わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

牛になる=町田幸彦

2008-04-02 | Weblog

 Oさんへ

 明日から4月。就職活動を始める君への便りを考えていたら、明治の文豪・夏目漱石の手紙を思い出しました。若き日の作家、芥川龍之介と久米正雄にあてた文言です。

 「牛になる事はどうしても必要です。根気ずくでおいでなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません」

 「文士」を「上司」や「会社・組織」にすれば、漱石の意はよく分かる。人の心を動かす生涯は幾多とあります。

 3月4日、英国日本人会長の平久保正男さんがロンドンの病院で逝去しました。享年88。平久保さんは太平洋戦争で陸軍主計士官としてビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦に従軍し、復員後に商社に勤務。83年に退職後ロンドンに暮らし、日英の元軍人の和解に尽力した方です。ビルマ戦線の英軍元兵士たちとの対話を続け、03年にはロンドンの教会中庭に「昨日の敵は今日の友」と記した日英共同の銘板を置きました。

 平久保さんは「戦地で崩れていった聖戦思想」の記憶と凄惨(せいさん)な体験を若い人々に伝えるため従軍記をまとめ、日本で講演しました。在英日本人の間で静かに語り継がれてきた長い地道な人生でした。

 Oさん、君はこれから人間の森に入っていきます。時に砂漠に残された気分に陥っても、人間を押している誰かがどこかにいて、学ぶことができます。それを忘れずに社会への旅に出てください。(欧州総局)




毎日新聞 2008年3月31日 東京朝刊


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