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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

映画という表現、批評という営み

2010-12-07 22:38:48 | 表現を考える

映画がこの世に生まれてすでに100年以上が経過している。
その間で、カメラが動き、音を響かせ、色がつけられ、そして3Dで表現することが可能になった。
必然的に表現の多様性が生まれ、多くの人を感動させ、さらに多くの人を失望させた。

映画の目的は何か。
そんな問いはすでに忘れ去られている。
なぜなら、映画の目的は何か、という問いは、答える人によって答えるべき内容が違ってくるからだ。
ある人は自分の家族を養うことだろうし、ある人はブログのアクセスを増やすことかもしれない。
会社を大きくすることかもしれないし、社会貢献することと答える人もいるだろう。
結局、映画とどのように関わるかによって、その目的は変わってくる。
それは仕方がない。
純粋に映画を、「メッセージを持つもの」と捉えて自分の訴えを媒介するものだとしていても、売れなければ放映できない。
どれだけ高尚な考えを持っていても、見てもらえない映画は、存在しない映画と同じだ。

映画はもはやすでに産業そのものだし、それを否定することは無意味だ。
だからテレビ局が自身のコンテンツを売り込むために、映画制作をしても、それを一概に否定できない。
それは「映画ではない」と断罪したくなったとしても、そういう映画はなくならないだろう。
(その制作会社やテレビ局に対する不信感を生んだとしても)

だが、それでも映画というものをどう捉えるかは、確認しておきたい。
映画は〈表現〉である以上、メッセージの意図を実現するために存在するといえる。
それがプロパガンダであったとしても、見る側に何らかの要求をつきつけ、見る側に何らかのリアクションを求める。
それが関連商品を買うということであったり、啓蒙するということであったりする。

その一つに、〈異化〉ということがあると信じている。
〈異化〉とは、〈同化〉の対義語である。
〈同化〉とは、観る側に寄り添い、観る側の共感を得ることだ。
〈異化〉とは、観る側を突き放し、観る側に新たな視座や考えを与えることだ。

殺人事件をモティーフに映画を撮った場合、〈同化〉とは、例えば過去の復讐や金銭目的で殺すような動機付けで説明する場合だ。
観る側は、よくある話としてそれを捉え、納得する。
観る側がすでに培ってきた「常識」に寄り添うことで、共感を得るのだ。

一方、〈異化〉効果を狙うなら、例えばその犯人に「すべては太陽のせいだ」と言わせてみる。
どういうことなのか理解できない観客は、殺人という犯罪に対して新たな視座を得ることになる。
勿論、それをリアリティあるように、説得力を生み出すように構成しなければ、〈異化〉効果は生まれない。

それは単なる刺激とは異なる。
衝撃的な映像や、残酷な描写、極端にエロティックな映像を見せることだけが〈異化〉を生み出すのではない。
そういうことも〈異化〉に含まれることは確かだが、見た目の特異さだけでは〈異化〉は生まれない。
むしろ、その映画を見終わるともう見る前には戻れないような衝撃を受けることを、〈異化〉と呼ぶのだ。
大江健三郎に言わせれば、いつもの風景がもういつものように見ることができない、そういう衝撃だ。
僕は「新しい文学のために」(岩波新書)を読んだ当時、どういう意味か理解できなかった。
けれども、今ならその言葉がよくわかる。
そういう自分の存在を揺るがす作用は、ただ「おもしろかった」というような表層的なおもしろみではない。
自分の全存在を否定されたり、肯定されたりする衝撃。
それが〈異化〉という作用である。

僕には、映画の存在理由(レーゾンデートル)は〈異化〉にあると考えている。
そういう〈異化〉効果をもつ映画こそが、「文学的」であり「芸術的」であるのだ。

そういう映画は多くない。
一年間に観た映画で1本あれば十分、そういうものだ。
映画を観るという営みは、おそらくその〈異化〉を経験するためにある。
映画が趣味だ、年間24本は最低見ている、というような話をすると、驚かれる。
さらに、その中でおもしろい映画は1本か2本だ、という話をすると、ちょっと冷笑されてしまう。
けれども、そういう自分の存在を揺るがす作品に、年間1、2本出会うができることはすごいことだ。
後戻りできない経験、というのは、それほど人生にできるものではない。
映画を見続けている理由は、おそらくそんなところにある。

僕が批評をはじめたのは、おそらくその〈異化〉と無関係ではない。
映画を観ることで〈異化〉されたとき、ひどく動揺する。
自分の存在自体が揺らぎ、自分のこれまでの時間に対して、不安になったり振り返ったりすることになる。
そのとき、現実に戻る一つの手段が批評という営みなのだろう。

映画は、映画館という場所、上映するという時間を占めている表現だ。
それは確固としたモノではない。
映画館で上映される映像や音響と、観客の自分自身という兼ね合いの中で生まれる〈テクスト〉(表象空間)である。
映画は監督のものではない。
まして、映画会社のものでもない。
映画は、観る側と作り手、その間にある映像と音響が織りなす空間そのものだ。

よって、その〈テクスト〉で動揺する自分がいるとすれば、それは映画そのものを問うだけではなく、自分自身への問うことでもある。
だから、絶大なる〈異化〉効果を持つ映画と出会ったとすれば、それは自分自身の知らない、気づかない一面との邂逅でもある。

揺り動かす映画、揺らいでしまった自分について、考え形にすることで、揺らぎそのものを〈解体〉する。
そうすることで、自分を納得させているのだ。

それは、殺人事件で誰もが納得できる犯行の動機を見つけることに近い感覚だ。
要するに〈同化〉である。

〈異化〉と〈同化〉の中で、ここの批評は常に揺らぎ続けている。

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