わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

コシャマイン記=玉木研二

2009-02-08 | Weblog




 鶴田知也(ともや)の名は今はそう広く知られていない。1936(昭和11)年、同人誌に書いた短編「コシャマイン記」で第3回芥川賞に選ばれた作家である。

 1902(明治35)年、北九州・小倉に生まれた。豊津中学からキリスト教の神学校に進むが、思い転じて北海道、さらに各地に渡ってさまざまな労働をし、労農運動に身を投じた。同じ中学の先輩であるプロレタリア作家葉山嘉樹(よしき)の影響といわれる。

 「コシャマイン記」は、実在したアイヌの英雄と同じ名を与えられた若者が江戸期のシャモ(日本人)の収奪に抗すべく、同胞糾合を求めて道内を彷徨(ほうこう)する物語だ。簡潔で抑制した文体である。読めば、鶴田の体験がこの悲劇物語をつむぎ、これを借りて、大正から昭和にかけ弾圧で崩壊していった労農運動の姿を映したと感じ取れる。

 怒り、共鳴、決意、勇気、行動、打算、裏切り、逃避、敗残。この物語でアイヌの各部族の長らが表すものは鶴田が運動に見たものだろう。後半、勇猛高潔なアイヌの若者だった主人公は失意を重ねるうち<口髭(ひげ)ばかり噛(か)み続ける無口の男>に変じている。そして意外で悲痛な結末(機会あれば読んでいただきたい)は、こう終わらせるしかない葛藤(かっとう)が鶴田の中でたぎっていたためと私は思っている。

 今、急進する雇用不安や矛盾の露呈がこれまでにない運動や思念を生む可能性はある。そこにどんな人間観察や葛藤があり、物語を生み得るか見当もつかないが、「文学に何ができるか」という古い問いかけが、少し息を吹き返すかもしれない。

 「コシャマイン記」は「芥川賞全集第1巻」(文芸春秋)に収められている。(論説室)




毎日新聞 2009年2月3日 東京朝刊


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