評価点:56点/2017年/アメリカ・イギリス/122分
監督:リドリー・スコット
重要なテーマが、手段になってしまった。
2104年、巨大輸送船コヴェナントには2000体の人間の胎芽を乗せていた。
乗り組員は15名だったが、突如事故が起こり、冷凍催眠から目覚める。
その際、船長が亡くなり、乗員は窮地に立たされる。
宇宙船の修繕のため、船外作業中に謎の電波を受信する。
その電波はあきらかに人類の手によるものだと考えられ、当初の目標だった惑星ではなく、発信源となっている惑星を目指すことにする。
しかし、その惑星は未知の生命体が巣くう、それ以外の生命体が絶滅した星だった。
前作「プロメテウス」の続編にあたる。
なんと、そんな基本的なことを理解せずに、いきなり再生してしまったため、「プロメテウス」を見ていないのに、この作品から見ることになってしまった。
「プロメテウス」は「エイリアン」の前日譚にあたる物語を描いている。
だが、幸いこの作品から見ても十分話の筋はわかるようにできている。
それだけで私のような人間には、作品の自律性が高いということは、好感が持てる。
「エイリアン」を知らない人間にとっては、この作品もまた鑑賞対象のリストから外れるだろうから、商業的にはつらい作品ではある。
もちろん、作品の完成度が高ければ、それだけ新しいファンを獲得できるというものだが、残念ながらそんなポジティヴな評価は受けそうにない。
「エイリアン」に強い興味がある方はどうぞ、という感じだ。
私はむしろ原作シリーズを穢されたと感じたが。
▼以下はネタバレあり▼
SF映画というジャンルはとても難しい。
とりわけ、これだけの人気シリーズを作品に昇華するとなると簡単にはいかない。
この映画を見ながら、そんなことを考えさせられた。
宇宙空間に船長を失った船員たちは、計画にない、手頃な惑星を目指すことになる。
しかし、そこはプロメテウス号によって失われた生命のない荒涼とした惑星だった。
人類の種であった(と思われる)この惑星には何万もの人類の祖が住んでいた。
しかし、粒子状のなぞの生命体が蒔かれたことで、全ての生命体は死滅した。
一人生き残ったのは、「生命体」ではないアンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)だった。
彼は一人で、この謎の生命体の遺伝子を研究し、こねくりまわし、改良し、最強の生命体を作り出すことに成功する。
たまたまやってきたコヴェナントの船員を、彼は陥れることでその実験を完遂させようとする。
もちろん、これが「エイリアン」の大元だったということだ。
新しい何かを生み出すことができなかったアンドロイドのデヴィッドは、新しい寄生体を作ることで、それを克服しようと試みた、ということだ。
いや、さらに言うなれば、そのデヴィッドは人間の創作である。
よって、人間が人間を宿主とする最強の生命体を作り出してしまった、ということを示すに至る。
とても、しょうもない。
ありきたりで、新しい発見もなく、何もおもしろくない。
全体として、「星を継ぐもの」でも描かれていたような筋書きだし、何より、「エイリアン」の怖さが、存在が、すべて「人間の好奇心によるもの」という説明が付されてしまったことによって、軽くなってしまった。
エリアンというキャラクターは、気持ち悪い造形をしているから怖いのではない。
速い、遺伝子を自分で組み換えられる、血液が強い酸性を帯びている、だから「怖い」のではない。
得体が知れないから怖いのだ。
それを丁寧に説明されてしまったら、「なんだ、そういうことだったんだ、ふ~ん」となってしまう。
それは、人間のエゴ(原罪)を描いているようで、むしろエイリアンの源泉もまた人間だったと説明してしまう態度が、そのエゴ(原罪)そのものだ。
それは、人間がどんな生命体でも作り出せる、という極めて傲慢な態度に支えられているからだ。
人間の理解を超えた存在、という神性や、わからなさを描いてこそ、人間の深淵を描けるのではないか。
この映画が罪深いのは、このような真相の説明は、原作のシリーズであった「エイリアン」もまた相対化されてしまうということだ。
一度この手の「種明かし」をしてしまうと、元のシリーズまで面白みを奪ってしまう。
このスタンスは、実はこの映画の演出にも貫かれている。
早い段階で、謎の生命体の姿を見せてしまう。
もちろん、気持ち悪い。
けれども、「怖さ」の実態を丁寧に描写されてしまうと、怖さは半減してしまう。
「ああ、出てきたんや、ちっさいな」という印象を受けてしまう。
見慣れたエイリアンの姿は、その真相が暴かれてしまうとともに、映画の中での手段となってしまった。
「エイリアン」は「エイリアン」そのものを描くことがテーマだった。
それが「エイリアンはどのようにして生まれたのか」という手段になってしまった時点で、怖さはない。
それは恐怖の説明であるからだ。
確かに、予算も上がって、撮影技術もあがって、緻密な作品には仕上がっている。
けれども、最も大事な部分を抜きにしてしまっては、おもしろい作品になるはずがない。
このシリーズはそれでもまだ続くようだ。
次は「1」と「2」の間を描くとのこと。
ドル箱としか考えていない制作陣がそろったら、また駄作が生み出されるだろう。
監督:リドリー・スコット
重要なテーマが、手段になってしまった。
2104年、巨大輸送船コヴェナントには2000体の人間の胎芽を乗せていた。
乗り組員は15名だったが、突如事故が起こり、冷凍催眠から目覚める。
その際、船長が亡くなり、乗員は窮地に立たされる。
宇宙船の修繕のため、船外作業中に謎の電波を受信する。
その電波はあきらかに人類の手によるものだと考えられ、当初の目標だった惑星ではなく、発信源となっている惑星を目指すことにする。
しかし、その惑星は未知の生命体が巣くう、それ以外の生命体が絶滅した星だった。
前作「プロメテウス」の続編にあたる。
なんと、そんな基本的なことを理解せずに、いきなり再生してしまったため、「プロメテウス」を見ていないのに、この作品から見ることになってしまった。
「プロメテウス」は「エイリアン」の前日譚にあたる物語を描いている。
だが、幸いこの作品から見ても十分話の筋はわかるようにできている。
それだけで私のような人間には、作品の自律性が高いということは、好感が持てる。
「エイリアン」を知らない人間にとっては、この作品もまた鑑賞対象のリストから外れるだろうから、商業的にはつらい作品ではある。
もちろん、作品の完成度が高ければ、それだけ新しいファンを獲得できるというものだが、残念ながらそんなポジティヴな評価は受けそうにない。
「エイリアン」に強い興味がある方はどうぞ、という感じだ。
私はむしろ原作シリーズを穢されたと感じたが。
▼以下はネタバレあり▼
SF映画というジャンルはとても難しい。
とりわけ、これだけの人気シリーズを作品に昇華するとなると簡単にはいかない。
この映画を見ながら、そんなことを考えさせられた。
宇宙空間に船長を失った船員たちは、計画にない、手頃な惑星を目指すことになる。
しかし、そこはプロメテウス号によって失われた生命のない荒涼とした惑星だった。
人類の種であった(と思われる)この惑星には何万もの人類の祖が住んでいた。
しかし、粒子状のなぞの生命体が蒔かれたことで、全ての生命体は死滅した。
一人生き残ったのは、「生命体」ではないアンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)だった。
彼は一人で、この謎の生命体の遺伝子を研究し、こねくりまわし、改良し、最強の生命体を作り出すことに成功する。
たまたまやってきたコヴェナントの船員を、彼は陥れることでその実験を完遂させようとする。
もちろん、これが「エイリアン」の大元だったということだ。
新しい何かを生み出すことができなかったアンドロイドのデヴィッドは、新しい寄生体を作ることで、それを克服しようと試みた、ということだ。
いや、さらに言うなれば、そのデヴィッドは人間の創作である。
よって、人間が人間を宿主とする最強の生命体を作り出してしまった、ということを示すに至る。
とても、しょうもない。
ありきたりで、新しい発見もなく、何もおもしろくない。
全体として、「星を継ぐもの」でも描かれていたような筋書きだし、何より、「エイリアン」の怖さが、存在が、すべて「人間の好奇心によるもの」という説明が付されてしまったことによって、軽くなってしまった。
エリアンというキャラクターは、気持ち悪い造形をしているから怖いのではない。
速い、遺伝子を自分で組み換えられる、血液が強い酸性を帯びている、だから「怖い」のではない。
得体が知れないから怖いのだ。
それを丁寧に説明されてしまったら、「なんだ、そういうことだったんだ、ふ~ん」となってしまう。
それは、人間のエゴ(原罪)を描いているようで、むしろエイリアンの源泉もまた人間だったと説明してしまう態度が、そのエゴ(原罪)そのものだ。
それは、人間がどんな生命体でも作り出せる、という極めて傲慢な態度に支えられているからだ。
人間の理解を超えた存在、という神性や、わからなさを描いてこそ、人間の深淵を描けるのではないか。
この映画が罪深いのは、このような真相の説明は、原作のシリーズであった「エイリアン」もまた相対化されてしまうということだ。
一度この手の「種明かし」をしてしまうと、元のシリーズまで面白みを奪ってしまう。
このスタンスは、実はこの映画の演出にも貫かれている。
早い段階で、謎の生命体の姿を見せてしまう。
もちろん、気持ち悪い。
けれども、「怖さ」の実態を丁寧に描写されてしまうと、怖さは半減してしまう。
「ああ、出てきたんや、ちっさいな」という印象を受けてしまう。
見慣れたエイリアンの姿は、その真相が暴かれてしまうとともに、映画の中での手段となってしまった。
「エイリアン」は「エイリアン」そのものを描くことがテーマだった。
それが「エイリアンはどのようにして生まれたのか」という手段になってしまった時点で、怖さはない。
それは恐怖の説明であるからだ。
確かに、予算も上がって、撮影技術もあがって、緻密な作品には仕上がっている。
けれども、最も大事な部分を抜きにしてしまっては、おもしろい作品になるはずがない。
このシリーズはそれでもまだ続くようだ。
次は「1」と「2」の間を描くとのこと。
ドル箱としか考えていない制作陣がそろったら、また駄作が生み出されるだろう。
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