散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

ヴィヨンの妻

2009年11月14日 | ☆たまに娯楽

カミさんが観たい、というので出かけた。どうも「松たか子」さんが出演しているから「隠し剣鬼の爪」の監督・スタッフまでもが一緒なのかと勘違いしたらしい。普段から観たいと思う映画を観ることにしている。だから、事前の情報入手や下調べはまずしないで、とにかく映画館へ直行すると、思っていた以上の、あるいは以下の感動を受けることになる。最近は、ららぽ~と、グランベリーモールへ行くことが多い。いずれも昼前後は混むので、午前の時間帯に合わせて出かけた。



すると、この混雑だ。いったいみんな朝っぱらから何を見に来ているんだろう?
そういう私たちの後ろに並んでいる人も同じ事をいっていた。

とりあえす「夫婦割引」でチケットを確保し、早めの昼食をとることにしたのだが、レストラン系は午前11時から営業ということで、結局、マクドナルドでランチ。



それにしても、アイスドリンクにしても、ホットコーヒーにしても、この容器の複雑なデコボコはなんのためにあるんだろう?
ご存知の方、教えてください。
ポテトをつまみながら窓の外を見ていると気づいたことがある。
ここ町田グランベリーモールで犬を散歩させている人の多いこと。それも乳母車のようなものに犬を乗せて押しているのだ。こうなると、人は散歩だけど、犬は散歩ではない。
葬儀屋さんに聞いた話では、旦那のお墓には一緒に入りたくないが、飼い犬、飼い猫とは、一緒のお墓に入りたい、つまり自分のお墓に入れて欲しいという人がいるらしい。
ペット葬儀も家族葬同様、今は無視できないほどの需要があるという。
犬や猫には「魔」が棲むといい、死者に近づけてはならないとされた。魂が肉体を離れても、まだ娑婆に未練があってウロウロしているときに、可愛がっていた犬や猫を近づけると、魂が入り込んで天国・極楽へ行けず、畜生の肉体を使って近親者に危害を及ぼすと信じられていた。
人が病を得て、死に至る理由はほとんど解明されていて、迷信を信じる余地など殆ど残されていないが、それまで話をし、目を見て、手を握る、そんな生きている証を示していた人が、目の前で息を引き取ると、まったくピクリともしない。
その瞬間を「魂」が抜けたと表現する。その魂が解明できていないのだから、死は100%解明できているとはいえない。
解明できれば、死は免れることができることになる。

さて「ヴィヨンの妻」。太宰治の作品で有名な著書は読んだけど、これは読んでいない。
太宰治の生涯も、昔、ひととおり受験対策としてインプットしていたが、ほとんど忘れてしまった。
記憶にあるのは、薬中毒で、放蕩グセ、無頼派、そして心中事件を何度か起こし、最後も心中して遂に死をとげ、それを「桜桃忌」として今も太宰ファンが香華を手向けるということ。

まず「ヴィヨン」がキーワード。途中「フランソワ・ヴィヨン概論」という本が映像の中に流れる。フランソワ・ヴィヨンは、15世紀フランスの中世最大の詩人とも、最初の近代詩人とも称された。
パリ大学を卒業したものの、売春婦やならず者と悪事を働き、乱闘のすえ司祭を殺害、逃亡して窃盗団に加わる。逃亡、入獄、放浪の生活を送ったため、「ヴィヨン」は、無頼で放蕩な人の例えとして使われる。
そして、太宰治の生涯をおさらいしてから映画を観ることをオススメしたい。
副題の~桜桃とタンポポ~。
HPタイトルに流れる「愛など信じたら、すべてが消えてしまうと、男は恐れている」「すべてを失った後に、残るのが愛だと、女は知っている」という言葉も、伏線として押さえておきたい。
また、すべてについて、その時代が背景にあり、決して現代へ通じるものではないという感想を持った。
戦中・戦後のあんな時代だったから、修羅を予見するような小説の題材になりえたのだと思う。
最後に桜桃を口に運び、そのたびにプップッと路上に吐き捨てる。
そして、内縁?の妻と寄り添い、手をつなぐ。すべてはそこに帰結するのだと表現している。
今の時代に、この愛はありうるのだろうか?
お互いに秘めたやさしさと心の強さを相手に思っている。しかし一方は、出自あるいは作家ゆえ、ヴィヨンでありつづけようとする不安定さを持っている。


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