わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

毎日新聞コラム「発信箱」2009年8月8日~11日分まで

2009-09-13 | Weblog

マクナマラ、二つの顔=岸俊光

 
 「あなた方、ベトナムの指導者は目の前で国民が死ぬのをどう感じていたのか。なぜ交渉に応じなかったのか」

  「独立と自由ほど尊いものはないからだ。ベトナム人は奴隷の平和を受け入れない」

  ベトナム戦争を指導し7月6日に93歳で亡くなったマクナマラ元米国防長官が、戦争の真相をめぐり、ハノイの元政府関係者と97年に討議したさいのやりとりである。

  その会議録を入手し、「我々はなぜ戦争をしたのか」というテレビ番組をつくった元NHKディレクターの東大作さん(40)に、マクナマラ氏の追悼文を書いてもらった。

  「たとえ相手が敵であっても、国家のトップ同士が対話を続けなければならない」。東さんはマクナマラ氏の言葉を教訓とするよう訴える。

  対話のきっかけは、戦争終結から20年後に過ちを認めた氏の回顧録だった。遅すぎる反省は議論を呼び、対話の場面でも冒頭の無神経な質問で相手を怒らせた。それでも、他の政治家と比べ、率直さを評価する声は少なくない。

  他方でマクナマラ氏の別の「顔」を教えてくれたのが、共同通信ワシントン支局長などを務めたジャーナリストの松尾文夫さん(75)だ。

  松尾さんは、マクナマラ氏が東京大空襲を計画した一員だった点を鋭く突く。氏が真相を初めて語ったのは、03年の映画「フォッグ・オブ・ウォー」の中でのことである。

  以前、松尾さんがインタビューした時も対日戦への言及は一切なかったという。晩年に目をうるませ告白した姿をどう考えればいいのだろう。

  人は確かに歴史に学ぶことができる。だが、血肉化するのはどれほど難しいことか。マクナマラ氏の振幅の大きい人生はそれを教えている。(学芸部)

 

毎日新聞 2009年8月8日 東京朝刊

 

 

 

マリアさん被爆地へ=広岩近広


 セミの鳴き声にせかされて、今夏も被爆地を訪れた。何度足を運んでも、その時々に感情を揺さぶられる。

  広島と長崎には、今なお原爆の後障害に苦しむ大勢の被爆者が暮らしている。ある人はがんとの闘いを続け、ある人は放射線の人体への悪影響におびえている。心の傷は深い。それでも懸命に生き続けることで、原爆の原罪を問うている。

  被爆地にはこうした生き証人の他に、負の世界遺産ともいうべき原爆の惨禍を見せつけてやまない資料館がある。感情を揺さぶる力は、広島と長崎に特有のものだろう。

  だから、オバマ米大統領を被爆地に招く運動も盛りあがる。大統領が被爆地に立ち、原爆資料館で一時を過ごせば、原子爆弾は使ってはならなかった、核兵器は地球上にあってはならない--との思いを強くするだろう。私はそう確信している。

 だが、オバマ大統領の広島、長崎訪問となると、そう簡単にはいくまい。極めて政治的な課題になるからだ。

 原爆の日、広島で思った。まず、オバマ大統領夫人のミシェルさんと長女マリアさん、次女サーシャさんを被爆地に招待できないだろうか。

 というのも先月イタリアで開かれたG8サミットの際、11歳のマリアさんが反核のシンボルマーク入りのシャツを着てラクイラの街を歩く姿をテレビで見たからだ。彼女なら被爆地の声を受け止め、発信してくれるにちがいない。

 安易に子どもに頼るなと、おしかりを受けるかもしれない。だが、今まで大人は核兵器を廃絶することができなかった。マリアさんたちの世代が核廃絶の推進力になってくれれば、きっと新たな地平が開けるであろう。(編集局)

 

毎日新聞 2009年8月9日 東京朝刊

 

 

 


少年の夢=福島良典

 ブリュッセルに住む知人のコンゴ人男性(48)一家が昨年、一時帰国した。3人の子供はコンゴ民主共和国(旧ザイール)の旧宗主国ベルギー生まれ。両親の祖国を子供に見せたいとの思いがあった。

 初めて目にする最貧国家コンゴの混とんに子供たちはおびえた。空港では警察官さえも金銭を要求する。道路は未舗装が多く、街灯もまばらだ。

 途上国にとって鉱物資源は「もろ刃の剣」だ。経済発展の原動力となり得る「天の恵み」だが、資源を求める先進国や近隣諸国の介入を招き、紛争や内戦の火種にもなる。

 アフリカ最大の鉱物資源国コンゴも例外ではない。同国東部での紛争激化の背景には、携帯電話に使われているレアメタル(希少金属)のコルタンを巡る争奪戦がある。

 「紛争の原因には鉱山がある。アフリカは企業や指導者に搾取され、地下や水中の富が国民に届かなかった」。アフリカ諸国歴訪でクリントン米国務長官は地元住民への資源収入の還元を訴えた。

 だが、東西冷戦下、反共拠点だった旧ザイールのモブツ政権に援助をつぎ込んだのは他ならぬ米国だ。冷戦終結後は米企業が相次いで資源開発の契約を取り付けた。

 コンゴ国民は資源利権の獲得を狙う欧米や近隣諸国の思惑に翻弄(ほんろう)され続けた。長年の紛争で残されたのは失敗国家だ。20世紀末から1日あたり1000人が戦闘や貧困で命を落としていると言われる。

 「大統領になってコンゴをきちんとした国にしたい」。知人男性の長男(9)はベルギーに戻ると、そう口にするようになった。ベルギーの大学に進み、政治学を修めるのが当面の目標だ。資源を生かした平和な国づくりを目指す少年の夢を応援したい。(ブリュッセル支局)

 

毎日新聞 2009年8月10日 東京朝刊

 

 

 

復興の記憶=玉木研二

 
 「広島の街が復興していく過程を撮ったらどうか」。1948年、被爆から3年、焼け跡を残す街の喫茶店で名取洋之助は説いた。

 名取は戦前から活躍する報道写真、グラフ・ジャーナリズムの第一人者だ。広島来訪を知った若い写真家らが話を聞こうと集まっていた。

 君たちは原爆が人や街に残したつめ跡を記録して後世に伝えよ--という激励を期待していたら、拍子抜けする言葉だったかもしれない。しかし、明田弘司(あけだこうし)青年は違った。言葉に心をつかまれ、翌日にはカメラを手に街を眺望できる比治山(ひじやま)に登った。以来、時間を作っては出かけ、高い屋上では定点撮影も続けた。

 86歳。今夏、膨大なフィルムから、50年代を中心に街と人々の日常の表情を記録した写真集「百二十八枚の広島」(南々社)を出版した。名取のアドバイスを受けてから実に60年以上を経ていた。

 その写真に魅力尽きぬのは、単に私がその街に育ったからばかりではない。焼き払われた日本中の都市が復興していく時の普遍的なエネルギーが、そこから発しているからだろう。今私たちはそれを忘れかかっていないか。

 私にとってとびきりの1枚は、板塀や掲示板に所狭しと張られた映画のポスターや絵看板のたたずまいだ。雪の日で56年ごろ、福屋百貨店の近くらしい。洋画の「四角いジャングル」「ベニイ・グッドマン物語」「黄金の銃座」、邦画の「狸(たぬき)小路の花嫁」「彼奴(きゃつ)を逃すな」「風船」……まだまだある。映画は最高の楽しみで、そのころ街には50を超す館があったという。

 砂漠のガンマンもチャンバラの侍もすし詰めの掲示。それがあのころの、むっとするような活力を象徴している。(論説室)

 

毎日新聞 2009年8月11日 東京朝刊


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