
今から2年後には、大阪万博と同じような規模の「国際園芸博覧会」が、瀬谷区の旧上瀬谷通信施設跡地で開催されます。
この旧上瀬谷通信施設は、返還される前、アメリカの軍用通信基地でした。
しかしそれも、第2次大戦で日本が敗戦したことにより、もともとあった日本海軍補給工場をアメリカ占領軍が接収し転用したものでした。
そもそも瀬谷区のあるエリアは、旧相模国のうち境川水系の東部で構成される鎌倉郡の上流域で、水田に乏しく、畑作をもって生活しているような場所でした。
幕末、生糸が輸出品目の上位になると、畑には桑が植えられ、製糸工場が次々に操業します。
その鎌倉郡(下流部の鎌倉・藤沢を除く)が昭和14(1939)年に、横浜市最後の第6次市域拡張で合併されてしまいます。
【図出典:横浜の町名】※見出し図も
【図出典:横浜の町名】※見出し図も

今までは、歴史年表のただ1項目にすぎず、平成の市町村大合併と同様、国策によるものと思っていました。
「どんな理由があって合併したんですかねぇ?瀬谷に海軍施設ができることと関係あるのかなぁ?」
と質問されて、ちょっと調べてみることにしました。
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