〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

成さんの質問に答えます

2018-08-25 08:42:30 | 日記
今日のブログのコメント、

成さんから以下のような質問がコメントに寄せられましたので、
こちらでお答えします。

田中先生、一つ質問があります。
ロランバルトは「還元不可能な不可能」の境地を開いたのに、「読む」ことは「爆発」だの「散布」だの、「横断」だのと言って、相変わらず文学の「生命の《尊重》」の価値を無視したのはなぜでしょうか。それはロランバルトという人が愛という言葉自体を信じていないからだと感じております。それに対して、「第三項」論は「愛」を前提としていると感じております。いかがでしょうか。


ちょっと難しいですよ。もう二十年ほど言い続け、いや、その前の三十年前から語り、今月号の八月号の拙稿もこの問題を言いづけています。

 まずバルトの「爆発」とか「散布」とかは客体の対象を書かれた文字として捉え、「テクスト」は読みのアナーキー、永遠にこの書かれた文字には辿り着かない、客体の文章はそのまま捉えることは出来ない、正解は永遠にないという考えです。つまり、客体の対象の文字に「還元不可能」であり、バラバラな「複数性」になるという考えです。私はこれを現在、了解不能の《他者》,〈第三項〉、あるいは「客体そのもの」と呼んでいます。田近さんに限らず、まだ多くの研究者に伝わっていません。

繰り返しておきましょうね。

 バルトの第一期、「物語の構造分析」の時代はまだ「テクスト」概念はありませんでした。構造をなす文字群は実体としてきっちりあると考えていました。「容認可能な複数性」の時代です。
 ところがバルトはこれを脱し、「テクスト」概念になると、客体の対象の文章は「エクリチュール」、書かれた文字として、この「構造分析」から百八十度転換、「テクスト」分析になり、世界観認識が大転換します。
 すなわち、読書行為は客体の対象の文章の文字の羅列、「エクリチュール」であるため、これに届かない、と考えるように転換したのです。
 何故ならソシュールの言うように、文字=「クリチュール」は概念(シニフィエ)と視覚映像(シニフィアン)とが任意に一体化することで成立し、両者は一旦、分離することによって、読み手に機能する、言語は、こうした機能だったのです。
 読み手は眼前の文字の形、シニフィアンを視神経で知覚し、この連続が脳内現象を起こし、概念の連続をコンテクストとすることで、一定の意味内容をつかみ取り、読書行為が成立します。
 文字の痕跡が紙の上に残っている瞬間、脳内では読み手各自の一回性によって知覚した概念の連続の現象が文脈を生成していきます。これが読書行為をなすのです。
 もう一度言います。
書かれた文字は紙の上のインクの跡と読み手各自の脳内現象という分離を起こし、これが読書行為をなすのです。
 読むとは元の文章に戻りません。「還元不可能な複数性」です。田近先生と何度も論争でこれを言っています。是が読む事の学問の基本だからです。
 第二期のバルトは生命の尊重ということの不可能性のに立ち会っていたのです。無視したのではありません。その逆です。読むこと、聖書を読んでも聞こえてくるのは自分の声だったのです。ここからいかに立ち上がるか、それがつぎの「明るい部屋」の世界です。

 聖書の言葉もまた読み手によって読み取られ、客体の文章そのものは読めない、みんな読み手次第、バラバラです。一旦、神の言葉は人間の言葉に置き換えなければなりません。これにバルトは気づき、第二期に入りました。
 神学論争です。
 客体の文章は正しくは読めず、読み手に捉えられた文字の意味を読み手が自分で捉えていることでしかない正解のない行為、そこで読むことを「爆発」だの「散布」だの、「横断」だのと言うしかなかった、
 文学研究は一旦、文化研究に転換するしかない、研究を学門として進めていくとこうならざるを得ませんでした。
 一般の文学研究や国語教育は言語とは何かの問いを持たず、こうしたごく基本的なことがまだ学問として十全に行われていません。
 私はバルトとは別に、独自に1988年の「〈他者〉へ」という拙稿で、「了解不能の他者」という観念を提出、私のなかの他者を読む行為が読むことだという考えを提出、二冊の本を書き、のちに「第三項」という観念に至り、今月号に至りました。