<第4章>木造校舎、解体へ。
今日では、ベトナムは経済開放政策に伴い諸外国との経済交流は盛んに行われ、日本からも企業が大挙進出しています。しかし1960年代半ばには米国の軍事介入にともない激しい交戦状態にありました。米軍は64年8月にトンキン湾事件をデッチあげ、これを口実に侵略戦争へのめり込み、65年2月から北ベトナムへの空爆を開始(北爆)。3月には南ベトナムのダナンヘ海兵隊が上陸し本格的な地上戦が始まりました。
75年4月のサイゴン陥落までの約10年間に米軍が投入した兵力は延べ260万人、投下爆弾約755万トン(第2次大戦時の2・7倍)、戦費約1390億ドルと巨額なものでした。この10年間の米兵戦死者4万7204名。ベトナム全域の兵士・民間人の戦死・負傷者数は数百万といわれています。多大な損害をもたらしたベトナム戦争ですが、米軍の敗戦に終わり、その後の米国経済低迷の要因となっていきます。
米国がベトナムへ軍事介入していった理由は様々ありますが、一言でいえば南ベトナムとの軍事協定に伴う「集団的自衛権」の行使です。集団的自衛権行使によって多額の戦費と大勢の若者が殺されたのです。そして唯一、軍需産業だけが巨万の富を懐にしました。
■激動のウネリ広がる
<1967年>はベトナム戦争が激化するなかで、日本の社会は表向きの「平安」とは裏腹に激しく揺れ動いていました。全学連は66年12月に再建大会を開いて国家権力との「武装闘争」を宣言しており、総力決起の時期をうかがっていました。
1月、米海兵隊が南ベトナムのメコン・デルタへ侵攻。そんななか、各大学の動きをみますと▼1月20日=明大全共闘は学費値上げ白紙撤回を要求して大衆団交。1万5千名が結集⇒2月20日に学費値上げ撤回・入試阻止闘争。400名が御茶ノ水駅構内でデモ▼2月10日=国際基督教大生が入試への能研テスト導入に反対して本館に籠城▼3月12日=高崎経済大学で学生の不当処分に抗議して全学無期限スト⇒4月13日=高崎経済大生に3度目の大量処分。延べ58名。
一方、反戦・政治活動として▼2月23日=原潜スカルピン号の横須賀寄港抗議行動に労働者2千名、学生350名参加⇒8月15日の抗議行動に労働者・学生2500名参加。8月23日の抗議行動には、労働者・学生1万2500名が結集▼2月26日=「砂川基地拡張阻止」青年学生決起集会。反戦青年委員会の労働者・全学連1500名参加しデモ▼4月15日=米国の反戦闘争に連帯し「べ平連」が反戦デモ。市民・学生500名参加。同日、大阪反戦青年委員会などの主催で国際連帯デー・ベトナム反戦に労学200名参加。
▼「4・28沖縄デー」に労働者・学生5千名が集会とデモ。昼は全学連が1500名でデモ▼5月26日=全学連「砂川基地拡張阻止・公安条例撤廃」のデモに2千名参加。同日、九州大学の学生が「九大祭・寮祭」の仮装行列に対する福岡県警の不当干渉に抗議し2千名がデモ、県庁内で集会▼5月28日=三多摩反戦青年委員会・全学連主催「砂川基地拡張阻止・青年学生総決起集会」に労働者・学生1万2千名が結集。正面ゲートなどへ抗議のデモと座込み。機動隊の暴力で重傷を含む500名が負傷。
6月、佐藤首相が「国会周辺のデモ許可」を認める東京地裁決定に異議申し立て。10日に決定取消し。7月23日=米国・デトロイトで史上最大の黒人武装蜂起。各地に波及。ラテンアメリカ人民連帯会議(ハバナ)が武装闘争による革命、「第2第3のベトナムを」などを決議。8月、新宿で米軍ジェット機燃料タンク車と貨車が衝突、炎上。
▼60年安保「6・15記念集会」に3千名参加▼6月19日=中国水爆実験に抗議して全学連は華僑会館に緊急デモ▼6月20日=「ベトナム反戦大阪府民集会」5千名参加。大阪府学連・兵庫県学連2千名デモ。同日、全学連「原潜バーブ号横須賀寄港阻止」の現地デモ⇒6月25日の原潜横須賀寄港抗議闘争に900名参加。
▼6月20日=三里塚・芝山連合空港反対同盟が大橋運輸相の成田来訪阻止闘争。1000名が成田駅頭・成田市役所前に座込み▼6月30日=全学連が佐藤首相訪韓阻止の羽田闘争。300名が空港周辺で機動隊と激突▼7月9日=「ベトナム侵略戦争反対・エンタープライズ寄港阻止・沖縄返還・砂川基地拡張阻止大集会」に5万人が参加。
■<ゆるやかな日常>のなかの高校生活
私たちは働きながら代々木高校へ通うことで、<ゆるやかな日常>生活を過ごしていました。でも、その背中合わせのところでベトナム戦争に対する抗議活動、また70年安保改定を前にした様々な行動が闘われていたのです。これら一連の行動に全く関心がなかったわけではないのですが、どちらかといえば「対岸の火」くらいの思いでした。
しかし<あの事件>を境に、これら一連の行動のなかに私たち定時制高校生に突きつけられた根本的な課題が含まれていることを、感知するようになるのです。でもそのことに反応するのは、まだ先のことです――。
今日では、ベトナムは経済開放政策に伴い諸外国との経済交流は盛んに行われ、日本からも企業が大挙進出しています。しかし1960年代半ばには米国の軍事介入にともない激しい交戦状態にありました。米軍は64年8月にトンキン湾事件をデッチあげ、これを口実に侵略戦争へのめり込み、65年2月から北ベトナムへの空爆を開始(北爆)。3月には南ベトナムのダナンヘ海兵隊が上陸し本格的な地上戦が始まりました。
75年4月のサイゴン陥落までの約10年間に米軍が投入した兵力は延べ260万人、投下爆弾約755万トン(第2次大戦時の2・7倍)、戦費約1390億ドルと巨額なものでした。この10年間の米兵戦死者4万7204名。ベトナム全域の兵士・民間人の戦死・負傷者数は数百万といわれています。多大な損害をもたらしたベトナム戦争ですが、米軍の敗戦に終わり、その後の米国経済低迷の要因となっていきます。
米国がベトナムへ軍事介入していった理由は様々ありますが、一言でいえば南ベトナムとの軍事協定に伴う「集団的自衛権」の行使です。集団的自衛権行使によって多額の戦費と大勢の若者が殺されたのです。そして唯一、軍需産業だけが巨万の富を懐にしました。
■激動のウネリ広がる
<1967年>はベトナム戦争が激化するなかで、日本の社会は表向きの「平安」とは裏腹に激しく揺れ動いていました。全学連は66年12月に再建大会を開いて国家権力との「武装闘争」を宣言しており、総力決起の時期をうかがっていました。
1月、米海兵隊が南ベトナムのメコン・デルタへ侵攻。そんななか、各大学の動きをみますと▼1月20日=明大全共闘は学費値上げ白紙撤回を要求して大衆団交。1万5千名が結集⇒2月20日に学費値上げ撤回・入試阻止闘争。400名が御茶ノ水駅構内でデモ▼2月10日=国際基督教大生が入試への能研テスト導入に反対して本館に籠城▼3月12日=高崎経済大学で学生の不当処分に抗議して全学無期限スト⇒4月13日=高崎経済大生に3度目の大量処分。延べ58名。
一方、反戦・政治活動として▼2月23日=原潜スカルピン号の横須賀寄港抗議行動に労働者2千名、学生350名参加⇒8月15日の抗議行動に労働者・学生2500名参加。8月23日の抗議行動には、労働者・学生1万2500名が結集▼2月26日=「砂川基地拡張阻止」青年学生決起集会。反戦青年委員会の労働者・全学連1500名参加しデモ▼4月15日=米国の反戦闘争に連帯し「べ平連」が反戦デモ。市民・学生500名参加。同日、大阪反戦青年委員会などの主催で国際連帯デー・ベトナム反戦に労学200名参加。
▼「4・28沖縄デー」に労働者・学生5千名が集会とデモ。昼は全学連が1500名でデモ▼5月26日=全学連「砂川基地拡張阻止・公安条例撤廃」のデモに2千名参加。同日、九州大学の学生が「九大祭・寮祭」の仮装行列に対する福岡県警の不当干渉に抗議し2千名がデモ、県庁内で集会▼5月28日=三多摩反戦青年委員会・全学連主催「砂川基地拡張阻止・青年学生総決起集会」に労働者・学生1万2千名が結集。正面ゲートなどへ抗議のデモと座込み。機動隊の暴力で重傷を含む500名が負傷。
6月、佐藤首相が「国会周辺のデモ許可」を認める東京地裁決定に異議申し立て。10日に決定取消し。7月23日=米国・デトロイトで史上最大の黒人武装蜂起。各地に波及。ラテンアメリカ人民連帯会議(ハバナ)が武装闘争による革命、「第2第3のベトナムを」などを決議。8月、新宿で米軍ジェット機燃料タンク車と貨車が衝突、炎上。
▼60年安保「6・15記念集会」に3千名参加▼6月19日=中国水爆実験に抗議して全学連は華僑会館に緊急デモ▼6月20日=「ベトナム反戦大阪府民集会」5千名参加。大阪府学連・兵庫県学連2千名デモ。同日、全学連「原潜バーブ号横須賀寄港阻止」の現地デモ⇒6月25日の原潜横須賀寄港抗議闘争に900名参加。
▼6月20日=三里塚・芝山連合空港反対同盟が大橋運輸相の成田来訪阻止闘争。1000名が成田駅頭・成田市役所前に座込み▼6月30日=全学連が佐藤首相訪韓阻止の羽田闘争。300名が空港周辺で機動隊と激突▼7月9日=「ベトナム侵略戦争反対・エンタープライズ寄港阻止・沖縄返還・砂川基地拡張阻止大集会」に5万人が参加。
■<ゆるやかな日常>のなかの高校生活
私たちは働きながら代々木高校へ通うことで、<ゆるやかな日常>生活を過ごしていました。でも、その背中合わせのところでベトナム戦争に対する抗議活動、また70年安保改定を前にした様々な行動が闘われていたのです。これら一連の行動に全く関心がなかったわけではないのですが、どちらかといえば「対岸の火」くらいの思いでした。
しかし<あの事件>を境に、これら一連の行動のなかに私たち定時制高校生に突きつけられた根本的な課題が含まれていることを、感知するようになるのです。でもそのことに反応するのは、まだ先のことです――。