わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

「政治家だって使い捨て」。小泉純一郎元首相が…

2008-03-25 | Weblog

「政治家だって使い捨て」。小泉純一郎元首相が、いわゆる「小泉チルドレン」にそう言い放ったら、ワーキングプアといわれる若者たちの間で、小泉人気が急上昇したそうだ。明日への希望をもてない「使い捨て」扱いの気持ちがよく分かっているというのだ。

そのことに文化人類学者の上田紀行さんは大きなショックを受けた。「使い捨てにされているのは政治が悪いからではないか」と怒るどころか、「そうだ、みんな使い捨てなんだ」というふうに納得してしまっている、と。

このまま「使い捨て」が社会の標準になれば、取り返しがつかなくなる。私たちは交換可能な消耗品ではなく、一人一人がかけがえのない存在ではないか。上田さんは最新刊「かけがえのない人間」(講談社現代新書)でそんな思いを熱く語っている。

その本で「使い捨て」の対極に置かれているのは、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世が説く「愛と思いやり」だ。そんなことを言えば、国際的な競争力が低下し、国民にも依存心が広がり、弱い国になるとの批判を浴びそうだが、社会への信頼を取り戻すのが大切だという。

そのダライ・ラマは今や中国政府の最大の敵。チベット暴動の収拾に向けた対話を呼びかけても、中国側は激しい敵意を表すだけだ。外国メディアなどの現地立ち入りが拒否され、閉ざされた中で悲劇が続いていないか気がかりだ。

人は何によって生き、どんな社会を求めるのか。ダライ・ラマは「愛や思いやりの心を持てばこそ、差別や暴力に怒るべきだ」という。チベット暴動は遠い世界のことではない。日本人は「思いやり」も「怒り」も忘れている。




毎日新聞 2008年3月24日 東京朝刊


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