みち子の長崎絵日記

シニアライフを元気で楽しく輝いて過ごしましょう!

シンガポールで戦犯として死んだ若者

2015-08-27 15:54:53 | Weblog
戦争とは理不尽に酷いものですね。
私はラジオ深夜便でこの話を聞くまで、こんなひどい死に方をした若者が居たことを知らなかった。
この若者が生きていた証しに、この事を書かずに居られない。
みんな、こんな若者がいたことを知ってほしい。

彼は28歳で戦犯として捕らえられ、死刑に。
自分は死刑になるような悪い事をした覚えは一つもない。誰に誓っても言える。
一生懸命、誠実に生きて来た積りである。
どうして殺されなければならないのだろう?

誰か、答えてやって欲しい。

彼の遺書は親切な牢番によって日本の遺族に届けられたそうだ。

今、そのシンガポールで平和の中に私の息子は暮らしている。

戦争をしてはならない。
若者を戦場に送ってはならない。

老後破産

2015-08-27 15:22:37 | Weblog
新聞やテレビで時々見かけるようになった言葉「老後破産」
高齢者の生活保護受給者が増えているそうだ。
年金は少ないし、物価は上がる。仕方ないね。

私の従弟の話では、自分の年金は月2万円だと言う。
まさか、そんなはずはないよ、社会保険事務所に聞いてごらん、
聞いてみたけど、2万円だった、と言う、???
ずっと私より長く働いていた、と思うけど、ワカラン???
もう、今では足も悪くなって働けないと言っている。

老後の生活は十分、用意した、と思って居ても、
想定外に、長生きしたり、物価が上がると、破産するよね、
いまは頼りとする子供も、とうに破産して居たり、ね。
とにかく子供には頼れない。

私たちは損な世代です。
親を見るのが当然な時代に生きて、親を見て来た。
気が付けば、自分たちは、子供には頼れない。

それどころか、65歳以上の親たちの65%は子供に援助していると言う。
私はそんなことはしないさ。
人に迷惑を掛けないで、自分のお金を、うまく使いきって、死にたい。

私は、どちらの親からも、一銭も、貰わなかった。
私もそうするつもりである。子供たちに残すつもりはない。

台風15号通過

2015-08-25 08:59:42 | Weblog
久々に長崎を直撃するかと思われた台風15号だが、
午前6時には風も止み雨も小降りになった。
熊本県荒尾に上陸したそうだ。
雨戸をあける。ホッとする。わが築38年の年季の入った家も異常なし。

電車もバスも何事もなかったように走っている。
吾輩も安眠をむさぼった。


 

私の昭和20年8月15日

2015-08-15 16:05:53 | Weblog


いま、著名人たちが”私の8月15日”を話していますね。
私も話してみましょう。

その日、私は今の韓国ソウルに居ました。
玉音放送の事は覚えていませんが、みなが戦争が終わった、戦争に負けた、と言っているのが聞こえてきました。
朝鮮人が、騒ぐようなこともなく普通の日常でした。

異変が起きたのは、そのあくる日からで町中にモノが溢れました。
食べるものも着るものも、いったい、これらの物は今までどこにあったのでしょう???
私たち日本人は日本に帰れば、朝鮮のお金はもう価値が無いので、兄弟で市場へ行って食べ物はたくさん買って食べました。
食べ物以外は買いません、買ったところで日本に持ち帰れないからです。

その年の10月の半ばに日本へ帰国したと思いますが、
異変が起こったのは帰国前夜です。
家財道具を持った朝鮮人が、家族で我が家へ入り込んで来ました。
複数の家族だったと思います。

賑やかでしたが別に喧嘩するでもなく、それぞれの部屋に落ち着いたようでした。
帰国して空き家になる日本人の家は、早い者勝ちだったのでしょうか??
私たち家族は玄関わきの部屋で、持ち帰る(持てるだけ)の荷物と一緒に寝ました。

引揚船が博多港に着いたとき、そこは見渡す限りの焼野原でした。
京城(ソウル)では見たことが無い光景でした。


 

俳優・赤木春恵さんの8月15日

2015-08-14 13:52:55 | Weblog


ラジオ深夜便13日の「明日への言葉」から

  日本では空襲も始まった昭和20年2月、慰問団として満州に渡る。
日本も危ないし15歳まで育った満州の方が良いだろうと思った。
北の方、ソ連との国境近くまで慰問に行ったとき、そこにいた人が慰問はもう良いから、夕食を食べたらすぐ帰るように言われた。
訳が分からず食事をしているとき突然大砲の音が響いた。
「どうしたのですか?」と聞くと戦争だ、と言う。
どことどこの戦争かもわからずに食事半ばで帰る。
後で知ったがそれはソ連軍の侵攻であった。

ハルピンに帰ってしばらく後、
みんな集まって放送を聞くように言われた。
雑音がひどくて何の話か分からなかった。
誰からともなく日本が戦争に負けたのだと聞いた。

ハルピンで、引き揚げまでの1年余りを過ごす。
学校の体育館のようなところだった、
発疹チフスに罹り、死地を彷徨う。
生き延びられたのは、どうしても母の居る京都に帰らなければ、と言う、強い思いからだったと思う。

北の方から満蒙開拓団の人が命からがら逃げてきてハルピンに合流してきた。
その人たちから、この世の物とも思えない凄惨な話をたくさん聞いた。

沢山の人達が死んでいった。

そして、やっと、日本から迎えに来た引揚船に乗る。
船の中でも子供や病人が死んだ。
母親は子供の死んだことを隠し、生きていると言って子供を離そうとしなかった。

佐世保の港に着いて上陸したら、道は二つに分かれていた。
死人と生きた人に分けられた。
死んでも連れて帰ってきた人が多かったのですね。

そんな赤木春恵さんの「明日への言葉」は

  戦後70年平和に生きて来た。
  これを守らなければならない。
  日本だけでなく世界が平和ありますように。

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いま語り始める、、、戦後70年。

2015-08-12 17:08:31 | Weblog

被爆者も大空襲で家族も家も失った人たち、
あまりの悲惨な光景や過酷な人生を歩いてきた人たち、、、

今まで口に出して言えなかった事を いま語り始めて居る。
人生の終わりが見え始めた、今、語り始めている。

     若者よ、どうか、聞いて欲しい。
     そして、どうか戦争に行かないで欲しい。

建造中の長崎精霊船


焼け野原に取り残された、孤児たちは本当に悲惨だっただろう。
多分、多くの子が死んでいったことだろう。

食べるものもなく、学歴もなく、仕事もなく、国からの援助もなく、どのように生きてきたか?
国として孤児収容所のようなものは作らなかったらしい。
 わずかに、見かねた篤志家が収容して食事を与えたようだ。その数は知れている。
 12万とも言われた孤児たちには少なすぎる。
この数も、戦後しばらくしてからアメリカの命令で厚生省が調査したらしい。
孤児たちはこれまでの生き様を、 口に出して言うことはなく黙して生きて来たようだ。

軍人には恩給(年金)が支払われている。
被爆者には原爆手帳がある。
私達、引揚者にも、いつだったか、いくばくかの、お金が支払われた。

空襲の被災者や孤児たちには、国として補償をした事があるのだろうか?
見捨ててきたのではないどろうか。

小さな家を建てるー14-外観・1

2015-08-11 15:45:44 | Weblog
昨日は、ドア・ノブや引手、各所のドアの色・ドアに入れるガラスの色・アクセント・カラーとか
細かい打ち合わせをしました。
かなり時間をかけて、一つ一つ、こちらの希望を聞いてもらったり、アドバイスして貰ったりしました。




 この住宅のハウスメーカー 「インディアホーム長崎中央」
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