わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

靖国の国際政治学=伊藤智永

2009-03-03 | Weblog




 年明け急逝した靖国神社宮司・南部利昭氏の後任は、「霞会館」に集う旧皇族・華族を軸に人選が進められていると聞く。元「電通マン」の南部氏も旧盛岡藩主家の当主で、神職経験のないまま宮司に推された。

 戦後の靖国運営は、宮司の個性に大きく左右されてきた。世界平和主義者で旧皇族の筑波藤麿宮司は、A級戦犯合祀(ごうし)を生涯保留し、昭和天皇から「慎重に対処してくれた」と感謝された。筑波氏の死後、政官界の保守陣営に担ぎ出された松平永芳宮司は、天皇の難色を知りながら合祀を決行し、以来、天皇は靖国に参拝していない。

 晩年の昭和天皇が側近たちに靖国への気がかりを漏らしたのは、歴史教科書問題や政治家の侵略戦争否定発言が起きた時である。侵略と敗戦、戦後の占領と繁栄が、世界と歴史のどういう現実によってそうなってきたのかを冷静に認識し、靖国問題を精神論ではなく、国際政治の文脈でとらえていたからだろう。日中・日韓関係が不安定だと、いずれ日米関係を損ない、ひいては国益を減じるのだ。

 昭和天皇の政治センスに比べ、小泉参拝で意気盛んだったころの靖国神社はいただけなかった。中国・韓国からの批判には猛然と反発していたのに、境内の戦史博物館「遊就館」の展示が、米国のシーファー駐日大使やアーミテージ元国務副長官から非難されると、直ちに記述を改め、その後、中国関連の記述も柔らかい表現に直した。

 戦後、靖国神社が存続できたのは、米国の冷戦戦略抜きには考えられない。政教分離原則とは別の意味で、新宮司はいや応なしに、国際政治のしなやかなバランス感覚を求められる。(外信部)




毎日新聞 2009年2月28日 東京朝刊


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