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P の本棚

自分が読んだ本や見た映画の記録として。
ストーリーの紹介や感想ではありません。
あしからず。。。(__)

哀愁的東京  重松清

2007年01月05日 | 重松清
「東京の人の波によう」という感覚がある。自分で抱えきれない世界を感じるから。
人はみな孤独だ。孤独な人がこんなにも湧いてきて、みんな足元に俯きながら、歩いているから気持ち悪いのだ。
フリーライターの重松さんが、描いた哀愁的東京。いったい自分は何が書きたいのか、つねにさまよい続けた彼がみつけたもの。
みんなそれぞれ違うものだろう。ずっと探し続けるのだろう。

卒業 重松清

2006年12月05日 | 重松清
重松さんがあとがきで書いている通り、卒業はゴールであるとともにスタートでもある。

人生の中でどれだけ卒業をしていけるのか。
重松さんはこの物語たちの中で、「どうやって許していくのか」「どうやって許されるのか」を描いている。

尾崎の「卒業」の歌詞と実は言葉が重なってるんだよな。

電車の中で、何度も目頭が熱くなりました。。。

四十回のまばたき 重松清

2006年11月15日 | 重松清
みんな穴ぼこを持っている。でも、穴ぼこって何なんだろう。 
憂欝だったり、不安だったり、孤独だったり。一人一人違うんだろう。
真実なんて分かんないし、そもそも何が真実なんだろう。僕らには今ここに在ること。それしかない。そう思うと少し、自分や自分のまわりの人が愛しくなってくる。それでいいのかな。。。

小さき者へ 重松清

2006年07月06日 | 重松清
伝えたい思い。
伝わらない思い。

みんなが胸に抱える不安は、それぞれみんな違うんだけど、実はみんな何処かで繋がっていたりする。

観客とプレーヤー。たしかに自分の人生の観客を決め込んでる人が増えてきてるような気がする。
プレーヤーであり、観客であり。
その方が人生は楽しいし、感動にあふれたものになるに違いない。

明日があるさ 重松清

2006年06月22日 | 重松清
どことなく、のほほんとした表紙に、ゆったりとしたお話かなと思い手に取ったが、実はエッセイ集でした(笑)。
これを読んでよかったのは、重松さんが「いい人」ではないことが分かったこと。
なかなかいい人って、難しいんだよね。

いらついてたり、やつあたりしたり…。
そんないやな部分もあるから、人間な訳で。

友達とは、仕事で主従にはならない方がいい。これには納得。
何も考えずに、話すことが出来なくなると、しんどいからね。
付き合い方を変えざるを得ないから。

いろんな小説のモデルも紹介されているので、小説の合間に読むのにいいかも…。

舞姫通信 重松清

2006年06月20日 | 重松清
生きている理由がありますか?

そんな台詞が幾度も出てくる。重松さんが「自殺」をテーマに描いた作品。
なぜ私は生まれてきたのか。
なぜ私は生きているのか。
私はなぜ死んではいけないのか。

揺れ動く思春期の心が、舞姫通信に綴られている。

上手く表現できないけれど、
生命の誕生の瞬間を目にした私は…

命は奇跡の賜物だから、
あなたの存在は奇跡なのだ
だから、あなたの命を楽しんでください。
苦しいこと、悲しいこと
嬉しいこと、楽しいこと、
悔しいこと、泣きたくなること、
愛しいこと、愛しい人、
全部、全部あなたにとって大切なものだから

あなたの命を、あなたの命の奇跡を
楽しんでください。
あなたの命を愛してください。

さつき断景 重松清

2006年02月15日 | 重松清
断景というのは造語だ。1995年から5年間の3人の等身大の姿を追った物語。阪神大震災の時にボランティアに訪れた高校生。地下鉄サリン事件の時、偶然に普段より1本前の電車に乗ってしまい、生き延びた中年サラリーマン。娘が嫁ぐ日を迎えた初老の男。彼らがそれから毎年どんな自分を生きているのか…。重松清が描く五月の人生の断面たち。

自分の進む道が分からない高校生。私だってその時に今の自分など想像していなかった。自分がどんな仕事を選ぶかも…。阪神大震災のとき、大きな地響きと共に訪れた揺れの中、これまで全く経験のない出来事に、私は動くことが出来なかった…。
確かに、その時その時を生きている私たちは、瞬間の積み重ねで生きている。
そして、ヤマグチさんが言うように、偶然の中で僕らは生きている。
私だって、タカユキのように、自分にとっていい人とは?と聞かれても、素直に答えることなんて出来ない。

人生は、自分で切り開いていくものでありながらも、偶然の上に転がっているものなんだろう。

ビフォア・ラン 重松清

2006年01月20日 | 重松清
重松のデビュー作がこの「ビフォア・ラン」だった。高校受験を控えた17歳の高校生、優は、3年の夏の大会で部活を引退した。そして気が付くと、同級生たちはすっかり受験生モード。急に自分たちの居場所がなくなってしまった。本当の自分と嘘の自分。その間を行ったり来たりしながら悩み苦しむ姿を描いた作品。

「今自分が生きている世界は、本当の世界なのか」これは、映画「マトリックス」の舞台設定だったが、まさに重松のビフォア・ランでは「今の自分は本当の自分なのか…」というシーンが何度も出てくる。
本当の自分とは一体何なのか?自分の本当の気持ちとは?自分の理想の姿?現実の惨めな自分?自分らしいってどういうこと?
そんな疑問や不安に揺れ動きながら、自分の中で時間だけがどんどんと進んでいく。まだまだ答えは出せないのに…。

後の「疾走」を思わせる内面の声の叫びが、この作品にも見え隠れする。最後、優はいろんなことを飲み込んだまま、答えを出さず、ただ「生きていくのだ」ということを、悟っている。今を生き、今日を生き、明日を生き…。
結局人に残されている真実は、生きているという現実だけなのかもしれない。

その日の前に 重松清

2006年01月14日 | 重松清
「その日」をどう生きるのか、「その日」の後もずっと続いていく日常。人はみなその日その日を一日一日生きながら、日常を生きている。

重松が描く死と向き合った人の姿。死を前にした人が見せる透明な姿。そこに人の美しさ、いとしさ、やさしさ、せつなさ…が描かれている。先日、ブログでお勧めいただいた「その日を前に」、これは素晴らしい。読んでいて、涙が止まりません。

私は和美のように「忘れていいよ」とは書けないだろう。忘れないで欲しいと書くかもしれない。最後の最後の愛とは、やはり求めるものではないのかもしれない。求めないで、与えるもの。そして祈るもの、信じるもの…。

幼な子われらに生まれ 重松清

2006年01月10日 | 重松清
失って気付いたはずだった大切なもの…。今度は絶対に失敗しないと心に決めた。しかし新しい命が生まれた時、自分が信じた最も大切なものがまやかしであったことを思い知らされる。重松清が描いた家族像は、何の遠慮もなく、残酷にその現実を突きつけてくる。
きっと薫が父親を許せるようになるのは、薫が結婚するときだろう。自分も夫婦になるとき、初めて父親としての鎖を掛けずに、素直に愛することができるようになるのだろう。

この作品の中で主人公は、この社会の大きなうねりの中で、自分の人生をこんな小さな幸せに振り回されていると嘲り笑っている。しかし、「家族を持つ幸せ」はそんなに小さなものだろうか…。社会のシステムの中で、少しでも大きな歯車に係わっていたいという欲望はあったとしても、そんなまやかしで本当に心が満たされることはない。
心を満たしてくれるもの。それは、「自分が愛する人」そして「自分を愛してくれる人」の笑顔しかない。

未来 (カカシの夏休みより)

2006年01月07日 | 重松清
ある日突然、クラスメイトが自殺。そのクラスメイトの遺書に名前があったことで、突然「ひとごろし」とよばれることになってしまった弟。
そして、同じように自殺したクラスメートの男の子の電話を冷たく切ってしまったことで同級生に「人殺し」と叱責されたことで、体を壊してしまった私は、「いいひとになりたい」という言葉とは裏腹に、笑うことも泣くこともできなくなってしまった。
弟のクラスメート全員の名前が入った遺書が見つかっったことで、疑いが晴れた弟が、
「関係あるよ」
「そう?」
「うん、やっぱりさ、こういうのって、運命じゃん」
しっかりとクラスメートの死を背負いながら生きていくことを決めた弟の姿。それを見たとき、私もやっと、笑えるように、そして泣けるようになった…。

こうして書いている私のブログは、手紙なんだろうか。日記なんだろうか。
何もしなければ、何事もなく過ぎていく毎日を、こうやって振り返ることで、何かを記していけるんだろうか。

ライオン先生 (カカシの夏休みより)

2006年01月07日 | 重松清
この3作品は、とても印象的だったので、それぞれ書かせていただきます。

「ライオン先生」
高校教師、雄介は、20代のころ長髪をなびかせながら、自分の信ずる教師像を存分に発揮していた。娘が3歳のときにがんで亡くなった妻の智子も、自分の教え子だった。大学を卒業したての雄介は、当時自他共に認める熱血教師で、ライオンの鬣をなびかせながら、生徒たちの兄貴として熱意を伝えることに情熱を傾けていた。
しかし、十数年を経て雄介のライオン先生は「カツラ」のライオン先生になってしまった。生徒たちとの距離も広がってしまい、昔のようにいい兄貴でもいられなくなってきた。そんなとき、自分のクラスの生徒「安藤」が学校に来なくなった。学校に来る意味を見出せない安藤の言葉に違和感を感じながらも、自分の言葉で語ることができなくなってしまったライオン先生…。そんな中、精神的に追い詰められると、カツラの中が痒くてたまらなくなる。

理想の自分と、現実の自分のギャップ。誰しもいろんな言葉を飲み込みながら毎日の生活を送っている。いつまでも、甘い理想を語ってばかり入られないのは分かっている。しかし、いつまでも青臭い理想を語れる自分でありたいとも思う。

カカシの夏休み 重松清

2006年01月07日 | 重松清
「カカシの夏休み」「ライオン先生」「未来」
3つの学校を舞台にした物語は、心に染みるものばかりだった。
まずは…
「カカシの夏休み」
今は小学校の先生をしている僕「コンタ」は、学校の子供たちから「カカシ」とあだ名をつけられている。自分の子供と同じ年の4年生を担任しているが、クラスには、カズという問題児を抱えていた。
そんな時、今はダムのそこに沈んでしまった故郷の小学校時代の同級生「コウタ」が、自動車事故で死んでしまう。久しぶりに葬儀で顔をあわせた同級生たちは、みなそれぞれの十数年を経て、ぜんぜん違う顔を持つ大人になっていた。そして、その中にユリもいた…。

この物語には、たくさんのカカシが出てくる。カカシとは顔のない大人のこと。今の妥協した自分を案山子と呼んでいるのだ。でも、そのカカシが夏休みに自分のためにすることって何だろう。コンタは友達のカカシたちを無理やり誘って、ダムのそこに沈んだ故郷を訪ねようとする。
何よりうれしかったのは、カズの居場所を作ってやれたこと。人にはそれぞれ居場所が必要だ。大人だって、子供だって必死になってそれを探しながら生きているんだ。

トワイライト 重松清

2005年12月20日 | 重松清
この物語は、タイムカプセルを媒介にながら、未来と今の現実との間のギャップの中に、自分を見つけ出せずにいる大人たちの物語だ。
ドラえもんの登場人物である、のび太くん、ジャイアン、静香ちゃん、スネオ、ドラえもん…。ドラえもんのお話の中では、それぞれにキャラクターとしての役割があって、その役回りの中で人間関係が成り立っていた。
確かに、子どもの頃、友達の中にはジャイアンみたいな奴やスネオみたいなやつがいた(笑)。
でも、今会うと、きっと全然違う奴になってしまっているんだろう。徹夫のようにいつまでもジャイアンはできないだろうし、真理子も静香ちゃんのようにいつまでもみんなの憧れではいられない。のび太だって、いつまでもドラえもんに甘えている訳にはいかない。いつかは自分の足で踏み出していかなければ、ならないのだから。

しかし、後書きにもあったが、ノストラダムスの予言とは何だったのか。人は未来を語るとき、夢の世界や憧れの世界を口にする。しかし、誰もが一抹の不安を持っている。それがノストラダムスの予言だったのではないか。
今、自分がタイムカプセルに入れるとしたら、何を入れますか?

一体なんだろう。何を入れるんだろうか、私は…。

エイジ 重松清

2005年12月17日 | 重松清
エイジは14歳の誕生日を迎える。自分の誕生日を祝う家族の姿に、恥ずかしい思いを抱く姿は、「そうそう、こんな感じだった…」というもの。
自分の中にも「タカやん」に通じる危ない部分を見出したエイジは、自分をどうしていいか分からず、一日日帰り家出を実行する。そこで繁華街を彷徨しながら、「なにやってんだ」と、自分をとりもどす。エイジがしたのは自分の居場所を確認したという事だったのではないか。自分の頭と心がどういう状態なのかを冷静に見れるように。
重松の描く4TEENは、14歳の内へ内へと向かう心の中を思い出させてくれた。確かに14歳は必死だったよ。ぎりぎりだった。そのときは気付かなかったけどね。