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ONE KIND OF LOVE

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「平面が持つ主張(オーラ)面積や体積の話と2次元のアートワークの成立ち」

2015-10-06 18:07:50 | エッセイ
「平面が持つ主張(オーラ)面積や体積の話と2次元のアートワークの成立ち」

Aは、ファーストimpression(第一印象)矢印の距離が、よりオーラのあるもの、つまり一定の距離から見た時の印象の濃さに値する。

Bは、痕を引く面積は作品のサイズではないことを意味し、全体のインスタレーション(飾りつけ)にとって重要な事。前後左右にどの作品を置くのか、作品が最もよく見える距離を吟味するとかに関わる。

Cは、まじまじと検めて作品を見た時にその作品のむこう側にある主張だったり物語だったり、知的満足度・心象の共有・観手の自由な創造・妄想の楽しみを司る。


問1) 何故、ここで自作ではない2次元からの写生(2次元)を「善」としないのか?

2次元の自作ではないものには、それを創った(或は撮った)人が考えた光だったり、その人が決めた構図(ポーズ)、その人が演じた瞬間、カメラマンが捉えたフォーカスである。、これを素材(水彩・油彩・・・・ミクストメディア)と媒体(紙・キャンバス・板・・・)にいくら置き換えても、圧倒的に原画(元になる2次元)の「主張(オーラ)」が残る。なぜならば、くどいようだけど3次元4次元以上の感性を2次元に詰め込んだ原作者の「たましい」が籠っているからだ。


問2) 写生して何がいけないのか?

自作ではない2次元を写生することが悪い事ではない。むしろ、プロによる2次元を写生することはよい学習になるだろう。現に、美大では、模写や模刻が必修科目であってそこから技術や理論(知識→論理→理論)を習得できる。それは、あくまでも自分の言いたい事が言えるようになるツールのためのことであって、それを作品としてなんの「理屈」もなく並べる美大生はいない(と思いたい)。アンディ・ウォーホルの考えや作品には、れっきとした理論があってのことなのだ。


問3) 写し方の技術もアートなのではないか?

普通の日本人10人中8人は、美大受験のためのデッサンや写生のレッスンを3年やればモノクロ写真くらいのレベルの写生は職人として出来るようになる。だから美大出なら、仕事なら模写もできるし修復もできるし現実にそういう場で活躍している。カメラのない時代の絵描きは記録者であり、古典・バロック・ロココ・新古典派とうしても、描かれているビロードの産地も特定できるほどの腕(写実)があった。3次元4次元からの描き起こしがされている作品には、次元の転換自体に「葛藤」が伴い、結果、いわゆる公募展の出品作はインテリアとして「飾りやすい」ものではなくなる。制作と作業は違う。作業には感覚的な戸惑いはない。よって広義のアート(いかなるものも生まれいずれば、それはアートである)であっても現段階では、本当の芸術とは言えないと私は思う。


「インテリアとしての平面」と対極にあるもの

3次元4次元~から自分で組み立てるのは、大変だ。自分が満足できるものを描けるようになるためには修行が必要らしい。でも早く満足したい(人の本音)
どうするか?

X) 原点を問い続けて、デッサン・エスキース・設計図を重ねてもがき苦しむ

Y) 作業方法だけは押さえて、プロが作った作品を写生してみる→構図や色合いなどほぼすべての悩みなく「作業」ができる→満足な完成度の高くみえる作品が生まれてしまう→発表したくなるし、安価に発表する場がそこいらじゅうにある→発表したら、評判がいい&売れてしまう。なぜ売れるの?→原画のプロのオーラにシロートがオブラートを何重か?かけた状態。飾りやすい、他のインテリアや主賓を邪魔しない「適度な主張範囲」の作品がうまれてしまったからだ。でも、悲しいことに独創性もなく創造の喜びも薄いものになっていることに、いつまでも気づけない。

X)にもどると、例え「飾りづらい」作品になっても、主張範囲は広く深く、図のCの奥の奥が濃くなるということに気付いた時に「創造の喜びと恥ずかしさ」を知る。恥ずかしさは、作家の謙虚さに繋がるし、創造の喜びは、傲慢さにも繋がる。X)がグループや集団になると、それは、豊かな人間を育てる肥えた土壌になるし、実際にそうやって孤独でも孤立しないように歴史に残る作家は育ってきた。そして、そういう人間がある一定数以上、人類に必要だと私は信じる。


2015年10月4日 ナカムラアリ

コメント
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