secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ハウルの動く城

2008-12-30 16:15:09 | 映画(は)
評価点:79点/2004年/日本

監督:宮崎駿

「なぜ?」を問うてはならない物語。

18歳のソフィー(声;倍賞千恵子)は街を歩いていると、兵隊に絡まれる。
そこに現れたのは謎の魔法使い(声:木村拓哉)。
魔法使いは何者かに追われ、ソフィーは共に逃げ出す。
魔法使いの助けで逃げ切ったソフィーじは、自分が働いている店に戻る。
すると「荒地の魔女」(声:三輪明弘)が彼女に呪いの魔法をかけて去っていく。
立ちすくむソフィーは自分の顔をのぞくと、90歳のおばあちゃんになっていた。
店を飛び出したソフィーは、導かれるように恐ろしいと言われているハウルの城を訪れる。

ついに公開。
「千と千尋の神隠し」で大ヒットを飛ばした宮崎監督の最新作(2004年11月現在)。
声にキムタクを起用したり、異例とも思えるコマーシャルを抑制したりと、本作も話題に事欠かない。
日本全国が、再び宮崎シンドロームにかかることは間違いないだろう。
ただ、その期待を裏切らないかどうかは、非常に微妙な作品である。

▼以下はネタバレあり▼

この作品を〈読む〉のに、さまざまな観点が立てうる。
その前に、先に作品全体を総括しておこう。
ストーリーにも書いたように、ヒロインであるソフィーは、「荒地の魔女」という見るからに“悪役”の魔女に、たまたまハウルとであったことによって、気まぐれから90歳のおばあちゃんにされてしまう。
しかし、その魔女は「のろいをかけられても、解き方は知らない」という。

物語の発端は、のろいをかけられたことに始まることでわかるように、のろいを解くことで、物語は終わる。
要するに、どのようにのろいを解くのか、ということが、物語のメイン・テーマ(中心的な課題)であると言える。
観客は、その課題を「続きはどうなるのか」というサスペンス効果と共に、追うことになる。

ハウルの城に迷い込んだソフィーは、カルシファーという炎の悪魔に出会う。
カルシファーはソフィーののろいを見破り、「おいらとハウルの契約の秘密を解いてくれれば、そののろいも解いてあげられるかもしれない」と取引を持ちかける。
課題は、「どのようにのろいを解くか」から、ハウルとカルシファーとの関係はどのようなものか、ということに変換される。
こうして、問題解決へと一歩前進される。

ここから先の途中経過はすっ飛ばして、結論からみてみよう。
カルシファーとハウルとの関係は、次のようなものだったことを、ソフィーは知る。
ハウルは、カルシファーに心臓を与えることで、自分の支配下になるように契約する。
カルシファーは人の心臓を得ることで、大きなエネルギーを得ることが出来る。
恐らく、ハウルが生きている限り燃え尽きることがないのだろう。
その見返りとして、ハウルは自分だけの城を築く。

ここからは推測になってしまうが、劇中から読みとれるとしたら、次のような裏のプロットがあるのだろう。
ハウルは、サリマン先生のやりかたに矛盾を感じるようになる。
外見は綺麗だが、中身は利己主義であり、魔法をもちいて利権を得ているだけのように見えたのだ。
反発したハウルは荒地の魔女の元へ向かう。
しかし、物事の本質知っているように見えた荒地の魔女も、結局はサリマン先生のような利己主義的な人間にすぎなかった。

絶望したハウルは、自分だけの居場所を築く必要があった。
そこに現れたのがカルシファーだったのである。
カルシファーと悪魔の契約を交わし、自分だけの城=自分の信じる道を定めるのである。
しかし、彼には心がない。
心を渡してしまった彼には、何者にも染まらない城を手に入れた代わりに、立ち向かう力 = 勇気をなくしてしまう。
よって、ハウルは、多くの国からその力を求められたとしても、それを断わる勇気も、それに加担する思い切りも、もてないでいるのである。

ソフィーは、その契約を見破ることによって、ハウルの心を取り戻す。
そして、それは同時に自分ののろいを解くきっかけでもあったのだ。
しかし、ここで重要なのは、なぜハウルの心を取り戻すと、のろいも解けるのか、という点を劇中からだけでは取り出せないことだ。
のろいをかけられるきっかけも、意味もなく気まぐれであった。
同時に、解かれるときも、大きな理由がないのだ。
このきっかけの理由を探ろうとするのは、この作品のテーマではない。
「なぜ?」を問うてはならないように、この映画は出来ているのである。

その意味では「千と千尋」とは対極的な映画であると言える。
「千と千尋」はあざといほど、説明的で劇中に「理由」が述べられていた。
神秘的な世界を描いておきながら、ものすごく現実的で、具体的な映画だった。
しかし、本作はそれに比べて抽象度の高い映画となっている。
「千と千尋」で大ヒットを飛ばしたことを考えると、この映画はヒットしないだろうということになる。

だが、この映画が「わけわからん」ように思えたのは、理由を問えないことだけが原因ではない。
もっと大きな原因は、ハウルの敵がいないことにある。
そして、それに拍車をかけているのが、ソフィーが常に庇護される存在 = 嫁(主婦)としてのヒロインでしかないことだ。

ハウルが何と戦っているのか一向に見えない。
戦争を嫌っているのはわかる。
サリマン先生のやり方に同意できないこともわかる。
しかし、彼をヒトでなくすほど熾烈に戦っている者とは何なのか。
これが一向に見えないのだ。
ソフィーを守るために戦っているように見える。
しかし、ソフィーがハウルの城に来る前から、ハウルは何者かと戦っている。
戦争をしかける船を襲うところをみれば、ハウルはサリマン先生とだけ戦っているわけではない。

では具体的に何が彼をそこまで追い詰めるのか。
これが一向に掴めない。
抽象度の高い言葉で言えば「悪意」と戦っているといえるだろう。
あるいは自分自身の「弱さ」と戦っているという説明もできる。
しかし、それはテーマそのものであって、ハウルの敵の具体像ではない。
敵が仮想できないから、観客はハウルの城にいても、どきどきもワクワクもできない。
観客は、冒険をしていながら、冒険を傍観する位置にしかいられないのだ。

それに拍車をかけているのが、ヒロイン・ソフィーの立つ位置である。
彼女は、ハウルと共に城に住み、ハウルの痛みを知ろうとする。
だが、実際には彼女はハウルに庇護される者でしかない。
「私は掃除婦です」という台詞が示すように、ハウルを内側から支える世話役でしかない。
視点人物であるソフィーが常に庇護されるものでしかないため、ハウルが戦う相手も見えずに、曖昧になってしまうし、冒険が傍観という位置でしか参加できなくなってしまう。

ソフィーは積極的な女性に見えるが、それは後で述べるように「母親」という女性でしかない。
消化不良になった観客が、求める答えは「なぜ?」しかなくなってしまう。
しかし、それは明かされずに、なんとなく「ハッピー・エンド」で終わってしまう。
これでは観客も納得しないだろう。特に「千と千尋」をこよなく愛す大衆は。

作品の〈読み〉方は複数ある。
それは、最終的な僕の評価と共に、稿を改めることとしよう。
 
【マザコンとしての物語】
宮崎監督といえば、ロリコンの代名詞だった。
出てくる少女、出てくる少女、皆かわいらしく、そして、彼女達は、昔男の子が幻想した少女像である。
本作はそれを払拭しようとしたのか、マザコン・宮崎駿少年が前面に押し出されている。

ソフィーは、先にも書いたように嫁としての役割以外与えられていない。
掃除をして、「家族」の面倒をみて、火の世話をする。
時にはハウル=夫が落ち込んだときは慰める。
ハウルの城の中で与えられている役割(ポジション)は、現実の主婦や嫁といった「お母さん」のそれなのである。
象徴的なのは、「荒地の魔女」に対して介護することである。
元気な中年女性(ソフィーはどんどん若返っていく)が、ボケはじめた老女を介護する。
それは今日の日本の介護状況そのものだ。
ソフィーというヒロインを、現代の「お母さん」として描いたのである。

この角度から考えると、ハウルを宮崎少年ととらえることができる。
ボロボロの城に住むハウルは、何もかも面倒を見てくれるソフィーという母親を求めているのだ。
それは物語のもう一つのプロットを浮かび上がらせる。
ハウルを主人公とした母親からの自律の物語である。
そして、母親からみれば子離れの物語でもある。

ハウルは、詳らかではないが、サリマン先生から逃げ出した。
しかし、精神的に弱く純粋なハウルは、ついて行った荒地の魔女と暮らすこともできなかった。
だからハウルは城に閉じこもり、孤独と臆病をむさぼるのである。
それは母親の役割を担っていたサリマン先生にも同じである。
サリマン先生の身の回りの世話をする少年は、子どもの頃のハウルなのだ。
もっと言えば、サリマン先生の元をさり、荒地の魔女の元へと向かった時期のハウルなのだ。
サリマン先生とハウルとの状況を考えるうえで、これは非常に重要なことである。

サリマン先生は、戦争に加担させるためにハウルを呼び戻したかったのではない。
サリマン先生は、ハウルと暮らしたかったのである。
サリマン先生もやはり孤独だったということだ。
弟子離れできない師匠だったのである。
だから魔法でハウルそっくりの世話係をつけている。

ラスト、サリマン先生はあっさりとハウルから手を引く。
なぜだろう。
ざっくり言ってしまえば、ハウルに「女ができた」からである。
彼女ができた息子にいつまでもすがりつくことはできない。
それをさとったサリマン先生は、息子からあっさりと手を引く。
これで漸く、ハウルとサリマン先生は自律、子離れができたことになる。

もちろん、荒地の魔女も同様に、孤独を「養子」のハウルで埋めようとしたのである。

【ヒトの心と戦争】
反戦。これは宮崎監督の映画人生を通してのテーマであろう。
本作も色濃い反戦のテーマがにじみ出ている。

本作での戸惑いの一つに、国家間で起こっている戦争の状況がよく判らないことが挙げられる。
ハウルはそれをしきりに止めようとするが、戦争の原因が判らないため、どうしても観客が取り残されてしまう。
それを先には「敵がいない」と言ったのである。
その問題はおいておくとして、では本作での戦争とは何だったのだろうか。

ハウルは「何か」と戦っている。
それはテーマとして抽象的に取り出すなら、人の悪意や自分自身の弱さである。
大雑把に言えば、その闘いをソフィーの目線から描いた作品と言えるだろう。
一方、外の世界でも戦争が続いている。
平和だった街の人々も、次第に戦火におののくようになっていく。
このように考えると、戦争を挟んで、ハウルと実際の戦争という2つの戦争を二項対立的に取り出せるように見えるが、
実際には一つの闘いである。

ハウルとサリマン先生との戦いが、激しくなればなるほど、戦争は平和な街まで襲い、激化していく。
この2つの闘いは呼応している。
見えない者と戦っているハウルが見る世界が、戦争をしている。
実際の戦争も、ハウルの内在的な戦争であり、街はハウルの精神状態を映す鏡でもある。
自分だけのオアシスをソフィーに紹介する場面で、ハウルは「こんなところまで軍艦が通るのか」と溜息を漏らす。
それはハウルが心的に追い込まれているという証拠でもある。
ハウルは、もう逃げ場がないほど追い込まれているのである。

ハウルの闘いと、国家間の戦争が呼応している証拠として、ハウルとサリマン先生が和解すると、戦争も「こんなバカな戦争は終わらせてしまいましょう」となる。
現実の戦争を考えると、なんともあっけない幕切れである。
拍子抜けした結末だけをみると、観客が金を返せと叫びたくなる気持もわからなくはない。

ここでは、再び戦争とハウルの心的な闘いとの二項対立的対比が重要になる。
ハウルがサリマン先生から自律をするために要した心の葛藤や闘いに比べ、国家間の戦争は、非常に軽いという逆転が起こっているのである。
そして国家間の戦争は、大きな意味や、利害が関わっているようで、実のところは、始まりも終わりも気まぐれにすぎないということなのである。

裏のプロットを読みとろうとすれば、隣の国の王子ののろいが解かれたことで、戦争をする理由がなくなったとも受け取れる。
つまり、隣国の王子が行方不明になったことが、戦争の始まりであり、それが相手の国の陰謀だと考えた隣国が、サリマン先生に戦争を仕掛けた、と考えられるわけだ。
だが、これは隠されたプロットであり、そんなことは余り重要ではない。

問題は、個の心的な闘いに比べれば、戦争なんて誰かの心一つで始まったり終わったりするものだ、という、宮崎駿の哲学が読みとれるということである。
戦争がいかにばかばかしいものかを作品を通して描いているのである。

【魔法の象徴性】
本作の主人公は、ハウルという魔法使いである。
顔と名前のある魔法使いとして三人の魔法使いが登場する。
ハウルに加えて、荒地の魔女と、サリマン先生である。
本作において、〈魔法〉は重要な象徴となっている。

本作においての〈魔法〉は、大きく2つのものを象徴している。
1つは、武器としての魔法であり、もう1つは、心としての魔法である。

魔法は限られた者にしか使えない。
また、二つの国から力を貸すように言われるハウルを見ればわかるように、戦争にとって強力な武器となりうる力を、魔法は持っている。
荒地の魔女がのろいのかけたり、ハウルが戦艦を落としたり、魔法の一側面として武器を象徴しているといえる。

「一つの街に爆弾が落ちないように魔法をかけることで、周りの街に爆弾が落ちる、魔法とはそういうものです」と変装したハウルが言うとおり、魔法には強力すぎるゆえに使い方次第では毒にも薬にもなるという諸刃の刃である。
「ナウシカ」で核兵器を象徴した巨神兵を描いたが、本作の魔法は、それよりももっと矛盾に満ちた力として描かれている。

もう1つは、心としての魔法である。
目に見える力としての魔法が武器、兵器だとすれば、目に見えない力としての魔法は人の心に他ならない。

例えば、荒地の魔女は、のろいのかけかたは知っているものの、解き方は知らない。
彼女は、壊すことはできても、直したり癒したりはできないのだ。
なぜなら、彼女の心にそうした心がないからだ。
ある魔法を使うためには、その魔法を使う魔法使いが、それに見合った心を持っていなければならない。
心は、魔法そのものなのだ。
だから、ハウルとカルシファーとの契約を解除させたのは、ソフィーのハウルを想う心だし、カカシのカブののろいを解いたのも、ソフィーの心だったのだ。

この物語は、見るものに魔法をかける。
あなたが魔法にかかったとすれば、それは作画がすぐれていたのではない。
作り手の心があなたを動かしたのだ。
魔法使いを描くことで、魔法を使えない人がどのように魔法を使うべきなのか、あるいはどんな魔法なら使えるのか、ということを描いている。
それが正しく伝わったかは、やはりこの映画の出来によるところが大きいわけだが。

【ユーモアとシリアス】
この映画で僕がうれしく思ったのは、宮崎駿監督特有のユーモアが復活していることだ。
それは、彼の余裕とでも言ってもいいかもしれない。
「もののけ姫」以降の作品では、監督に余裕がなくなったのか、ユーモアが影を潜めてしまった。
テーマを描き出すために必死になり、大人でも子どもでも純粋に笑えるようなシーンは極端に減った。
息の詰まるような完成度をめざしていたのだろうか、僕には余裕のない彼の姿が目に浮かんだものだ。

本作では、ジブリでは肝とも言えるユーモアが復活している。
荒地の魔女と、ソフィーが階段を登るシーンや、カルシファーとのやりとり、弱ったカルシファーが動かす小さな城など、笑えるシーンがかなりある。
だが、僕の言いたいことはそれだけではない。
この意図的とも思える笑えるシーンは、シリアスなテーマ、抽象的なテーマを隠すためにあるのだ。

わかりやすいユーモアの応酬は、わかりにくいテーマへの序曲である。
違う言い方をすれば、ユーモアによってテーマを隠そうとしている。
あるいは「抽象的なテーマのいい訳として具体的なユーモアがある」。
いい例が思い浮かばないが、「ターミネーター3」では衝撃的なオチを隠すために、前半はひたすらアクション・シーンを盛り込んだ。
これによく似ている。

抽象的なテーマだけがオチとして露呈されると観客は戸惑う。
場合によっては憤りさえ感じるかもしれない。
だが、その伏線としてユーモアを連発することで、
作品全体の雰囲気が和やかになり、オチの重みが和らぐ。
たとえるなら、甘い味のするオブラートに包まれた苦い薬である。
苦い薬である抽象的なオチでも、甘いオブラートを食べさせられてきた観客は、何となく、テーマをつかまされるのだ。
そして、それを掴めなかった観客も、前半でさんざん笑うことで、納得させられた気分になって映画館を出ることになる。

笑いからシリアスへという移行によって、話の重みを増幅させようとしているのである。

ただ、先にも書いたように、それをメイン・テーマとのかかわりの中で考えた場合、必ずしも成功しているとは言いがたい。
ユーモアとシリアスというバランスでは成功していると言えるものの、先にも書いたように「なぜ?」をひたすら求めてきた観客にとって、内容的に受け取りがたいものになっているからだ。

それでも僕は、この映画を否定はしない。
少なくとも、「千と千尋」にあったような薄っぺらな「キャラクター」ではなく、「どのように?」を問いつくした「人間」の映画であると思えるからだ。
たとえ、「なぜ?」の問いに対する完全な答えがなくとも、僕は十分楽しめるのである。

(2004/11/23執筆)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 耳をすませば(V) | トップ | あけましておめでとうござい... »

コメントを投稿

映画(は)」カテゴリの最新記事