休眠しました。

mem-papaのきままな自分用メモ帳
13年目に突入
固いこと柔らかいことそのとき

受動意識仮説、と人にとっての信念や価値のそのあたり。

2019-05-01 10:24:52 | books
以前、受動意識仮説について
記事してた。以下途中から引用。

認知科学的正解や
生物学的な正解が唯一ではない
ですね。意志、信念、モラリティ
、政治issue、価値論の議論等々…は
下位レベルの最新の知見の影響
をうけますが、だからといって
レベルを乗っ取られ、答えが
そのまま置きかわるわけでもない。


これ認知科学の学者さんが読んだら
なにを偉そうに素人がと思われるんで
しょうけど、下の記事にあるように
ごくごく当たり前のことを書いてる
つもり。反駁ではないので。




#受動意識 #仮説

読後メモ 日本史‥北村透谷のこと

2019-03-31 07:00:54 | books
日本史 第二回 滅亡の理由


 今の時代に創造的思想の欠乏せるは、思想家の罪にあらず、時代の罪なり。物質的革命に急なるの時、曷(いづく)んぞ高尚なる思弁に耳を傾くるの暇あらんや。曷んぞ幽美なる想像に耽るの暇あらんや。彼等は哲学を以て懶眠(らんみん)の具となせり、彼等は詩歌を以て消閑の器となせり。彼等が眼は舞台の華美にあらざれば奪ふこと能はず。彼等が耳は卑猥(ひわい)なる音楽にあらざれば娯楽せしむること能はず。彼等が脳膸は奇異を旨とする探偵小説にあらざれば以て慰藉(ゐしや)を与ふることなし。然らざれば大言壮語して、以て彼等の胆を破らざる可からず。然らざれば平凡なる真理と普通なる道義を繰返して、彼等の心を飽かしめざるべからず。彼等は詩歌なきの民なり。文字を求むれども、詩歌を求めざるなり。作詩家を求むれども、詩人を求めざるなり。

芸術は求められず広告美術は求められてる。
芸術は核に心的精神的なものがあって
それらを面倒くさいと避けたく感じている
というのは多数派だよなとおもう。

いつか、ほら、ぼくが酔っ払って泊まったホテルで、あなたがぼくの夢を訪問したことがあったでしょう?
夢のなかで、あなたの二の腕に後ろから触れた瞬間、あなたの自分の国へのすさまじい怒りを指先に感じて、驚いて、ひどく魘されて、モニに起こされた。

あのあと、モニは、どんなことがあってもあのホテルに宿泊することを拒むようになった。

いまでは、もう、あのホテルがあなたが自殺した地面のうえに立っていることも知っています。

死ぬ前、あなたは疲れ果てて、自分はもう老いて、生きていく力が残されていない。
自分のまえには、すでにどんな希望もない、とつぶやいていた。


旅先で当時の人にある種の心的な集中力をもって
迫ることをすると、憑依されたかのように
身体症状でること(自分は腹部の激痛)の
経験あるので、それの数段上で彼
北村透谷につかまれたor通じたかと。
思想や精神てメディアという外形が
必須とおもってるけど寧ろ真髄は
こーいう一種霊感みたいな形で伝えるべき
ひとに伝わっていくのかもしれない。

2019.4.9追記
港区の北村透谷めぐり
芝公園、仕事で近くに行くことあるので
時間もしあったら訪ねてみよう。

日本の歴史を話そうとしているのに、あなたの名前を外すわけにはいかない。
いつか、そう述べたら、「それは歴史というより文学史のほうだね」と述べた日本の人がいたが、文学の歴史が社会の歴史と別に存在していると意識される社会があるとすれば、要するに魂がはがれおちてしまった社会で、いくらなんでも日本はまだそこまで落ちぶれてはいないだろう。


引用のように
文学史のうえでなく魂が剥がれおちて
るという正鵠を得る言葉を紡いだガメ
さんだから起きた同機。
欧米での文学的才能やその独創性の
共通認識としての高い地位というの
は日本と乖離している。
‥‥言わずもがな。
子供のころからどう教育され
どんな繊細な感性があったかも封印され
て今、どのように大人だと自ら思ってい
るか‥うまく言えないが
滅亡の理由ってこういうことだ。
民族的魂の問題って一億火の玉になる
精神性のことではなく。



それです。表現能力のなさを誰かの
言葉を借りました。

こう考えれば

2018-12-01 22:44:15 | books
(2018.3.7)

池谷直士氏の本
似てるようで何にも似てない
そういうところが帯の
まったく新しい本の誕生なんだと
おもいます
似てないけど手にとってとらえれば
対象が広い

似てるというのは心理・カウンセラーの
人が自分の経験から説明をするという
とこで、たくさん読んでる人ほどあー
この切り口ねと第1印象もつとおもう。

似てないのはそこからの展開で深い
洞察や、高い地点から光を入れて
説明に秩序や実際性、説得力がある。
この部分は著者の何がどうと分けて
考えてみる必要もなく存在そのもの。

論理的というのは論理的命題になるよう
条件を限定しているからなので
定義づけ次第で解はたくさん成立する。
広くなるほど論理命題ではなくなる。
言葉としては同じく「目的」でも
広いほうは論理的な定義ができない。
わかる人はわかるから、深追いな説明は
野暮ったいのでやめる。

演繹で行くにはそうだけど、たとえば
期待という心理状態や、ゴシップ好きな
人はこうですよというのを
説明するときは統計的にたくさんの
人が了解できる解がある。
それでもたくさんの人が了解できて
なおかつ時間を先にすすめてみても
それがパーマネントによい答えかは
なかなか自信をもっていえない。
最初から先読み感のある感じとか
答えが見えている感のすごさ。
そこが独自で他に似てないと
感じる点。

遺言。

2018-01-07 08:37:27 | books
養老孟司氏の「遺言。」年末、読みかけで
いた本。休みで最後まで読めた。

いま現在、こんなことを考えていますよ、
という本。社会に提言する目的でなく、
正解はこれ!でもなく、わたしはこういう
問題認識をしているがあなたはどう考え
ますか?という内容。
背景には哲学や思想しかり、また
柴谷篤弘氏・池田清彦氏の構造主義
生物学との関わりの思考なども自分は
感じた。なのでヒトについての長い思弁
があり、1つのテーマを柱としているが、
むしろ枝分かれした主題1つ1つが
主題だという理解でよいと思う。

主題の1つは「感覚所与」と「意識」、
感覚所与は、ただひたすらに、今現在を
提示し、すべては異なる、何一つまったく
同じはない、というありのままを提示し、
意識は、思考なので、そこから恣意的に
同一なる法則や規則、意味や文脈を
切り出して、世界を分類し階層化し、
同一化していく。意識は目的-意味であり、
そこでは過去も現在につながっているし、
同時に未来を決めていさえする。


他の方の書評を読んでみると
「あなたにとっての現実、物、事実
というのは、それも含めてあなたの脳内の
感覚所与であり、唯一客観的な事実では
ない」という点に唯物論者として
違和感らしい。
唯一客観とまでは
言わないが、それは脳でなく、あくまで
外側にあるはずと記述があった。
書評の方は、なぜ唯一客観といわ
なかったのだろう?
量子力学しかり、宇宙論しかり、そうした
知見はあるのでそこまで敷衍すると
おそらく範囲は限定したくなるのだ。
自分は誰を説得できるとも思わないが、
コードを決めた世界では唯物論的な事実が
成立している、皮膚感覚で生きていれば
事実は外にあり、ゆえに認識がイコール
ですよねと単純に成立すればいいのだ。
追記
わかりにくいので説明追加。
実験を計画し観察をする、あるいは
交通事故の検証のためビデオレコーダー
を確認する。その際、測定器に測定され
る結果とは脳の外にあるではないか?
と問われてるのだとおもう。
→その結果を認識し判断するのは
あなたの脳。実験ノートに
連ねられる内容は書ききれないくらい
膨大だが最終的には意識が抽出して
だいたいのばあい合目的な問題に
ついて抽出、判断する。それが
意識にとって自明なものであれば
たくさんの人にとって当たり前で
感覚所与など無視できる イコール
脳の外にあると言ってなんの問題もな
くなる。逆に言ってそのような意味で
1次的な事実は感覚所与に依存してい
るし、観察結果とは意識と感覚所与の
最良の調和点にあるという事態を
説明している。


虫の分類たとえは、自分なら人の性格
分類がしっくりくる。Aさんの性質に
ついて10人中5人が共有できる内容が
あったとして、それをどうグループ
化するか、なかなかクオリア問題だと
思う。
ゴリゴリ唯物な人はそもそもそんな
性質は誰もがあるもので同意できない
という。
こんなふうにして、心的な事象を扱い、
かつ同一なのか差違なのか?を思考
すると感覚所与と意識はわかりやすい。

唯物と唯脳と、観念論と、3つは
すべて違っていておもしろい。

氏が唯脳なのは、科学者として、
観念論に踏み込んだら、面倒だと
知ってての老獪さなのだ的なことを
以前、池田晶子氏が書いてたが、
氏はその上で老獪なのでなく、
難解な問題に魅せられるけどあえて
池田清彦氏のようにどっぷりそこに
挑戦するよりは、むしろ発生について
簡単にわかりそうにないことだから
やめたと書いているように
単純に言えることの領域で考えて、
むしろ明快さを集めて非凡な思考
を展開するのが得意技なのだと思う。
簡単にサラッと書いてるがこちらが
さらっと飲めないのはそこまで吟味
咀嚼した理解になってないからだろう。
ときどき読み返して考えると
理解が変わっていく予感がする。

後半で、生物とは物理化学の学では
なく、情報学なのであるは、4つの
塩基と20のアミノ酸の関係だって
このコードはこのアミノ酸なのだか
ら、たしかに物理化学的必然はなく
規則が固定されていさえすればよく
いわば、指示対象と実態があり、
その関係は恣意的であればよかった。
となれば、ソシュールのシニフィエ
とシニフィアンの関係に相似…
の構造主義生物学の主張に
つながるのだった。

ウィキペディアの構造主義生物学
より引用






「現象をインバリアント(不変)で
ユニバーサル(普遍)なものに押し込めた
いという欲望」は、本書でも様々なたとえ
を引用して述べられてたとおもう。

デジタル社会と昆虫の行動と相似で説明
する視点は新鮮だった。なにか知能の
高いことやっている意識で饒舌な言説
がはびこるけどバッサリそんなものだよ
ってとこが気持ちよい。

なにか社会のことを考えるときの視点とし
て、科学について個別の専門家の話を知
っても不足な世の中になった。
実験と意識と感覚所与というような
メタ科学な話は
研究者だけが表向きの仕事を離れて
内輪で共有されていれば依然はよかった。
そこに書の命がある気がする。

ヒトの本性

2017-04-27 05:43:50 | books


本性となると紀元前からの性悪説、
性善説のことを思いだしますね。

科学的に丁寧な…反証可能性まで
検証して結論づける実験の結果の
数々。その設定や方法の詳細が
大切なことと知りつつ、あまり
興味がもてず結論ばかり読んだ
のですぐ読み終わる。

スタンフォード監獄実験での
看守役の行動からヒトの残虐性を
見いだせるか、についてのリフトン
の考え—
看守たちは無意識のうちに集団の
意志を感じとりそれを執行する
代理人として囚人役に暴力をふる
った。—
法学的にも正義とは何が正義か、
ではなく、法を犯したものに処罰
を与えられる力がある(権力の
行使が保障されている)状態を指す。

助け合うヒト
・生後14〜18カ月の赤ちゃんに
確認される困っている人を助ける
援助行動
・援助行動は援助する側に幸福感
を与えるが、報酬づけを加えると
自発的意欲も幸福感も低下
・生後6カ月の赤ちゃんでも援助
的なキャラクターを好む
・マーモセットで確認された互恵
的(公平な食物のやりとりをする)
個体を大切にし、
非互恵的(常にズルをする)個体
との関係を避ける行動

マーモセットでもそうなんだから
自分の毛嫌いも許される行動だよ
なっと言い訳(笑)

道教の無為自然とか大道という
概念て科学的な、ヒト観とズレ
てないかもな。



サイクリック宇宙論

2017-04-08 16:58:01 | books

時空を超えてのパラレルワールドの
回で見て、ビッグバン理論の重要な
立役者の1人でもあるポール.J.ス
タインハート氏がどうしてビッグ
バン理論は不完全で美しくないと
語っているのか「始まりがなく
終わりのない」周期的宇宙論とは?
そこから読みたくなった。

まったく始まりがないのか?
2つのブレーン(膜)ワールドとは
パラレルワールドと同意味か?
など、そこに興味のある方は多いと
思うのだけど、1番面白いとこだと
思うのであえてそのへんの要約は
伏せますのでご了承を。

ビッグバン理論は20年くらいあるが
新しい観測事実や理論的疑問がでる
度に—
具体的にはダークマター、ダークエ
ネルギー、インフレーションエネル
ギーと新たに3つの材料を混合した
物になったが、
これらがどのように関係しているの
か、そもそも関係しているのかどう
か誰も説明ができてなく、
付け加えられた材料
たちはこれまでのモデルと整合する
よう厄介な微調整を必要とする。

対してサイクリックモデルは生みの
苦しみ時期を経て出るが、問題点が
指摘される度、よくよく検討すると
すでに答えがあり修正を加える必要
がないという不気味な経験
が度々あったという。(P.214)

インフレーション多宇宙でたまたま
観測者のいるここだけが生物が発生
でき、物理学も観測できるこの宇宙
でだけ成立する法則を知りえている
という人間原理の導入に至っている
のも、それでは物理学と形而上学で
なにがちがう?物理学の負けでは?
とも終章で述べている。

要約をまとめるつもりもないので
印象的なとこの2点あげると
パッチの1つ、共同研究者のニー
ル・トゥロック氏がエネルギー曲線
が恣意的で無理があると考えていた
(P.132)インフレーションエネル
ギーの奇妙。
爆発という不均一な密度をもたら
す現象からどうして宇宙背景放射
で観測されるインフレーション後
の平坦な宇宙をもたらせるのかで
導入される説明。。
(P.68〜)
10のマイナス30乗秒という瞬間
に空間の大きさが2倍になるのを
10万回繰り返すという話で
これは足のつま先を水素原子の
隙間だけあけていた2人の距離が
33回で1mになり、110回で銀河系
、120回で100億光年の距離、
それでもあと9万9千880回、2倍
になるそのエネルギーの甚大さ。
光でも追いつかない速度
で空間が拡大し、しかもこのエネ
ルギーはその瞬間の後、崩壊して
消えないと都合がわるくなるとい
う。

2点目は著者らの唱えるサイクリック
宇宙論がなぜ熱力学の 第2法則に
従いつつビッグバンとビッグクランチ
を繰り返しつづけられるのかの説明
箇所(〜P.218)

些末なことだけどインドの古代宇宙論
のサイクルとサイクリックモデルの
時間周期が一致するのも面白い。
ブラフマーの一昼夜が86億4千万年で
現代宇宙論の物質優勢の時期すなわち
銀河形成の時代とほぼ一致し、
ブラフマーの1年である3兆1100億年
はサイクリックモデルの1サイクルに
ほぼ一致するという。

知と信を巡る対話

2017-03-18 17:16:59 | books
三省堂さんの一角に並んでて
対談本になっている。この本
読んでなかった。
冒頭の数頁読んで心掴まれま
した。
とはいえ実用言葉とは
異なる現実よりも永続性をもつ
言葉とか、イデアとは時間空間
とは関係が切り離されてるから
真の実在であるとか…
(「さて誰が死んだのか」は
このこととセットな問いであり
読者のlifetimeにむけた言葉な
のだな…)
なかなか最初から重い玉が連続
で入ってくる。

池田氏の著書はむかしかなり
読んでた。
なんだか30代のときは素通りな
ことだった内容に
あっそーいうことか、
とか気づいたりするか
らおもしろいものだ。

善悪や物事の正しい選択、判断
ということについて自分の底の
考え方は宗教的なんだよな。
たまたまそー語れる立場の人は
合理的に語るけど人って存在は
自分で思ってる意識の枠を
越えている。
大峯氏の言葉に照らしてみて
思ったりする。

追記)
池田氏の逝去は2017年2月23日
この本のあとがきは、2017年2月
とあり、第1刷発行が2017年3月。
ぼんやりと「魂とは」より前あたり
と思っていたがいやいや最後に
あとがきのようなパースペクティブ
と感慨をもたれて旅立たれたのだな
と。本人言われるようにどこに
たどり着くかは直観としてわかって
いて(知るということは人生に知ら
れるということ)
計画立てられてるように邂逅と
次に知られるべき世界を見いだし、
つまりは自分の予言どおりに展開が
なされるところが、読んでいるこっち
目線からだとなんだかドラマティックだ。

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シンプルに考える

2015-11-03 15:02:12 | books


面白かった。森川氏が勤務経験のある
日本テレビやソニーような普通の企業
でいくと当たり前のこと(経営理念、
ビジョン、経営管理と統制、精緻な
人事評価システム、計画、仕組み、
ルール化、差別化戦略、売上至上
主義等)を本質論に立ち返ってー
ユーザーの本当に求めているものを
1mmも違わずに探し満足させること
にフォーカスし、弊害があるなら
逆張りでいってみる。
その結果こうい
う問題起きましたがこのように方向が
見えてきて・・と実際実施された内容
がありわかりやすい。
IT企業だし人数規模が小さいし年齢構
成が若いしとか線はいろいろ理由つけ
て引くことはできるけどLINEのぬるい
とこの何もない最適解はうんうんと
納得させられること多々あった。

まあ言い訳の仕方でなんとなくその人
の立位置がわかるということでもある
かな。

受動意識 仮説

2015-09-29 04:44:57 | books
AI、ロボットの未来 ーZUUオンライン林要、中野信子、湯川鶴章、堀江貴文

受動意識仮説…おもしろい。
意識は作れるか?も基準をどこに
置くかだろうな。
ペンローズのように論理体系から
演繹することのできない外側に
ある公理を生み出せるのか?基準
ならば(大抵の人にとっても難しい)
あいかわらず意識ではないのだろうし。
そこは身体性を持ち出しても
うまいこと語れない。

あと認知科学的に人を語ること
の感想なのですが、人を語る
レベルは重層であり、その1つ
ということ。 いろいろな
レベルで事は様相が違うので。
認知科学的正解や
生物学的な正解が唯一ではない
ですね。意志、信念、モラリティ
、政治issue、価値論の議論等々…は
下位レベルの最新の知見の影響
をうけますが、だからといって
レベルを乗っ取られ、答えが
そのまま置きかわるわけでもない。
(例を補足 2019.5.1)

マスとして見れば9割方そうだと
言い切れる(そうな)定義というのは
実は不安定でも脳の可塑性を選んだ
ヒトについての一時的な状態を
記述しているだけなのではないか。
身体が生き残り、生命を後世に
つなぐが二大目標…もそのような
射程限定的な有効範囲があることの
ように思う。

嫌われる勇気

2014-05-18 16:47:31 | books
ある作家の小説を探しに行って、ついでに売れている本でおもしろ
そうだったので「嫌われる勇気」買い。帰宅して読む。

フロイトの原因論と対比しても目的論は明るくていいですね。
いい点は皆さん沢山書かれているので気になったとこだけメモ
します。

「自分の誤りを認めること」=負けを認めること、というように
私は正しいと思った時点で権力争いに足を踏み込むことの間違いとか
承認欲求の否定→課題の分離というところが素直に読むべき価値を
感じて面白かった。個人で完結なんだけど、上記のポイントなど
知らないと「えっ?」周囲の違和感もあるのでチームで文脈共有で
きるとよりいいかも。
岸見さん言うように何年もかけてこそ深い意味が見えそう。
フランクルと接点あったと宮台さんの話で知りなるほど共通点を感じた。
個人的にはOSHOやholsteeのマニフェストもつながる感覚あります。
(OSHOは…反対なとこも相当ありますね)

ただ青年と哲人の会話は、例えば承認欲求の説明にしても、それ
が組織とかチームでの適用となると?という視点にいかないのが
読んでてまどろっこしいというか、そこで結論出しててもあまり
実効性ないというか・・なんかそんな感想を持ちます。
競争相手=敵じゃないとか、比較は自分についてのみ意味がある
とか、何にとって善いか?とかスタートにするにはすばらしいな
と思うのだけど。上にも書いたけど文脈共有されなければ単に排除
されかねないよねw

一般的に企業は「評価」というアメとムチでモチベーションを引き
出そうとするし、そこはまさに能力のすぐれたものが能力の不足す
る人の目標と行動について「操作」することなのであって横の関係
ではないですね。小池龍之介氏いうところの支配欲は容認されるの
が企業活動なので、そーいう意味でもベクトルが180度反対。
生命全体とか人類全体を共同体として考えると、とか遠大な視点か
らそこを眺めると、そうじゃないよねという視点、メスの入れ方。
普段の生活で感じている現実感覚は数年もすればガラッと変わるも
の。今は理想論に思えても、時間軸で息の長い…おそらく100年後
でも目標たりえる視点は意味があるのでしょうね。


天気考えないで夕方になったら雨。
あてが外れてしまいました。
こんな天気は去年の今頃も同じだった気がするので
タイミングを見失わないようにしなければw

個人的な共鳴

2012-07-10 23:54:23 | books
姜尚中著「続・悩む力」を評判聞いて読んでのメモ。
(説明がないので、読んでない人はスルーよろしく)
ウェーバーの「プロ倫」の知の合理化と専門化による精神なき専門性としての職業という説明には学生の頃、共鳴した記憶がある。生にとっての世界の意味の復権、というテーマは、社会の要求する行動価値と自分のそれとの齟齬軋轢な彼(って誰?)にはこだわるところだけど、ナイーブで文系的なことなのかなという気分もあった。科学は相対的な言語であると仏文のインテリは語ってたが、さてどうだろう?てな。
時代は過ぎて、(ロマン主義とか甘ったるいものでなく)前出のテーマは時宜的に改めて力の入る、また入れるべきところだよなと共鳴した。例をあげればキリないが市場経済を成立させている3つの要素で「人間」「自然」「貨幣」をあげてたり、現在の市場経済至上のシステムが方丈記のごとく永遠の生命と強固さをもつものでない物言い等、(いや…例をもっとあげないと文意にならないが)読解と時間をかけた思考と再構成と鋭い感覚とセンスに、いちいち納得する。

昔、国語の先生が「ある作家の本を読んで君は感動したかもしれないが、それで君の(人格の)何が変わったのだ」と読書無意味論とも取れる送る言葉を載せていた。著者の(儚いものとしての)「人」を悼むときの心の痛みは、読んでるだけの私には同じだけの強度をとても共有できてないのだろうな。なんとなく感じた。それは何が起こっていても特に異常とも感じない感覚というか、社会を見る目にリンクしている。自分がそうであり、また多くの人がおそらくそうなのだろうなという至らなさ加減(本の中の言葉ならさしづめ「狂気も多数となれば正気」)を予想しつつ。

「悲観論は虚弱に通じる」(あとがき)と感じているのは、それだけプログラム(条件づけ)されている。

相手と自分のマスクをひたすら観察する(P.202-)のは、疑念(不信)による明晰さの欠如、どう思われてるだけが関心である最高善の欠如。自他比較のプログラムから解放され、深い自己受容がないことの反射。

原発と祈り

2012-04-22 08:45:16 | books

昨朝は、激コミだったので本日ホンダへ。上はN BOX。
タイヤの細さにパチリ。


価値観再生道場 原発と祈り(内田樹/名越康文 聞き手:橋口いくよ)
という対話本を読み切りました。
祈りというような主観的体験のテーマなことだけに説明する気になれない
というか、それより読後の自分の変容が大事だろうなと思うものですが
タイミングがぴったりで勘がよかったなと思いました。

面白かった言葉は、心には時間と空間がなく、だから「居着き」という
問題を抱えやすいという話が1つで、そこは下のような導入から。
「リアリストって結局のところすごいペシミスト(悲観主義者)になって、
疑心暗鬼になっていくでしょう? あれはやっぱり『僕は頭の中で作って
いることなんて認めない。現実だけが現実だ』って言ったって、結局、リア
リストのほとんどが現実を断片的にしか理解していないんですよね。一面的
なものを現実として捉えていて、それはリアリストではなくて、断片リスト
なんでしょうね。立体的に捉えられていない。」(名越、P.55)
「そこを込みじゃないと、今ここで見えているものの意味がわかんないじゃ
ない。そういう想像をさ、どこまでたくさんするかだよね。」(内田、P.57)

2つめは、仕事とは病(名越)で職業は症状(内田)、病は消せるわけでなく
症状が流動化しやすい状態にするのがよい(P.106-108)
「例えば、人に対する嫉妬とか憎しみが、芸術作品を作るほうに昇華するこ
ともあるし、膝とか肩の痛みにあることもあるし。病って、変幻自在なんだ
よ。精神の病が身体症状になることもあるし、行動になって出ることもある
し、言葉になることもあるし。」(内田、P.106)

というところ。意味とは目的のカテゴリなのか。直前に書いてましたが
それについても、いい答えがありました。

こころと脳の対話

2011-10-02 22:10:08 | books


子供2人を連れて画像上のところで読んでたら、おもしろくて引き込まれるように4時間で読み終えました。

夢と無意識、シンクロニシティ、創造性、自然科学はなぜ関係性を扱えないか、河合さんの仕事はなぜ関係性の世界にどっぷりなのかとか、聞き手の茂木さんもいいし、河合さんは貴重な存在だったなと思った(追記1)
河合さんがカウンセリングで大事にされている、「中心を外さずに(言葉、表情、服装などディテールへの注意から離れて)最大限のセンシビリティを持って言葉以外のものを聞いていく感じていく技」というものにも惹かれるものがあった。

ある脳外科の先生が語った「脳が完全にわかったとして、それが心をわかるということと考えてもらっては困る」という話の意味が少しでも多くの人にわかってもらえるといいのかなというのが感想。それもこれも(文中にあるように)別に関係ない人には関係ないことなのだけど(笑)




(追記1)
貴重と思った理由
・1つはDSM-3とか米国のように標準化を押し進めて症状を判断することで科学の装いを身につけようとする臨床心理の世界で、河合さんは全く別の、しかも有効性をもったアプローチをアピールできる人材だったのに、惜しい人をなくしたよなという点

・世の中全体の流れとしてはセンシビリティより切り離したドライな態度がカッコいいのだろうし、仕事はこと細かな言語的な規定に沿って因果の鎖の中で当たり前のことだけを当たり前に情報処理/行動が原則なのだけど、河合さんの言われている無意識の力(創造性)とか、人生の味わいが深くなるということとか、標準化しすぎたり答えを急ぎすぎることがその人を理解するうえでの失敗につながるという言葉だったりは、可視化や効率性が主観的な達成価値を押し潰しがちな社会で貴重な視点だなという点

『「正義」を考えるー生きづらさと向き合う社会学』

2011-08-09 10:17:56 | books
前記事と同じテーマですが、こちらは読後メモ。
要約はいつも書かない。読んだ後で発刊直後にブログで書かれる
非常にすばらしいものをどなたかが書かれているので
私など、読後にそれを読ませてもらうのが、楽しみだったり
するくらいだ。

今回もあった。
まず要約として完成度の高いのがコチラ(見もの読みもの日記)


私が読みたい内容が共同体主義の内実というか、功罪というか、そーいうところが1つあった。
前出の要約の方は共同体主義(コミュニタリアン)をこのようにまとめている。


著者によれば、サンデルはコミュニタリアンの立場に立つ政治哲学者なのだそうだ。ああ、なるほど。コミュニタリアンは、与件としての共同体こそが正義の条件であると考える。たまたま日本に生まれたからには、日本人として果たすべき義務と責任があると考えるのだ。しかし、これには、(1)他の共同体を批判する根拠が一切なく相対主義に陥る、(2)「われわれ」と「他者」の境界線が論理的でない、(3)共同体における物語の困難を克服できない、等の欠陥がある。

共同体主義=家族>身内>会社の同じ部署>のように
玉ねぎの芯のように対象を分けて行動のプライオリティを考える人なんかを
想像するとわかりやすい。
ここで、(3)の物語の困難を克服できないというのがポイントで、
多くの私のよく知る共同体主義の人にとっても、そこは無自覚
だと思う。(3)の「物語の困難を克服できないから
だから、共同体主義は時代錯誤なんだよ」と説明されて
いるが、なんのことやらピンと来ないはずだ。ピンと来ない人
からすると「もともと、人は自然的には共同体の中で文化・ルール
を共有しそのなかで<なにものか>役割とアイデンティティーを確立する
ものなので、それが時代錯誤とはどーいうことか?今も昔も
変わらないものは変わらないのだ」と、おそらくそんな感覚ではないか。

いわく説明に困る「物語性のない」状態。有意味なゴール
に向かって進歩成長しているという意味性のなかで生きて
いけない状態というのを感覚的にとてもよく説明している
ブログがコチラ(時折書房)の記述。

「物語の重要な特徴は、目的論的構造です。すなわち、あるべきものに向かっているということです。」(p.242)と大澤さんは言います(大澤さんのこの本のトータルな主張は今回はあえてスルーしてしまいますが、そのまわりくどすぎる理路は私の趣味ではないのですが、いつかじっくり振り返ってみたい説得力はありました)。つまり、人格とか人生とかいうまとまったものは、「目的=あるべきもの」に向かって組織される、虚構にすぎず、その虚構ががばっと根こそぎ奪われてしまった(!!)ときに、人ははたして、そこにどうしようもないという気持ちでたちすくむしかない。そして、すべてが奪われてしまったと感じながらも、事実として、自分自身という肉体と思考はまぎれもなくかつ残酷にそこにありつづける。今まで「それが人生」と信じていたものを失うということ。

資本主義社会である以上意味性を失う。そのために意味性のなかで治癒された傷が、
意味性を失うために治癒されないというあたりをマラブーを引用して説明していた。
それは置いといて、目的論的な構造を持てない理由とはなんなのだろう?
コチラ(龍の尾亭)では一文だけ説明されている。


それはアリストテレスに共鳴するサンデル的コミュニタリアンの「目的論的」な正しさの限界を示す、という形(たった一つの目的に還元できないのが資本主義の現実っていう方向性ですね)で進行。

個人はドイツ教養小説(著者はビルトゥングスロマンと記述してたか)
のように様々な試練を乗り越え最後に成功・達成するという目的論的構造に
生が歩んでいるのであれば、そこに意味性が付与されているけれども
資本の要請は人にそのような意図を与えない、与えるとすれば極めて限定的に
囲い込まれた世界内であって、つまり分割された一部での意味はかろうじて成立
しているかに見えるということ。
資本主義では最高善はなく、様々なレベルの快楽や善が貨幣に換金可能な財
(サービス)として、どんどん並立していくんだよってなこと。

さきほどの(2)「われわれ」と「他者」の境界線が論理的でない
コミュニタリアンに特徴的な「われわれ」と「他者」の間に優先順位を
つけることで、様々な問題における正しさに秩序を与えるやりかたに戻れば、
資本というのは、「われわれ」と「他者」という境界を常に変容させるような、
あるいはボーダレスにするような特徴を持っているということです。
そうしなければ、適応できないし、イノベーションも起こせない。
ジジェクを引き、中国の文革は結果的に伝統や歴史を根底から否定することで
資本主義の成功のための地ならしをしたとしているのも同じ文脈です。

あるいは資本についてこのような説明(Hello,How Low?)もなされている。


それは、〈資本〉のメカニズムにほかならない。資本とは、マルクス主義風に言えば、剰余価値を生み出すものである。資本主義においては、貨幣はただ退蔵されるだけでは〈資本〉にはならない。それはさらに投資され、剰余価値を生み出す限りで〈資本〉になるのである。つまり、獲得した貨幣を消費してしまったりせずに、それをさらなる利潤獲得のために投資する必要がある。そのさらなる投資は、止むことがない。これが資本主義の根本的でもっとも単純なメカニズムである。そこで、この投資において何が起きているのかを考えてみれば、ウェーバーがプロテスタントに見たような禁欲が現れているのがわかるだろう。すなわち、何らかにおいて獲得した貨幣は、ただちに消費されれば純粋な快楽につながる。が、その消費は、より高次の快から見れば、言い換えれば、さらに投資して利潤を拡大するという快から見れば、たいしたことではなくなってしまう。つまり、〈資本〉のメカニズムの中では、消費(でも貯蓄でもいいが)の一次的な快は、より高次の投資の視点によって、相対化される、あるいはむしろ苦に転落してしまわざるをえない。世俗内禁欲が、資本のメカニズムへいたる、ということはこのことである。
とすれば、コミュニタリアニズムが措定した「物語」、あるいはアリストテレスの目的論は、資本主義によってまさに否定されていることになる。というのも、共同体・歴史などに固有の最高善があるという考えからすれば、自分の人生の選択をその善に配慮しながら生きねばならないということになるが、資本主義のもとに生きる以上、そのような善は、つねに相対化されていかざるをえないからだ。大澤社会学が長く論じてきたことだが、資本主義のもとでは、常に未来の快を考えねばならず、その連鎖は終わることがない。それゆえ、未来の快そのものの内容がどんどん抽象化され、その果てに快自体が不可能であるという事態が来る。快を超越的な規範(第三者の審級)に置き換えても良い。とにかく、コミュニタリアニズムが見誤っているのは、そうした「物語」に固有の善が、常に相対化されてしまい、もはや物語の中に自己を位置づけることが不可能となってしまった現代の社会構造であるのだ。

上記程度の短文ではまだ説明しきれてないか。ムム?と思われた方はお読みいただき、さらに
その先を考えていただきたし。1つ補足するとすれば、ウェーバーがプロテスタントに見た禁欲は、共同体に固有の最高善なんだけど、文中で資本主義での「より高次の視点によって」は最高善とは何ら無関係。未来の快は、人にとっても、共同体にとっても最高善か怪しい。資本にとって、具体的にはその企業にとって銀行にとっては快。そこはウェーバーは見えていなかったところだ。

結果的に労働は2極化すると説明が続く。コチラ(見もの読みもの日記)から引用。

高度化した資本主義社会において労働者は二極化し、研究開発や情報操作などの知的労働に携わる少数の人々は、多文化主義に接近する。対して、多数の周辺労働者は、宗教的原理主義やエスノナショナリズム(ネット右翼)に近づく。しかし、両者は、同じ空虚(普遍性)を取り戻したいという身振りなのではないだろうか。


と、下手なまとめはやめとこう。メモ目的だった。終わらなくなる予感。そーいうことは得意な人に任せた方がいい(苦笑

私が本書でおもしろかったのは、アクラシアの説明に当時最高の知性だったアリストテレスがなぜ失敗をしているのかという点と、イエスが気合いをいれて説明している話が、隣人愛をベースにしているカントの考え方(しいてはリベラリズム)とかなりずれていることを指摘し、後半にも少し説明するが、「まだ考え続けている」として、あまり長く説明することをやめている点。

アクラシアがおもしろいと思うのは、今の時代でも「○○すべき」という知性が先に立つ人は、アクラシア的一貫性のなさを理解しないし、理解したくない!という態度を取る人が多いように思う事。 (本題は大澤マジックだと思うので読んでみてください)

イエスのほうは、2つ話をいれていて、1つは放蕩息子の話で、なぜ金を遊びで使いつくし、事業にも失敗し戻ってきた弟の歓迎会に、父親が(勤勉に父に尽くしてきた)兄にもしたことがないような歓迎をしたかという話。

たぶん、より新しい視点が欲しいから深く触れるのをやめてるのだけど、弟のほうは、意味性を失った傷を抱えた人生で戻ってきていて…それが環境適応している側からすると、弱者に都合のいい弱者救済の論理にしか見えないのだけど、正しさという視点からは、そうした物語性を失った人だけが見える何かというものが、共同体における善よりも高い何かを持っている、そのことの重要性を意味しているのだと思う。
前出のブログでもまとめがあった。


では、失われた普遍性はどうすれば取り戻せるか。著者の答えはこうだ。共同体において「何者でもない」と否定されることを介して、われわれは連帯することができるのではないか。回答の注釈として、もう一度参照されるのがイエスであり(放蕩息子の帰還、ブドウ園の主人)、エイミー・ベンダーの寓話的な小説『癒す人』である。この小説はいいな。傷を負うことで癒される、傷を通じて、狭い共同体の外への回路が開かれる寓話、とだけ述べておこう。

声高に主張する何かではなく、そのような心の内から普遍性が出発することに異論はない。
ただ、ここまでは静かで内省的ですね。
試みとして冒険的であり、最後の「過去を変えるための自由な選択」(デュピュイ)
というところは飛び出したばかりで、着地はまだ先のことであるような印象を受ける。
なので続く「連帯」については、来るべき時が来るまで乗らないってことになってしまう?
そこは難しいですね。例え話で出されていた「皆、口には出さないけど、マルクスを
まともに理解できている人間ならば、共産党には入れないよな…」というかつての
フランス左翼知識人の気持ちがわかる(笑) 確実なゴールを見てから足を踏み出す
というのは政治社会的な選択においては、基本的に超保守だけなのではないのかな。




読みたくなる病

2011-07-23 12:07:20 | books
河野多恵子のインタビュー番組(BS)を見た。
創作の豊かなイメージはどこから
「人は宇宙から影響を受けていると思う」

アマゾンでは

「人と文学をなめるような人はダメ」
(山田詠美との対談の紹介短文)

廣松渉様じゃないですが現実とは
「モノ」という人もいますが
「コト」のほうが、もっと奥義。
多世界多重(ドイチェ)てぇのは
フツーにいう「モノ」なんかじゃ
ないですね…

興味深く拝聴(拝見)いたしましたので
「逆事」ポチらせていただきました。

興味のないことは眠くなる度
人より強くて損してます(笑