わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

海の男の誇りを=大島透

2008-03-30 | Weblog

 海の男を歌う演歌は聴くたびに涙腺がゆるむ曲が多い。79年の村木賢吉「おやじの海」も、82年の鳥羽一郎「兄弟船」も涙なしには聴けない。経済的に豊かな生活が実現し、暗い酒場の女の恨みや未練などを描く演歌が絵空事になる一方で、海を歌う演歌は現実感を保っている。真冬に雪のすだれをくぐって進む船も、全身に潮を浴びて巻き上げる網の重さも、命がけの労働の現実だ。いや、演歌の話ではない。海の男の話だ。

 イージス艦と漁船の衝突事故で、海上自衛隊側の当初の発表が「事実とは違う」と勝浦の漁師たちが記者会見などで説明した。「回避義務は自衛艦側にあったのに、自分たちの都合のいいように発表している」という趣旨だ。

 事故原因の解明は海上保安庁の捜査結果を待たねばならない。ただ一連の報道で、テレビで流れた勝浦の漁師の一言が胸に突き刺さった。そこに憤りや反発は感じられず、穏やかな口調だったので逆に印象が強い。「沖で自衛艦と出合うたび、心の中で『お互いに頑張ろう』と声援を送ってきました。自衛官も漁師も海で働く仲間同士だからです。しかし今回の弁明を聞き、海の仲間という連帯感が何だか薄れてしまいました」

 自己保身に走る者は海に生きる仲間ではないと言っている。これほど悲しい言葉はない。どの職業人にもそれぞれの職の誇りがある。自衛官こそ国を守る誇りを胸に、苦しい訓練に耐えている人たちではないか。期待すればこそ失望も深いのだ。組織防衛より国民に誇れる姿を見せる方が大切だ。公に尽くす誇りが折れた時、組織は保てない。(報道部)




毎日新聞 2008年3月30日 東京朝刊


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