沖縄戦で生徒たちの集団自決を止めた教師がいた。
仲宗根政善先生はひめゆり部隊の女子生徒12人と沖縄本島南端に追い詰められた。少女たちは車座になり、3個の手投げ弾の栓を抜こうとし「先生、いいですか」と叫んだ。先生はとっさに「抜くのではない! 抜くな」と叫び返し、少女たちは従った(琉球新報社「ひめゆりと生きて・仲宗根政善日記」)。
戦後、先生は琉球方言研究の第一人者となる一方、ひめゆりの記録や資料館づくりに打ち込んだ。残された日記は犠牲者への思いと教師としての自責が繰り返される。こんな一節もある。「日本の教師にして、あるいは世界の教師で一九四名の教え子たちを死地に追いやったのは、今では私一人だけであろう」
男子生徒の鉄血勤皇隊と共にあった沖縄師範の野田貞雄校長も、同じころ「勇気を奮い起こして生を全うせよ」と諭し、解散した。この無駄死にをするなという訓示を残して彼は帰らぬ人となる。
生徒の一人だった大田昌秀隊員(後の県知事)は、戦後、遺族を訪ねた。夫人は「主人が至らぬゆえに、多くの若い生徒さんたちを道連れにして申し訳ありません」と手をつき、涙を落とした。
そうではない、と大田元知事は「沖縄のこころ」(岩波新書)に感謝を込めてこう書いている。「先生の一言で、何十人かの若者たちが、『生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず』といった禁忌をのりこえて生を全うすることができた」
63年前の今日は、沖縄本島に米軍が上陸し「あらゆる地獄を集めた」といわれた地上戦が始まった日である。(論説室)
毎日新聞 2008年4月1日 東京朝刊
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