前回のテーマ「今、ここの常識を疑え!」について、今回は違った視点から見てみたいと思います。
昨日は、阪神淡路大震災からちょうど17年を迎えた日です。この震災で、被災地となった関西の人々が一番困ったのは、「水」でした。地震によって水道設備が被害を受け、被災地の各家庭に清潔な水が提供されにくくなったためです。水は人類の生存に不可欠なものでありますし、同時に、真冬の乾燥した朝に火災が発生したことで需要がより高まっていました。そのため、被災した人々は、「水」のために奔走し、またあるときは「水」のために団結したわけです。
私達は、震災の直前まで、「蛇口をひねれば清潔な水が手に入るのは常識だ。」と思っていたはずです。ところが、その「常識」は、大震災によってあっさりと否定されました。
そして、昨年3月11日の東日本大震災。今度は、関東・東北地方の発電・送電施設が被害を受け、私を含む被災地の人々は「電気」に困ることになりました。PCやケータイ、「オール電化」が普及した2011年当時の私達の生活にとって、電気はなくてはならないもの。そして、その電気は、電力会社からいつでも一定の量を供給してもらえるのが常識と、私達は信じていました。ところが、ご存知の通り、計画停電や電力使用制限令が実施されたことによって、そんな「常識」も否定されました。
こうした体験から、どういう教訓が学べるかといいますと、
「私達が日常受けているサービスが、思わぬ形で停止されてしまうこともあるものだ。」
ということです。また、さらに掘り下げて考えるならば、
「私達が日常受けられるサービスは、水や空気のごとく受け止めてはならず、日々感謝しなくてはならない。」
ということもいえそうです。これは、先日お伝えしました「「ありがたい」の心を持とう。」ということにもつながってきます。
私自身も、業務能力が追いつかず日々お説教されてばかり(汗)ですが、それでも価値ある取り組みをする場を用意して頂いたことに、感謝、感謝です。
昨日は、阪神淡路大震災からちょうど17年を迎えた日です。この震災で、被災地となった関西の人々が一番困ったのは、「水」でした。地震によって水道設備が被害を受け、被災地の各家庭に清潔な水が提供されにくくなったためです。水は人類の生存に不可欠なものでありますし、同時に、真冬の乾燥した朝に火災が発生したことで需要がより高まっていました。そのため、被災した人々は、「水」のために奔走し、またあるときは「水」のために団結したわけです。
私達は、震災の直前まで、「蛇口をひねれば清潔な水が手に入るのは常識だ。」と思っていたはずです。ところが、その「常識」は、大震災によってあっさりと否定されました。
そして、昨年3月11日の東日本大震災。今度は、関東・東北地方の発電・送電施設が被害を受け、私を含む被災地の人々は「電気」に困ることになりました。PCやケータイ、「オール電化」が普及した2011年当時の私達の生活にとって、電気はなくてはならないもの。そして、その電気は、電力会社からいつでも一定の量を供給してもらえるのが常識と、私達は信じていました。ところが、ご存知の通り、計画停電や電力使用制限令が実施されたことによって、そんな「常識」も否定されました。
こうした体験から、どういう教訓が学べるかといいますと、
「私達が日常受けているサービスが、思わぬ形で停止されてしまうこともあるものだ。」
ということです。また、さらに掘り下げて考えるならば、
「私達が日常受けられるサービスは、水や空気のごとく受け止めてはならず、日々感謝しなくてはならない。」
ということもいえそうです。これは、先日お伝えしました「「ありがたい」の心を持とう。」ということにもつながってきます。
私自身も、業務能力が追いつかず日々お説教されてばかり(汗)ですが、それでも価値ある取り組みをする場を用意して頂いたことに、感謝、感謝です。