「青春のしおり」について書き始めて、あらためてこの曲の歌詞を見てみたら、当時聴いていた印象がだいぶ間違っていたように思えてしまい、停止してしまった。で、この曲で作曲を担当している佐藤健というのはどういう人なのだろうかと調べてみた。
WikiPediaによれば、「1973年(昭和48年)当時、ヤマハ音楽振興会のポプコンに関する業務を行なう部署は『L.M制作室』といい、同室長は、編曲者から作曲家となった萩田光雄で、そこに船山基紀や佐藤健が在籍していた。そこで佐藤は、まだ20歳の大橋と出会った」とある。これは「美乃家セントラル・ステイション」の項目で、文中の「大橋」は大橋純子のことだ。いつごろなのかはわからないが、佐藤健は大橋純子と結婚している。
「都忘れ」で編曲を担当していた船山基紀も、この佐藤健も、萩田光雄の後輩にあたるわけだ。1974年6月、22歳で大橋純子はデビューし、1976年に佐藤健は、「大橋のバックバンドとして美乃家セントラル・ステイションを結成する。第一期メンバーは、佐藤のほか、見砂和照、小田健二郎、土屋昌巳、滝本大助、福田郁次郎、高杉登である」(WikiPedia)という。「青春のしおり」は、大橋純子がデビューし、その後バンドを結成するまでの間に作られた曲のようである。
私は知らなかったのだが、岡田奈々がデビューしてから7作目まで松本隆は歌詞を提供していて(どちらかというと注文を受けて書いていたというべきかもしれないが)、デビュー曲「ひとりごと」(1975年5月10日)と「女学生」(1975年8月25日 )は戸倉俊一と、「くちづけ」(1975年12月10日)と「青春の坂道」(1976年3月10日)は森田公一と組んでいる。「青春の坂道」と言ってもピンと来ないかもしれないが、「せいしゅんは~ ながいさかみちを~ のぼるようです~」という歌詞の曲で、TVドラマ「俺たちの旅」で挿入歌として岡田奈々が歌っている姿をYouTubeで見ることができる。(この曲の歌詞は雑誌「明星」で募集した歌詞をベースにしていて(原案 中司愛子)、松本隆作詞と言いきってしまうといけないのだろう。)
残りの「若い季節」(1976年6月25日)、「手編みのプレゼント」(1976年9月10日)、「かざらない青春」(1976年12月21日)の3曲が、松本隆作詞、佐藤健作曲になっている。私は、大橋純子はともかく、岡田奈々には興味がないので、それらがどんな曲なのか知らないし、調べるほどの情熱もない。しかし、1975年前後に歌謡曲の世界に歌謡曲以外の音楽家たちがなだれこんでいった様子がうかがえるような気がする。
太田裕美の作品で佐藤健の名前は、「12ページの詩集」でもう一度登場する。「一つの朝」(松本隆作詞)だ。タイトルだけではわからないかもしれないが、「みちばたの~ いしころを~ なにげなく~ なげたら~ しあわせのかげがキラリと~ のぞいたよ~」というフレーズがある曲である。さりげない曲だがとてもいい曲だ。
太田裕美作品とはあまり接点がなかったが、気になる存在ではある。で、もうちょっと調べてみたら、植竹公和(放送作家兼作詞作曲家)という方(名前は聞いたことがある)が、興味深いことをご自身のブログ「歌う♬放送作家」で書いていた(2006-08-03 プロ大橋純子&ポップ青年佐藤健のアルバム)。
「このアルバムが日本ポップス史において、ほとんどの音楽評論家が見逃しています。はっぴいえんど関連の人脈だけがポップスを生産してきたわけではないのです。ポップスの閨閥はもっと多岐に渡っていることを音楽評論家は見逃しています。おそらく、すでに若い音楽評論家はリアルタイムで経験していないので歴史を紐解くとき、つい多く出版されているはっぴいえんど関連資料だけを頼りにしてしまうわけです。」
(「このアルバム」とは佐藤健の1972年のデビューアルバム「僕は今ひとり」をさして言っている。)
私は音楽業界の人間でもなく、まして音楽評論家でもないので、音楽史のことは若い音楽評論家にまかせたいが、「はっぴいえんど関連の人脈だけがポップスを生産してきたわけではない」という言葉には敬意を払いたいと思う。
WikiPediaによれば、「1973年(昭和48年)当時、ヤマハ音楽振興会のポプコンに関する業務を行なう部署は『L.M制作室』といい、同室長は、編曲者から作曲家となった萩田光雄で、そこに船山基紀や佐藤健が在籍していた。そこで佐藤は、まだ20歳の大橋と出会った」とある。これは「美乃家セントラル・ステイション」の項目で、文中の「大橋」は大橋純子のことだ。いつごろなのかはわからないが、佐藤健は大橋純子と結婚している。
「都忘れ」で編曲を担当していた船山基紀も、この佐藤健も、萩田光雄の後輩にあたるわけだ。1974年6月、22歳で大橋純子はデビューし、1976年に佐藤健は、「大橋のバックバンドとして美乃家セントラル・ステイションを結成する。第一期メンバーは、佐藤のほか、見砂和照、小田健二郎、土屋昌巳、滝本大助、福田郁次郎、高杉登である」(WikiPedia)という。「青春のしおり」は、大橋純子がデビューし、その後バンドを結成するまでの間に作られた曲のようである。
私は知らなかったのだが、岡田奈々がデビューしてから7作目まで松本隆は歌詞を提供していて(どちらかというと注文を受けて書いていたというべきかもしれないが)、デビュー曲「ひとりごと」(1975年5月10日)と「女学生」(1975年8月25日 )は戸倉俊一と、「くちづけ」(1975年12月10日)と「青春の坂道」(1976年3月10日)は森田公一と組んでいる。「青春の坂道」と言ってもピンと来ないかもしれないが、「せいしゅんは~ ながいさかみちを~ のぼるようです~」という歌詞の曲で、TVドラマ「俺たちの旅」で挿入歌として岡田奈々が歌っている姿をYouTubeで見ることができる。(この曲の歌詞は雑誌「明星」で募集した歌詞をベースにしていて(原案 中司愛子)、松本隆作詞と言いきってしまうといけないのだろう。)
残りの「若い季節」(1976年6月25日)、「手編みのプレゼント」(1976年9月10日)、「かざらない青春」(1976年12月21日)の3曲が、松本隆作詞、佐藤健作曲になっている。私は、大橋純子はともかく、岡田奈々には興味がないので、それらがどんな曲なのか知らないし、調べるほどの情熱もない。しかし、1975年前後に歌謡曲の世界に歌謡曲以外の音楽家たちがなだれこんでいった様子がうかがえるような気がする。
太田裕美の作品で佐藤健の名前は、「12ページの詩集」でもう一度登場する。「一つの朝」(松本隆作詞)だ。タイトルだけではわからないかもしれないが、「みちばたの~ いしころを~ なにげなく~ なげたら~ しあわせのかげがキラリと~ のぞいたよ~」というフレーズがある曲である。さりげない曲だがとてもいい曲だ。
太田裕美作品とはあまり接点がなかったが、気になる存在ではある。で、もうちょっと調べてみたら、植竹公和(放送作家兼作詞作曲家)という方(名前は聞いたことがある)が、興味深いことをご自身のブログ「歌う♬放送作家」で書いていた(2006-08-03 プロ大橋純子&ポップ青年佐藤健のアルバム)。
「このアルバムが日本ポップス史において、ほとんどの音楽評論家が見逃しています。はっぴいえんど関連の人脈だけがポップスを生産してきたわけではないのです。ポップスの閨閥はもっと多岐に渡っていることを音楽評論家は見逃しています。おそらく、すでに若い音楽評論家はリアルタイムで経験していないので歴史を紐解くとき、つい多く出版されているはっぴいえんど関連資料だけを頼りにしてしまうわけです。」
(「このアルバム」とは佐藤健の1972年のデビューアルバム「僕は今ひとり」をさして言っている。)
私は音楽業界の人間でもなく、まして音楽評論家でもないので、音楽史のことは若い音楽評論家にまかせたいが、「はっぴいえんど関連の人脈だけがポップスを生産してきたわけではない」という言葉には敬意を払いたいと思う。