わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

花見ノ勧メ=渡辺悟

2008-03-30 | Weblog

 ガソリン暫定税率をめぐる迷走、ただ殺したかったから殺す若者、円高・株安……。なのにサクラが咲き始めた。のんきに咲いてる場合ではないけどやっぱり咲く。

 「世の中は桜の花になりにけり」。良寛さんの句そのままの世界だ。

 先祖代々1000年以上愛し続けてきたサクラの季節到来は、答えが見つかりそうもない自問につながる。最近の美しくない日本は、一体どこに原因があるのだろう。

 作詞家、故阿久悠さんは日常敬語の喪失を嘆いていた。「日本人の最も優れ、最も美しく見える姿は、何気ない日常の中に『敬語』を組み込むことが出来た、知性の高い生活哲学である」と(文芸春秋特別版「和の心 日本の美」2004年)。

 同じ本で編集者、松岡正剛さんは母親の言葉の美しさを取り上げ、言葉が「つねに四季の景物や、近づく行事の気配や、自分が着ている着物や客に出す和菓子につながっていた」と書いていた。

 昔がすべてよかったとは言わないが、伝統と言葉が今よりはるかに美しく調和共存した時代があったことは記憶にとどめておいていい。

 サクラに戻る。少し前、戦艦大和から生還した元兵士の話をうかがう機会があった。「豊後水道で見たサクラがすごくきれいでした」。それだけだったが、強く印象に残った。死闘前日、1945年4月6日夕。喫水線から40メートル、防空指揮所付近から見たというサクラを思う。

 「さまざまのこと思ひ出す桜かな」。芭蕉の句である。日常から少し離れるためにも花見に出かけようと思う。(編集局)




毎日新聞 2008年3月29日 大阪朝刊


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