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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

〈語りことば〉としての英語

2009-03-22 07:48:48 | 表現を考える
昔、高校の国語の授業で、古文とは昔の言葉だと教えられた記憶がある。
それを〈話しことば〉と先生が言ったのか、そこまでは覚えていない。
おそらく古文で習うことばは、当時(中古以前)の時代には〈話しことば〉ではなく〈語りことば〉だったはずだ。
「物語」とは「物」が「語る」話であり、「物」とは「物の怪」を指す。
つまり、物の怪がヒトの体に乗り移って、人間でない話を聴かせることが、「物語る」だったわけだ。

だから「物語」のことばである「言語」は、日常とは違う「言語」であったことは違いない。
それは〈書きことば〉とも違うはずだ。
文字が輸入される前にも「物語」は存在していたはずだし、人間の発達を考えても、〈書きことば〉が音声言語を先行するとは思えない。
人々は「物語」を〈書きことば〉と日常の〈話しことば〉とは違う「言語」で享受していたはずなのだ。
それはその中間である〈語りことば〉である。
〈語りことば〉は物の怪が語ることばなので、それを聴く人間たちは話すことはできない。
いや、理解はできる〈ことば〉であったかもしれないが、呪術的な要素を帯びる〈語りことば〉は、ある特定の職種の人間でしか操れなかったはずだ。
そうでなければ、「物の怪」が「語る」ことにならないし、人々はその〈語りことば〉に特別なものとして耳を傾けることはしなかっただろう。

「物語」によって非日常性を体験すること、これが物語を享受する人々の目的の一つだった。

僕は文学者ではないので、こういった説明をしたかったわけではない。
僕の疑問の出発点は、古文ではなく、むしろ現代におけることばの状況をである。
もっとずばり言うなら、現代における英語の意味・機能である。

電車の中で「L'Arc-en-Ciel」の「SHINE」を聴いていると、HYDEの歌う歌詞を何とか訳そうとする僕を発見する。
ラルクに限らず、英語の歌詞を聴いたりすると、自然日本語に訳そうとするだろう。
よくよく訳して聴いてみると、実は全然たいしたことない(特別でない)メッセージだったりする。
「愛している」というのなら、なぜあえて英語に訳すのだろう、とふと考えたくなる。
これが最初の疑問だ。

それを考え始めたときに、そういえば、古文の〈語りことば〉の成立について思い出した。

日本人には、「言霊」という言葉がある。
これは誰が言い始めたのか知らないが、非常にうまい言い方だ。
「言霊」とは、ことばに魂や霊が宿るという考えを如実に表した言葉だ。
「マイナスなことばばかり並べていると、マイナス思考になる」
「口に出すことと、思っていることは全然意味が違う」などと積極くさいことは誰もが言われたことがあるはずだ。
事実、僕もそれは痛感するところがある。

だが一方で、それは日常的な〈話しことば〉や〈書きことば〉では効果はそれほど大きくない。
日常的なことばでは、呪術性が低いからだ。
だから昔の日本人は〈語りことば〉を生み出したわけだ。
現代において、ことばの教育が進む中で〈話しことば〉も〈書きことば〉も、あるいは〈語りことば〉も日常化している。
(※ ここでいう〈語りことば〉は現代における語るためのことばを指す)
現代の日本人がたどり着いた先は、意味はあるが、容易には理解しがたい英語だったというわけだ。
古来、呪文は一般人には理解しがたかった。
だが、呪文も〈語りことば〉も全く意味がない音声の羅列ではない。
有機的な音声の羅列だ。
そのせめぎ合いのなかで、異なる位相で、同じような神秘性を持つのが、英語だったわけだ。

もちろん、それはポルトガル語ではなく、ロシア語でもなく、中国語でもない理由は、文化的背景に拠るところが大きいだろう。
けれども、問題は、僕たちは英語に大きな魅力を感じるのは、呪術的な理解のしにくさにあるのだ。
「物語」という定義は様々にできるが、英語も「物語」的な要素を含んだことばとして、僕たちの前に猛威を振るっているのだろう。

僕たちは知っておくべきだ。
どれだけ呪術的なことばを並べても、非日常性を求めても、日々日常のことばを生きること、これが何より大切であるということを。
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