secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

SAW(V)

2009-03-24 05:28:19 | 映画(さ)
評価点:75点/2004年/アメリカ

監督:ジェームズ・ワン

こんな映画、僕は好きじゃない。

外科医ゴードン(ケアリー・エルウェルズ)が目覚めると、そこはどこかもわからないバスルームだった。
足は鎖で堅く結ばれている。
部屋の対角線には、アダム(リー・ワネル,兼脚本)と名乗る男がいた。
ポケットに入れられていたカセット・テープを聴くと、「六時までにアダムを殺せ。さもないと妻子が死ぬ」
犯罪の手口から、ゴードンはある猟奇殺人犯を思い出す。
ジグソーと呼ばれたその犯人は、被害者を死に追い込むことを強要し、それを観察するという猟奇犯罪者だったのだ。
かくして、極限のサバイバルが始まったのだった。

アメリカで話題になったサイコ・スリラー。
低予算ながら、「CUBE」や「セブン」を彷彿とさせる怖さと、残酷さが話題を呼び、観客を動員した。

確かに面白い。
だが、観るならある程度の覚悟が必要なのもまた確か。
昨年公開では、「パッション」や「オールド・ボーイ」など、ヴィジュアル的に痛い作品が続いているが、この作品も相当痛い。
血に弱い人は、観ない方がいい。

毒か薬かと訊かれたら、間違いなく「毒」だと答えるだろう。
そんな作品だ。
 
▼以下はネタバレあり▼

CUBE」のような密室劇でありながら、この映画ははじめからやたらと回想が入る。
それは中盤以降も続き、映画を見慣れた人なら、密室(現在)の中に答えがあるのではなく、回想(過去)の中に答えが隠されていることに気づくだろう。
(ただし、密室劇が好きな僕としては、ここで長すぎる回想を挟みまくるのは、いかがなものかと思う。
密室内だけで劇を見せられなかったものか……。)

まず、密室での状況を整理しておこう。
アダムとゴードンという医者が、部屋の対角線に足かせでつながれた状態で、つかまっている。
二人の間、部屋の中央では、男が血を流して死んでいる。
ポケットにテープがあることに気づいたアダムは、死んでいる男が持っていたテープレコーダーで、中身を聞くと、「アダムを殺さなければ妻子を殺す」という声が入っていた。

テープのヒントを頼りに、トイレのタンクを探ると、二本ののこぎりが入っていた。
アダムは必死にのこぎりで足につながった鎖を切ろうとするが、一向に切れない。
そこでゴードンは、気づくのである。
「これは鎖を切るためののこぎりではなく、足を切れという意味だ」

ここから回想に入る。
ゴードンが、ジグソウという猟奇犯に疑われたこと。
犯人はまだ捕まっていないこと。
疑いがなんとか晴れたあと、唯一の生存者の話を聞くと、生きた人間の腹を割き、助かったということ。

だが、この映画で最も巧みなのは、ここでの回想の描写が、二重三重の意味を持っているということだ。
例えば、中盤になり、つかまったときの状況を思い出し始める。
そこでゴードンは「病院のあと駐車場で拉致された」と告白する。
だがそこは病院の駐車場というにはあまりに汚すぎる、どこかの廃工場のような場所が映される。

実は、この駐車場はモーテルの駐車場であり、不倫相手と利用していたのである。
ゴードンは不倫していた。
この事実は、早くから気づくことができるようになっている。
ジグソウに疑われたとき、アリバイを聞かれると、ゴードンはいつまでも口を濁していた。
聞かれるとまずいアリバイ。
それは不倫でしかありえない。

こうした過去の回想を通して、なぜ二人がここにとらわれたのか、ということが明らかになっていく。
ジグソウが狙う標的は、麻薬常習者であったり、自殺願望をもった人であったりと、生を軽んじている者ばかりだったのだ。
アダムは、ゴードンの生活を盗み見る者であり、ゴードンは傍らで不倫をする医者。
ともに、人の命、生活を脅かす存在であるため、犯人に狙われたのだ。

このプロットとは別に、「リーサル・ウェポン」で一躍有名になった、ダニー・グローバー扮するタップ刑事のサブ・プロットである。
犯人のテープから犯人の潜伏先を知ったタップとシンの両刑事は、犯人と対峙する。
しかし、犯人は人質をとり、たくさんある鍵から正しい鍵を時間内に見つけ出せ、さもなければ人質が死ぬ、という“ゲーム”を刑事たちに押し付ける。

必死で鍵を探すが、見つけられない。
とっさで機転をきかせたシン刑事は、人質に向けられた針を拳銃で撃つ。
ルールを無視したことに腹を立てたジグソウは、傍にいたタップ刑事の喉を切り裂き、逃げてしまう。
追っていったシン刑事も罠にかかり、殺されてしまう。

この回想(タップ元刑事の回想)も、恐ろしく違和感のあるやりかたで挿入される。
そのため、この出来事が単なる刑事と犯人とのやりとりに終わるものではなく、結末にかかわる重要なプロットであることを匂わせる。
だが、読めたとしても、そこまでだ。
この映画は、一つ先、二つ先までは読めたとしても、それ以上先(結末)は読めないように出来ている。
それは、なまじ一つ二つ先が読めることもあり、より真相がわかりにくくなっているのである。

例えば、ゼップが妻子の誘拐犯であることは、恐らく読めただろう。
火曜サスペンスあたりを見慣れている人にとっては、それは難しくないだろう。
なぜなら、短いカットの中でも存在感が際立つように描写されているからだ。
だが、彼もまた「ルール」の一つであることは解らなかったに違いない。
当たり前だ。
そのように作られているからだ。

この映画がこれまであった他の映画より優れている点があるとすれば、そこにある。
映画を見慣れた人、安いサスペンスものを見慣れた人にとっては、一歩二歩先を読むことを可能にしながらも、真相を絶対にわからないように設定していることだ。

では、真相に話を進めよう。
犯人は極度に生を軽んじる者を嫌う。
犯人は「身体を病に冒されている」と告白している。
犯人は、被害者をSAWしている。
SAWとは、「見る」SEEの過去形、「見た」のことである。
THEやAなどの冠詞がないこと、複数形でもないことからも名詞ではなく、動詞であることがわかるようになっている。

密室劇を一番近くで見ていた者。
それはゼップではなく、死体の男だったのである。
死体の男は、すべての用意を済ませて、死体のふりをし続け、何時間も彼らの動きを観察し続けていたのだ。
現在形SEEではなく、過去形SAWであるのは、観客がその男が犯人であることに気づくのは、映画が終わってから、
すなわち「見ていた」という過去になってからである、という制作者達の自信の表れだろう。

その男は、脳腫瘍をわずらった、ゴードンの患者だった。
研修医たちの見世物にされた怒りと、不倫をしていたという怒りが重なり、犯行のターゲットとなったと考えられる。

だが、僕はこの映画を観て、すっきりしなかった。
「やられた」感は確かにある。
だが、どうしても爽快に「やられた」ことを納得できなかった。
ミスディレクション映画として、納得することができない。
ただ、嫌悪感と厭な感想しか持てなかった。
なぜだろうか。

それは、犯人が自己矛盾に陥っているからだと考える。
犯人は、非常に論理的に、そして「制裁」という形で被害者達を追い詰めていく。
犯人の強い使命感は、ただ一つだ。
「生きることに感謝して生きろ」
このメッセージが非の打ち所のないものであれば、きっと「やられた」「いい映画だ」と思えただろう。
だが、彼のこの使命感は非常に独善的で自己矛盾に満ちたものに過ぎない。
その彼が一人勝ってしまう映画になっているから、この映画を絶賛する気になれないのだ。

どこが自己矛盾なのか。
「生きることに感謝して生きろ」
「生を粗末にするな」
だが、彼は生を粗末にしていない者にも「制裁」を下している。
そのいい例が、妻子アリソンとダイアナである。
妻子は、ゴードンへの制裁にのみ利用された命であり、それを利用しようとしたジグソウは自己矛盾に陥っている。
彼女達を利用するなら、彼女達なりの「生を蔑ろにした」理由が必要だ。
でなければ、ジグソウ自身も、目的のために生を蔑ろにした張本人になってしまうのだ。

この映画は、ラストでジグソウが一人勝ちしてしまう。
ゴードンが逃げ出し警察を呼び、アダムを救出した可能性はある。
だが、時間内に殺せなかったゴードンを、ルールに厳しいジグソウが、殺さないとは考えにくい。
映画的にもそこで終わっている(エンドロールでアダムが絶叫が意味するところは大きいだろう)ことを考えれば、ジグソウの一人勝ちの映画なのだ。

そこに多大な違和感を持たざるを得ない。
「生を軽んずるな」という強いメッセージ性を打ち出しているにもかかわらず、制作者たちは、自己矛盾を抱えた独善的な犯人を一人勝ちさせてしまうのだ。
それなら、生をより実感したゴードンたちが勝つようにしても良かったし、妻子が殺されなければならない理由を描いても良かったはずだ。
ジグソウは自分が強いた“ルール”を破られることを酷く嫌った。
そこだけが彼の人間らしさであったはずだ。
ならば、“ルール”を破るアダムの姿で終幕すべきではなかったか。

なぜこんなことが問題になるか。
それは、この映画には残酷描写が多すぎるからだ。
犯人が勝つ。
それはすなわち、残酷な猟奇的殺人や猟奇的犯罪を肯定することに他ならない。
犯人の肯定と言ってもいい。
独善的なあのジグソウを肯定してしまうような結末は、果たして良かったのか。
よく出来た映画ではある。
よく出来た映画だけに、こんなに安易に猟奇犯罪に「正」を与えていいものか。
一時の快楽だけが込められた、哲学のない映画を僕は肯定する気にはなれない。

(2005/5/15執筆)

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