ミケの雑記帳

グ~タラしたい毎日

天下分け目の戦に関る元軍港

2011年05月05日 20時33分09秒 | お出かけ

はい、相変わらずの腹の調子の悪さを引き摺っております。
早く治って下さい。
今回はちゃんと観光した訳ではない場所なので短いです。
天気と時間に追われてましたからねぇ。
言い訳ですが、この時、ある場所へと急ぎたい理由があったのです。
それは次回の話。
では、少しだけ立ち寄った舞鶴編、Doぞ~。


舞鶴は天橋立までの途中にある都市です。
五老ヶ岳という山で東舞鶴と西舞鶴の2つに市街地が分かれており、東舞鶴は元軍港という色合いが、西舞鶴は旧城下町としての色合いを強く残しています。
東舞鶴の海沿いの道からは赤レンガ倉庫や海上自衛隊の船がガッツリ見れて中々迫力がありましたよ。
それなりに衝撃を受けましたわ。
と言っても、東舞鶴はまともに観光をしていないのでこれくらいしか書く事がありませんね。
もう一度訪れてゆっくり観光したいですわ。

ま、西舞鶴もまともに観光したのは田辺城だけです。
現在は大手門と連なる一部の城壁が復元されており、本丸跡は市民の憩う公園となっていました。
小さいながらも庭園もありました。
元々はそれなりに大きな城ですが、二の丸・三の丸部分は明治時代に廃城となって以降埋められたりしたため窺い知ることは出来ません。

写真の大手門も近年復元されたものとのことです。
この城に何故訪れたかというと、天下分け目の関が原の戦いに関わりがあるためです。

詳しくはwikipediaなんかで調べて欲しいんですが、家康さんが上杉征伐のために奥州へ向かった隙に対抗するため機内を平定したかった石田三成。
まずは「味方になって~」と手紙を書いて、色好い返事が無ければ「なら力尽くじゃ~」と各地の城を(一応)配下の武将を使って攻めさせました。
その1つが細川藤孝の治める丹後地方。
藤孝さんは天橋立近くの宮津の城にいましたが「田辺の方が守りやすいわ」と言って田辺城で迎え撃つことにしました。
息子で当主の忠興は家康さんに付き従い主力を率いて遠くは関東の地。
手勢は500で攻め手は1万5千。
激闘を交えながら籠城すること50日。
討ち死に覚悟の藤孝さん。
武に優れた藤孝さんですが、知識人としても有名で『古今伝授の書』というものを持っていました。
それが戦火で失せてしまうのは嫌だったので時の天皇に献上したところ、藤孝さんを死なせることを怖れた天皇さんは驚いて「いや、戦争やめれ」と田辺城を明け渡すことで講和しなさいと使いを出しました。
そんなこんなで田辺城攻防戦は終了した訳です。

ってなことがあったお城です。
大手門の2階部分は資料館となっていますが、展示品は少なかったですね。
江戸時代の頃の商家の物と当時の城下町の縮図の展示しかなかった気が・・・。
本丸跡の公園では子供達がはしゃいでいましたねぇ。
不振なおっさんはさっさと退散するしかなかったですよ。
この時気付けば2時くらいになっていて、帰りのことも考えて結構すぐに出発しましたね。
昼飯を抜いたまま帰路へとつきましたとさ。


今日の天気 
 最初の写真は二層櫓です