わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

訃報記事のドラマ=岸俊光

2008-12-31 | Weblog

 社会面の片隅に載る訃報(ふほう)記事には、小さくとも人間のドラマが詰まっている。特に、大きな記事になることが多い文化人や芸能人を取材対象とする学芸部記者は報道に神経を使う。

 この春から週1回掲載の「悼む」欄を担当し、今まで以上に訃報に注目するようになった。欧米紙のオビチュアリー(訃報記事)はさらに充実している。

 訃報記事は、亡くなった人の評価に直結する。短い行数のなかに何を書くか、大きさはどうか。新聞社の力量が試される。最近は1人暮らしが多いから、死亡確認も簡単ではない。

 「悼む」の方は、親しい記者や関係者の手になる、第一報では伝え切れなかった追悼文だ。仲が近すぎると、緊張して筆が進まない。遠いと情に欠け空々しくなる。人となりを紹介するのはなかなか難しい。書き方に興味をもち、追悼ばかり集めた本も読むようになった。

 ここ半年ほどの「悼む」にも記憶に残る記事がある。

 作家、小島直記さんとの交流をつづった岩見隆夫・客員編集委員の記事は、豪快な男ぶりに爽快(そうかい)感さえ覚えた。ソ連反体制作家、ソルジェニーツィン氏の記事には三瓶良一・元モスクワ支局長の若い日からの思いがこもり、スラブを身近に感じた。

 札幌五輪「日の丸飛行隊」の青地清二さんが、失敗ジャンプから銅メダルをつかんだ秘話を描いたスポーツジャーナリストの伊藤龍治さん。評論家・作家の俵萠子さんとの心の交わりを書いた同僚の記事も印象深い。

 掲載できる人は限られるし、誰もが知る人ばかりでもない。それでも読者を動かすのは、筆者の姿がそこここにうかがえる飾りのない言葉なのだろう。(学芸部)





毎日新聞 2008年12月27日 東京朝刊

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