miss pandora

ONE KIND OF LOVE

愛にはいろいろ種類があるの
全部集めて地球になるの

あの日

2021-03-11 16:08:23 | エッセイ
💓🤲🙏

あの日の事(東北大震災)

あの日のあの瞬間は、私は空にいた。千歳空港で、神戸へ飛ぶMさんに会って私は羽田空港を目指していた。銀座のギャラリーを回って夜は友達のジャズを横浜で楽しむ予定だった。その日のために小学5年生の娘の預け先も確保して体調管理し、楽しいことだらけで壮大なプレゼンも持っていたんだ。だから飛行機の中でもずっとプレゼンに関して書き物をしていた。
到着前の4つのブザーが鳴って、私は機内のテーブルを元に戻した。15分くらいの予定なのに飛行機は東京上空を旋回し続けていた。1時間を経過した頃から、燃料は大丈夫だよなぁとか思っていた。機内アナウンスは雑音が入ってよく聞き取れなかった。不穏に感づいた乗客の幾人かは、携帯電話の電源を入れて声を出した。地震かな・・・よくあることだ。機内のテレビでは大波が映っていたけれど、私には何が起こっているか分からなかった。
飛行機は、2時間遅れで羽田空港に着陸した。管制塔や色々が混乱していて、シートベルトのサインが消えない。丸窓に映った他の飛行機の羽がバタバタと揺れていた。地上にいる機内は乱気流にされされているかのように縦揺れと横揺れを続けていた。テレビの波は・・・大津波だった。

羽田空港に流れ着いた私は、何が起こっているのか知れなかった。だから、いつもの地震や人身事故のように小一時間でモノレールも復旧すると思っていた。誰ひとりパニックではなかった。モノレールへの階段は閉鎖され、交通機関の全ては遮断された。私は第二旅客ターミナルでビールを飲みながらガラケーのネットを開いた・・・大変なことになっているっぽい。羽田空港にいる日本人たちは粛々と新聞紙を敷いて自分の居場所と水を確保していた。パン屋さんは、パンを配り始め、空港施設は毛布と水を配り始めた。ガラケーのバッテリーが底をつきはじめて、私は三月十一日の予定全てを放棄した。悲しかった。稼ぐあてもなく遊びのように映る自分が虚しかった。

第二旅客ターミナルお気に入りの*韓国屋台の店で海苔巻きを食べながら耳を澄ます。店長さんとスタッフはハングルと日本語と英語で「緊急事態において、この店はライフラインに直結する。ゆえに可能な限り店は開け続ける。そして今困っている人今悲しんでいる人に私達は寄り添おう!」

23時を回ったあたりで、日本人たちは新聞紙を2枚被って眠った。あまりにも静々してて、私は色々わからなかったし想像できなかった。そして地べたに横になるのに抵抗していた・・・お店のスタッフが、私のために椅子を4客並べてくれたから、夜明けまで横になろう。ガラケーは夫はじめ友達からの安否確認でどんどんバッテリーを消費し小樽の娘とは連絡つかなかった。乗れる一番早い飛行機で千歳に戻るか、品川の友達の家へ行くか迷いながら少し眠った。

夜が明けると 京急が開通した。
私は逗子へ行くことにした。
私は何も急いでなかった。六浦近辺で電車が止まった。船酔いのような不快感に浸った。
母は、高揚して元気だった。停電だったけれど、そこそこ暖かかった。
一昼夜明けて、母宅テレビで惨事を知った。。。

数日後、私は小樽に帰ることができた。
仙台出身東京在住の友達からメールがきた。
彼女は、叔母一家を亡くして乗れる電車に乗り廃墟の地でお線香をあげていた。
痛ましくて…何も問えず…手をあわせた。。。

目眩く問題は、原発の怖さ。
目に見えないものは、不安をかき立てて、目に映るものへの落胆を増幅する。
ビフォーコロナの学びは、確かにあった。希望についても…



*いつのまにか…無くなっていた。
コメント
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