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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

新劇場版エヴァンゲリオンの考察 その2

2021-07-14 18:33:19 | 表現を考える
この文章は前回の続きです。まずは前半部分をお読みください。
またすべてネタバレ前提ですのでご注意ください。

●エヴァに乗るという矛盾

エヴァに乗るということは、庇護されるものから開放され〈他者〉と向き合うことができるようになるということだ。
だからエヴァに乗るということは、そもそも矛盾をはらんでいる。
エヴァに乗るということは、エヴァを降りるために乗るからだ。
「ずっとここにいてくれたんだね」というシンジのユイに対してつぶやくことばは、まさにここだ。
母親が見守ってくれていたそのエヴァというゆりかごを、〈他者〉から守り〈他者〉と対峙するために、降りる物語だったのだ。

ここにエヴァが庇護者としての両親の愛というメタファーを読む可能性に行き着く。
私たち皆がエヴァに乗り、そしていつの間にかエヴァを降りていたのだ。

物語の最終盤で、エヴァ同士が戦うシークエンスがある。
はじめはリアルな街や風景で戦っているが、次第にそれが作り物のセットになっていく。
ここで突きつけられるのは、「この話はしょせん作られたアニメに過ぎない」という事実だ。
そこまで没頭してきた私たちは、急にこの世界が作り物の世界であることを意識せざるを得なくなる。
それはテレビ版の集大成であった旧劇場版にも似たような演出があった。
「あなたが見ているのは作り物だ。早く現実に気づきなさい」と庵野が訴えているようだ。

だが、シンジはエヴァに乗るという虚構の物語から現実の物語へとカラを破るためには、当然必要な演出だった。
要するにシンジはイマジネーションが支配する虚構の物語から、現実を生きることをゲンドウから突きつけられる。
お前がいるのは、エヴァンゲリオンなんていうロボットが世界を救う世界ではなく、毎日畑を耕し誰かのために行動を起こすという日常そのものなのだ、ということを。

だから私の読みは、全てエヴァの世界はシンジが創り上げていた虚構だった、ということだ。
最後に登場する宇部新川駅にいたマリとシンジこそが現実の世界の社会化された「いま・ここ」であるのだ。
彼は今を生きるために、長い虚構の世界を旅してきた。
そして現実を生きるという選択肢を選び取るのだ。
誰かと誰かが溶け合うような、虚構の世界を卒業して。

人類補完計画はまるで人間がいつか必ず夢見るような、理想的な世界だ。
なぜ私は私なのか。
なぜこんなに苦しい想いをしなければならないのか。
大人になるということ、自立するということ、生きるということ、私が私であるということ。
その孤独と人を求める悲哀。
私たちはみなエヴァに乗っている。
いや、乗ったことがある。

通過儀礼としての物語、というのは、この14歳から28歳という14年間に象徴される時間を示しているからだ。
なぜエヴァがこんなに私たちの心を掴むのか。
それは、私たちが社会で生きるようになるためには他者と立ち向かい、他者を乗り越え、そしてその先に他者との対話をしながら自己を創り上げるという、まさにシンジが経験した挫折と超克が必要だからだ。

エヴァがすべて虚構だ、といえばファンから聞こえは悪いかもしれない。
けれども私たちは現実よりも虚構の物語で生きている。
勉強すれば大学に行ける、なんていうのは虚構に過ぎない。
大学に行けば幸せになれる、夢が叶う、というのも虚構に過ぎない。
しかもそれは知らない誰かが都合良く創り上げた物語だ。
その意味で、私たちはみなエヴァンゲリオンに乗ったことがあるのだ。
あるいは今現在、乗っているのだ。

だからこそ、こんなにもシンジの物語が愛おしく、懐かしく、切なく、身に迫ってくる。
庵野は訴える。
「その通過儀礼の物語から出てこい、そして現実を生きろ」と。
それはロボットアニメを否定するものではない。
むしろ肯定した上で、その必要性と存在意義を私たちにつよく訴えている。

ヒーローになれない私たちが、ヒーローに憧れるべき場所を示し、そして現実で生きる私たちを賛美している。
シンジを支える、エヴァに乗らないトウジやマヤが輝いているように。


●「Q」はなぜ14年後だったのか。

それでも疑問は残る。
その一つが「Q」が14年も経った時間設定になっていることだ。
しかし、これも(ある程度)説明がつく(のではないか)と考える。

「Q」が公開されたとき大きな論争が巻き起こった。
全く何が起こったのか分からず、説明もされず世界が崩壊してしまったことが告げられたからだ。
だが、「シン劇場版」でかなりその出来事の内実が分かってきた。
世界が本当に終わってしまったのではなく、小さいながらもコミュニティが存在していることなどが明らかになった。
だが、私はこれらは後付けだったような気がしている。
本当に描きたかったのは、シンジが知ることができなかった母親の思いを間接的にミサトに語らせることだったのではないか、と。

シンジとユイの関係性はほとんど描かれていない。
アスカの回想で少しだけ触れられている程度でなぜ死んだのか、いつ死んだのか、どういう母親だったのかあまり明瞭ではない。
もちろんテレビ版からの補完も可能ではあるが、あまり有効とは言えない。
ゲンドウの思いがかなり詳細に語られるのに対して欠落しているとも言えるだろう。
その思いを語らせるのがミサトだった。

ミサトは息子のリョウジとほとんど会っていない。
自分の存在すら明かしていない。
リョウジにとっては死んだのも同然だ。
だが、彼は前向きにクレーディトの研究員として生きている。
14歳であるのに。
それはとても対比的だが、シンジにとっては母親の不在と自分が愛されていないということとは全く無関係であるということが透ける展開でもある。
母親としてのミサトは全く赤の他人であるシンジのために死んでしまう。
だが、だからといってリョウジへの愛がないということにはならない。

この映画はあくまでシンジの物語である。
シンジはそのミサトの母親としての思いと、仕事を成し遂げるという使命感とをともに受け取ることができる唯一の存在である。
シンジはミサトを通して、母親というものの存在を知るのだ。
そのための14年間だった、ということが言えるだろう。

それだけではない。
アスカの台詞から、エヴァのパイロットは食べたり飲んだり、寝たり成長したりという人間的な部分が失われてしまうという。
唯一の点は髪の毛が伸びる、ということくらいだ。
先にも指摘したように、エヴァに乗る者は庇護されるものであるから、人間的成長を遂げることができない。
だが、エヴァから降りる決断をしたアスカは明らかに容姿が変わっていた。
なまめかしい女性としての相貌になっていたことを、多くの人が気づいただろう。
彼女はエヴァから降りることで、女性になったのだ。

14年間という「時」を止めることで、動き出した「時」が強調される演出になっているわけだ。
14歳頃に人は大人を目指して動き始め、そして28歳になったシンジは新しい家族をもつことが暗示される。
その14年間は子どもなのか大人なのか、個人的願望にすがるのか社会化されていくのか、そういう逡巡や葛藤を繰り返しながら大人になっていく。

母親と父親の思いを知ったシンジは虚構のヒーローとして生きるのではなく、自分自身の生き方を現実の世界で生きることを決心する。
その時間は14年だったのか、それすら定かではない。
だが、私たちも過ちを繰り返しながら、現実との関係を近づけたり遠ざけたりしながら生きていく。

繰り返すようだが、その成熟にロボットアニメという物語が私たちを育てている。
それも降りるべき時が来たのだ。
テレビシリーズであんなに心を打ったこの物語を、私はどこか冷静な眼差しで体験することができた。
それがなによりも私自身がエヴァをすでに降りた者だった、ということの何よりの証拠だろう。

それすらもゼーレのシナリオ通りなのだ。(これが言いたかっただけ)

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