美麻珈琲 ブログ

長野県大町市美麻にある美麻珈琲のブログ
自然豊かな中山高原からお届けする
日々の様子から、お店からのご案内など

松山さんの黒糖・たんかんオレンジ

2008-03-06 20:25:27 | インポート
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3月5・6日
  • 奄美に島の宝、洋菓子の松山さんを訪ねる。
彼は私が右も左もわからない20歳ころに出会い、鷹揚な生き方に当時衝撃的なカルチャーショックを受けた先輩であり、精神的に影響を与えられた恩人である。
数年前に行った時に黒糖の生産をしたいと言っていたので、もう出来たかなぁと思いM氏と行ってきた。
空港で待ち合わせて、向かう道中。どうも話が噛み合わない。
私は山の上のサトウキビ畑で小屋を作り、生産を開始ししたものと思い込みで話す。
しかし、計画は大幅に変更となり、空港に程近い浜辺の最高のロケーションで有店舗で昨年の12月にオープンをしていた。
たまげた。。。小屋とはほど遠い、デザイナーズ建築の店舗と黒糖工房になっていた。
昔ながらの島の黒糖づくりの風景を一新した造りに驚いた。
美麻珈琲で「黒糖ミルク珈琲 フィナンシェ」と「信州胡桃と黒糖のビスコッティー」のお菓子を早々と予定いしているので早速に奄美きょらうみ工房の黒砂糖や固形化に煮詰める前の黒糖シロップが気になる。
きょらとは美しいという意味。
風味がたっぷりの黒糖は水分をいくらか残して仕上がるので、長期保存食品ではないので使う分だけ発注してほしいとのこと。
焙煎後1週間をめどに飲んでほしいコーヒーと同様に生鮮食品であるんだぁ。
まがい物の多い昨今、丁寧に作り上げている姿勢は松山さんそのものの生き方のようであった。
      • 西郷隆盛の潜居先、龍郷村を訪ねて
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鹿児島錦江湾の海に身を投じた西郷と月照。月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生した。
 一人だけ生き残った西郷は、苦しみ。共に身投げした相手が死に自分だけが生き恥をさらした西郷は自殺未遂から一ヶ月後に書いた手紙には。


「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候。(私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上です)」

そしてこんな西郷に、藩は奄美大島行きを命じました。
これは遠島(流罪)ではありません。ご案内いただいた本家分家末裔の瀧さんが強調されていました。
西郷は二回の島流しにあったと書かれている本がありますが、この一回目の奄美大島行きには、年六石の扶持が付いていますので島流しではないというものです。
これは「安政の大獄」によって西郷にも幕府から捕縛命令が出ていたため、その幕府の目から逃れさせるための処置でした。
西郷は先君・斉彬の無二の寵臣であったので、この運びになりました。翌安政6(1859)年1月、奄美大島へと旅立ったのです。

 当時の奄美大島と言えば、貴重な砂糖の生産地であり、年貢として島津に納めていました。島民には最も厳しく、そして過酷な取り立てが行われていました。当時、島の農家には各戸それぞれの負担生産額が割り当てられ、いかに不作の年であっても、ノルマが達成出来ない時には、厳しい処罰が待っていました。幼い子供が隠れてサトウキビを少しでもかじったのが役人に見つかると、厳しく処罰されたのです。作ったサトウキビなのに、一口さえもその生産農家の人々に入ることがありません。
 西郷が奄美にやって来たこの年、サトウキビが不作であったので、そのノルマを達成出来なかった農民達が十数人出ました。島役人達はその事が自分らの手落ちになることを恐れ、その農民達に厳しい拷問を加えました。西郷は常日頃から、そんな農民達の窮状に心を痛め、役人達の非情なやり方に憤っていたので、そのような拷問が行われていることを聞き、ある日、役人の相良角兵衛に面会を求め、農民達を解放するように頼みました。しかし、普段から島民に対し威張り切って傲慢になっていた相良は、西郷の意見を完全に無視しました。その相良の態度に怒った西郷は以下に言い放ち、席を立ちました。

「おはんが方針を改めないのなら、おいが直接藩主公に対し建言書を書きもうす。おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから覚悟しておられよ」

相良は大いに後悔し、態度を豹変し、西郷に対し平謝り、農民を解放することを約束しました。

西郷はやさしい性格で、病人や老人に、自分の扶持米などを分け与えていたことなどから、次第に大変島民に慕われるようになりました。ついには西郷の住居があった龍郷(たつごう)一の名家である龍家の一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚もしたのです。
 西郷はここで3年もの間、片時の幸せな結婚生活を過ごすことになったのですが、時代はまた西郷を必要としていったのです。
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たんかんオレンジ
松山さんのお陰で、夏のゼリー用に400kg仕入れることが出来ました。
果汁にしてドラム缶一杯分。絞りの残り皮は煮詰めて、美麻珈琲のお歳暮用ギフトのバターケーキ用に使います。

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また、松山さんはイタリアからのピザ窯に使うために、薪の割りの機械も自作していたので参考になりました。
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昭和天皇も「これはうまい。もう一膳!」の元祖、鶏飯をいただき、二日間だが密度の濃いかった奄美を後にしました。


シニアのための 早春の里山散策

2008-03-03 16:13:37 | インポート
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3月2日

この春で二年目の子供たちを迎える山村留学「神河やまびこ学園」。

早春の兵庫県神河町を関西の山村留学OBの父母等と訪ねた。

一同にわが子を送り出したのは長野県。

そちらで同期だった親たち、今回この地は初めての訪問。

雪が残る不動の滝までズボ足で登り、その往路はノンビリと谷あいの山里を歩く。

川は雪解けの水であるが、急に春めいたのでキラキラ光り、温んだ感じ。

雪を掻き分け、ユキノシタや蕗の薹を天麩羅用に探す。

はがまで薪ご飯を、イロリ端で地元野菜・地鶏・手作り蒟蒻の鍋。

1006m千が峰登山は積雪のため中止して、昼の日中に五右衛門風呂に浸かり雪見。

のんびりの二乗の日でした。

わたしは信州入り間近。

そののちはストローベイルハウスの工事再開。

しばしの間を関西オウカー!?(謳歌)中です。