わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

生きるか死ぬかの英語=玉木研二

2009-02-26 | Weblog




 当然ながら外国語会話のテキストに描かれる家庭や町は大抵善意と善人に満ちている。こんな好人物ばかり世の中にいるものか、とこちらが日常の現実に失意を味わっている時は悪態もつきたくなるが、ジャックやベティに行儀悪い話や世の憂さを語らせるわけにはいくまい。

 しかし、本来会話は世の現実と切り結ぶ手段のはずだ。

 研究社の「英語青年」2月号に堺女子短期大学の玉木雄三教授が「英会話教本に見る占領期の世相」という特別記事を書いている。教本とは、敗戦翌年の1946年3月、三省堂が刊行した小冊子「会話便覧米兵との話方」である。

 大半の日本人にとって初めて間近に見る米国人とどう意を通じ合うか。まず「会話道」というのがあって、「機転利かし、勇敢に、臆(おく)せず」「封建的な言語心理からの脱却」を説く。お辞儀をしたり、あいさつ代わりに「どちらへ?」(Where are you going?)と聞くのも戒める。彼らはどこへ行こうと他人の干渉は受けない、というのである。大変だ。

 こんな例文があるのも当時ならではだ。「誰か?」「日本人です」「出ろ! 早くしろ!」「撃つな!」「動くな!」「助けて!」「証明書を見せろ!」

 娯楽と慰安のホールの場面もある。「ひとつ踊ってください」「どうぞお願い致します。随分踊りなさるのでしょう」

 旅館ではこうだ。「シャボンと便所紙とタオルはないでしょうか」「お気の毒様です。戦争以来そういう物は手に入らないのです」……。

 懸命に暗記する姿を思う。英会話が今と違い、リアルに生きるすべだった時代の話である。(論説室)




毎日新聞 2009年2月24日 東京朝刊


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