わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

心の被爆=玉木研二

2009-01-30 | Weblog




 戦争末期に理数英才教育のため選抜した「特別科学学級」を先週紹介した。続きである。

 広島高等師範付属中学の学級は原爆に遭った。京都の宗教ジャーナリスト、山野上純夫(やまのうえすみお)さん(79)はその一人だった。

 科学学級の生徒は勤労動員を免除され、午前7時に始業、2時間単位の授業を夕方まで続けた。山野上さんによると、1945年8月6日、原爆投下の午前8時15分は広島文理科大の増本文吉教授の有機化学の授業中だった。少し脱線して焼夷(しょうい)弾の話になった時、閃光(せんこう)が走った。

 爆心地から1・5キロ。校舎は倒壊し、教室内26人の生徒のうち25人は奇跡的に助かったが、1人が梁(はり)の下で即死した。火が迫る前に級友たちが遺体を引き出し、防空壕(ごう)に安置して逃れた。勤労動員中の市内の学校の生徒や教員が多数死傷した。

 戦後山野上さんは結局文系に進み、毎日新聞記者となるが、被爆体験は黙した。思い出したくないのと「語る資格がない」と思っていたからだという。生き残った負い目を生存被爆者の多くは抱く。昨年夏、同窓会から求められて初めて話した。

 女学生だった妻里子さん(76)も偶然被爆を免れ、戦後つらさを味わう。級友の遺族から「娘の分まで生きて幸せになってください」という言葉を聞くには半世紀の時が必要だった。

 「今に一つの都市を焼き尽くすという大きな実験があるだろう。君たちは科学者としてよく観察しておくことだ」。原爆の直前、科学学級で原子物理学の三村剛昂(よしたか)教授が言ったという。

 山野上さんは科学者とは別方向に進んだとはいえ、物理では解けない「心の被爆」と長く向き合うことになった。(論説室)





毎日新聞 2009年1月27日 東京朝刊


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