宇都宮地裁の判事がストーカー容疑で逮捕、というニュースが飛び込んできた。
私とそう違わない年齢なのに、インターネットカフェとかフリーメールとか、世間のトレンドはしっかり押さえている、と感心している場合ではない。
裁判官など法律の世界にも発想が柔軟で人間味のある人は多いのだが、浮世離れした堅物(かたぶつ)の固定観念が強いから、この事件に驚きがある。
いまの刑事裁判も、分かりにくくて近寄りがたいイメージがぬぐえない。職業裁判官の経験に一般市民の良識を取り込んで、文字通りの「開かれた裁判」にしようという改革が裁判員制度だ。
スタートまであと1年になった。だが、法曹界のPRで中身が知られるほどに、裁判員に選ばれるのを敬遠する声が目立つという皮肉な現象が起きている。
時間や手間を取られるわずらわしさだけではない。罪の有無を判断し、罰の重さを決め、ときには死刑かどうかの選択も迫られる。「人が人を裁く」ことへの畏(おそ)れとためらいが強いせいだろう。
実際に同じ市民の裁判員がどう悩み、知識や体験がどのように判決に反映されたか。その足取りがわかれば、肩の荷も少しは軽くなる。
制度には守秘義務など厳しい制約が設けられている。だが、改革の狙いを生かすには裁判員保護に支障のない範囲で判決までの議論の概要を明らかにしたり、裁判員個人の意見や感想を公表できるような手直しを考えてもいい。
市民感覚を生かした裁判の実現にはもう一段、やわらか頭の発想が欠かせまい。(論説室)
毎日新聞 2008年5月24日 大阪朝刊
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