の一部改正案を国会に提出したことで、青医連は「管理体制を強めるだけで、これまでのインターン制度の矛盾を何ひとつ解決されないままの登録医制度」として反対しました。このインターン制度は「大学医学部卒業後、無給で研修させる制度」です。後に東大闘争の発端となっています。
東京都知事選で美濃部亮吉が当選したことで全国に革新知事が多く登場しました。6月の「第3次中東戦争」は東西冷戦下の「7日間戦争」といわれました。東京教育大学が「筑波研究学園都市」へ移転することに対し、「官制都市創造=管理強化」と大学闘争を巻き込んだ反対運動が起きています。
■1967年〔下半期〕
同年〔下半期〕の主な出来事は▼7月3日=FM東海(TOKYO FMの前身)でFM最長番組「JET STREAM」が放送開始▼8月1日=資生堂が男性化粧品の「MG5」を発売▼8月8日=国鉄新宿駅構内で米軍用燃料を積載したタンク車と貨物列車が衝突、脱線炎上する事故(米軍燃料輸送列車事故)▼10月1日=深夜放送の代名詞的存在であるニッポン放送系のラジオ番組「オールナイトニッポン」が放送開始▼10月2日=ツイッギー来日。日本にミニスカートブーム到来▼10月20日=吉田茂元首相死去(10月31日、戦後初の国葬挙行)。
東海大学はFMの試験放送局を行っていましたが、城達也のナレーションによる「JET STREAM」をFM東海で放送を開始しました。当時はFM電波で通信高校の教育放送を行っていた関係から、一般の音楽放送は1970年4月に開局したエフエム東京(TOKYO FM)から始まりました。
また、ラジオ深夜番組「オールナイトニッポン」は、夜にうごめく若者にとって新たなメディア登場。虚構の世界の創造ながらリスナーの妙な連帯感を醸し出しました。私は一度、女優・内藤洋子さんとの出逢いを投稿しましたら採用されました。あちこちから「聞いたぞ」と連絡を受けて「皆遅くまで起きているのだ」と知って、オドロキ。
英国からモデル・ツイッギーが来日しミニスカートブームが到来したのはいいのですが、街中にツイッギー(小枝)ならぬウインナーやハム足が溢れ、免疫のできていない男子諸君は右往左往しておりました。だってね、駅のエレベータを登るさいにミニスカ嬢はスカートの後ろをバックでわざわざ押さえるのですよ。「観て観て!~でも見ないでぇ」どっちやねん!
街中の豆腐が売り切れまして政府が緊急声明を出したほどです―何故かって? だって私を含む<うら若き心ある青年>は「ウインナーやハム足を直視してよいものか…見ないほうがよいのか。それが問題だ」と豆腐の角に頭をぶつけて悩んでおりました、から―ウソじゃないもん。
吉田茂元首相死去に伴い戦後初の「国葬」が挙行されましたが、我がクラスの担任はホームルームの時間に「国葬」の是非について討議させました。
■新宿で米軍ジェット機燃料列車炎上
8月に国鉄新宿駅構内で米軍用燃料積載のタンク車と貨車が衝突し脱線炎上した事故(米軍タンク車事故)。都心のど真ん中・新宿に、ベトナム戦争に加担する燃料積載列車が白昼堂々と通過していたという事実に、都民をはじめ全国民が驚きました。
その年の秋から翌年にかけて本格的な抗議活動が巻き起こり、翌68年10月21日の「国際反戦デー」には新宿駅東口広場に1万数千名の群衆が抗議の集会を開いています。その日、私は夕刊配達があったのでいつも通り帰って夜ラジオを聞いていましたら、夜半、群衆に向け「騒乱罪」が発動されたことを報じていました。
【写真↓】新宿駅東口広場に集結した1万数千名の群衆(『叛逆の記録』から)

その時は知らなかったのですが、当夜、新宿駅東口広場の群衆のなかに我が代々木高校の教師と生徒の数名が混じっていたのです。翌日、彼らから「機動隊に追いかけられ逃げ回った」と聞かされました。当夜の機動隊の暴力は凄まじく、逃げ惑う群衆を誰彼かまわず警棒やジュラルミンの盾で滅多打ちにして怪我人続出の状態だったとか。
問題は、67年秋から68年秋にかけて日本社会に何が起きて、我が代々木高校で何が起きていたかということです。なお、当夜の新宿駅東口広場前の群衆に対し発動された「騒乱罪」を契機に、同広場には「人々が多数で集まらないように」大きな植栽が設けられ今日に至っています。「広場」が一日で消えちゃった!
⇒<第4章>へ続く。