台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

台南開基天后宮「崇禎媽祖」 《台湾媽祖史7》

2005-02-20 | 媽祖と研究
大天后宮の300mほど北にも天后宮があります。台湾に上陸した鄭成功が創設した媽祖廟と伝えられ、現在は開基天后宮と呼ばれています。清代半ば乾隆17(1752)年の台灣府城池圖には施琅が建てた大天后宮が「媽祖宮」、こちらが「小媽祖宮」の名称で登場しています。

ここの媽祖像のなかに像高約30cmの小さなものがあり、古くから「船仔媽」と呼ばれていました。船に祀っていた媽祖像ということですが、崇禎十三(1640)年の刻銘あり、明末に遡る古いものです。かつては民間信徒家中に輪祀されていたそうです。

國際書展的晩 台北下雨

2005-02-19 | 媽祖と研究
お目当ての本でゲットできたのは故席徳進氏の『台灣民間藝術』。今から30年前に媽祖像を藝術史的視点で捉えた名著で、昨年10版目が出たのもです。他に専門書はあまり無かったのですが、故宮博物館(改修中)の図録2冊(一割引)と、香港から刊行中の『中華文明傳真』シリーズ(写真は明)を買いました。いちばん上はフェアのガイドブックです。

後者はビジュアル版中国史概説書ですが、写真がきれいなだけでなく、5年前に発見された四川省の水井街酒坊遺跡や、東大史料編纂所蔵の倭寇図巻とは別系統の抗倭圖卷(明軍に捕獲されフンドシ一つで手足を縛られた倭寇の姿が衝撃的!)など、レアな図版が満載。これで150圓(約1200円)はお徳です。
(版権をクリアーしているのかなぁ…)

それにしても学術調査でどんどん新発見があるだけでなく、印刷・映像・インターネットなどの技術進歩によって、中国圏の情報発信力が飛躍的に高まっていることを痛感します。

会場を出ると雨の中、頭上に現在高さ世界一のビル台北101が輝いています。508mの先端は雲の中です。

台南大天后宮的大媽 《台湾媽祖史7》

2005-02-18 | 媽祖と研究
施琅は台南に入るとすぐに、明朝再興を掲げる鄭氏政権の象徴だった寧靖王旧宅を媽祖廟に改めて福建省から媽祖を向かえ、翌年、皇帝から下賜された天后宮の名を掲げます。これが現在、台南市中心部にある大天后宮です。

正殿の中心に鎮座する大媽はそのときに渡されたものと伝えられています。清朝の官廟で、施琅の「平台紀略碑」などもあります。

去年6月になんとこの大媽の頭部などが落下するという惨事が起きました(ブックマーク参照)。80年以上、修復してなかったので傷みがひどくなっていたらしいです。

今年1月27日に本格的修復工事の開始の典礼が市長も参列して挙行されました(ブックマーク)。修復のための調査で福州杉が使用されていたことがわかったことも興味深いけど、式典で大天后宮の関係者がそれぞれ清朝の府城知府と縣令に扮しているのが面白いですね。


清王朝的媽祖利用 《台湾媽祖史6》

2005-02-18 | 媽祖と研究
1683年に鄭氏政権は倒され、台湾は清朝の統治下に入ります。この時の清軍司令官は、鄭氏側から寝返った施琅でした。大船団を率いて台湾を制圧した彼は、その功績で清朝から靖海公に封じられます。

鄭氏制圧の功績で出世したのは施琅だけではありません。媽祖もこの時に「天妃」から「天后」に昇進します。これは台湾が平定できたのは、媽祖の霊験による数々の奇跡のおかげであると施琅が奏請したからです。

写真左は福建省平海の媽祖廟前にある師泉井で、水が無くて清の大軍が困っていた時に、媽祖のお告げによって施琅が掘ったところ、清の大軍を養うに十分な水が湧き出たという霊験譚を描いています。写真右は両者の形勢を決した澎湖海戦の時に、天空で媽祖たちが清側に加勢している様を描いたものです。

媽祖は古くから中国南部沿海で信仰されてきました。ですからこの海域を基盤とする鄭氏政権の守護神でもあったわけですが、その倒壊の過程で北方の満州族が建てた清朝によって取り込まれていくのです。

旧臺北帝國大學圖書館

2005-02-16 | 媽祖と研究
台灣大學には植民地時代の建物が結構残っています。旧圖書館は現在、文学部の日文系(日本語学科)の校舎ですが、もうすぐ大學史博物館になるそうです。今日はここにいる徐興慶先生を訪ねました。

徐先生は江戸時代の日中文化交流が専門で、特に朱舜水など漢学に造詣が深い。今は水戸光圀に保護されていた東皐心越という明僧のことを調べているそうです。心越は茨城や青森など東日本の天妃(媽祖)信仰と関係が深い人物です。

でも校務でいそがしくて落ち着いて勉強できないとか…。今、2つの巨大プロジェクトの責任者をやらされていて、今年9月までに22回も国際学会を開かなくてはならないそうです。ウ~ン…。

安平開臺天后宮 《台湾媽祖史5》

2005-02-14 | 媽祖と研究
ゼーランディア城があった安平の天后宮は、1661年にオランダを破って上陸した鄭成功が、媽祖の故郷の湄洲から媽祖像を迎えて創建したとHP(ブックマーク)には載っています。鄭成功ゆかりということで「開台天后宮」と呼ばれていますが、1920年に日本人相良吉哉が編集した『台南州祠廟名鑑』には鄭成功死後の1668年創立となっています。

『台灣府誌』(1696年成立)など清代の地誌には、もと「天妃宮」と称したと記載されているので、天后に授封される以前の鄭氏政権時代にあったことは、間違いないでしょう。場所は「安平鎮渡口」すなわちかつての湾口部に面していたようです。

植民地時代に日本人によって小学校に改築され、いったん廃絶しましたが、1962年に水師衙門跡地に場所を移して再建されたそうです。1990年代に改修されて現在の壮麗な姿になりました。正殿正面の神龕中央の大媽・二媽・三媽は共に140cmを越える大きな座像で、手足が動くいわゆる「軟身」媽祖です。

鹿耳門天后宮 「鹿耳門媽」《台湾媽祖史4》

2005-02-13 | 媽祖と研究
オランダに勝利した鄭成功が、自分の船に祀っていた「船頭媽」を安置したのが鹿耳門の媽祖廟の創建とされています。「康熙台湾輿圖」にも砲台や汛とともに「媽宮」が描かれており、清朝も重視していたことがわかります。

ところがその後、台江の地形が変化していき鹿耳門も港口としての機能が低下していきます。そして1871年の大洪水で鹿耳門は壊滅的な被害をうけ、媽祖宮も消滅してしまいます。

しかし20世紀に入ってから、2箇所の地元民がそれぞれの伝承をもとに復活を企て、1913年に土城鎮に聖母宮が、1946年に顕宮里に天后宮が再興されました。現在も鹿耳門媽祖宮の正統的後継の地位をめぐって両者は競いあっています。

このうち顕宮里の鹿耳門天后宮には、明末に遡ると考えられている古媽祖像が安置されています。「鹿耳門媽」「開基媽」と呼ばれているこの古媽祖像は、鹿耳門天后宮のサイト(ブックマーク)によれば、像高約40cm強、材は紫檀(黒檀)だそうです。

どのような経緯で現在そこにあるのかは、はっきりしていないようです。鄭成功が安置した媽祖像そのものだという人もいるようですが、もし「船頭媽」だったとしたら、ずいぶん大型で立派なものになります。

往昔台南一帯是内海了 《台湾媽祖史3》

2005-02-13 | 媽祖と研究
台南は、オランダ人・鄭氏政権・清朝が統治の拠点とした台灣の古都ですが、かつては「台江」という内海に面し、砂洲によって外海と区切られていました。この湾口にあたる安平は、往時「大員」と呼ばれる島の一部でした。台南と安平は、ちょっと強引ですが博多と志賀島のような関係にあります。

ちなみに台湾の語源については、この「大員(タイオワン)」由来説と、外来者をさす原住民の言語「Tayouan(タイユアン)」由来説が有力です(写真の図は「荷蘭・西班牙在台灣」から借りました)。

1624年にオランダ人が安平にゼーランディア城を築いて貿易拠点にしました。その後、内海をはさんだ赤嵌にプロビンシャ城を築き台湾統治の拠点とします。オランダ船が碇泊するゼーランディア城に隣接して、ジャンク船や朱印船が碇泊する地区があり、中国人街も形成されていました。

「台江」にはもう一つ「鹿耳門」という湾口があります。安平に比べると水深が浅いようすが、潮時を読めばジャンク船は通れたといいます。鄭成功が1661年にオランダ軍を攻めるとき、守りの堅い安平でなはく鹿耳門から船団を進入させ、台江の制海権を握ったのが重要な勝因と伝えられています。

嘉義縣 布袋鎮 好美里太聖宮「衙門媽」《台湾媽祖史2》

2005-02-12 | 媽祖と研究
鄭芝龍時代の漢人移住と結びつけて由来を説かれるのが「衙門媽(祖)」と呼ばれる好美里太聖宮の古媽祖。中華民国教育部から明代のものと公認されているものです。大きさからみると船に祀られていた「船仔媽」のようです。写真は《魚鹽之郷市布袋嘴》(ブックマーク参照)の〔信仰〕から借りました。

好美里は第二次大戦前は虎尾寮、さらに清朝中頃までは蚊港と呼ばれていました。1602年の海寇追討に参加した陳第が著した『東番記』に澎湖の外洋すなわち台湾の「魍港」という寄港地が登場します。オランダ文献の「WANCKAN」と同一とされていますが、魍港と蚊港は閩南語で音通するので、好美里を故地する説が有力です。ここは嘗ては「倒風内海」(西風をよける内海=潟湖)がひろがり、そに太聖宮のある小高い丘が突き出していたようです。

「衙門媽」の呼称は、洪水で廟が壊れた時に丘の頂にあったオランダ砲台(荷蘭衙門)内に祀られたことがあるからだとされています。或いは清朝の統治開始直後に、船の出入りを検問する機関=「蚊港汛」(地元では「満漢衙門」と伝承)を置いたことと関係あるのかもしれません。どちらにしろ澎湖諸島から直線距離で一番近い(現在は高速船で90分)この港が、早くから要衝であったことに変わりはありません。

周囲のラグーンには塩田や養魚池が増えているようですが、往時の面影も残っているようで自然生態保護区に指定されています。太聖宮も最近、多数の筏船を海上に繰り出し近隣からの進香船団を迎える「海上祈福會香」をはじめて、知名度をアップを図っていますが、他所の著名な大廟に比べるとまだまだ素朴さが残っているようです。

早期台灣史和古媽祖廟 《台湾媽祖史1》

2005-02-12 | 媽祖と研究
この地図は中華民国交通部観光局のサイトの台湾観光地図に、西海岸の古い媽祖廟を書き入れたものです(「主要」の基準は独断です)。今日から調査の準備ノートも兼ねて、台湾の古い媽祖廟と媽祖像を不定期で紹介していこうと思います。

台灣の古い媽祖廟は17世紀の台湾史と深い関係があります。オランダが澎湖島から台灣南部に拠点を移したのが1624年ですが、その前からすでに対岸からの移住が始まっていたといわれ、しばしば鄭芝龍(成功の父)など「中国系倭寇」の動向と結びつけて説明されています。

我現在習台灣歴史用漫畫

2005-02-12 | 媽祖と研究
台湾書籍シリーズ?第二弾。今日紹介するのは『漫畫台灣歴史』シリーズ。漫画と思ってバカにしてはいけません。かの曹永和先生が総顧問(監修)で、気鋭・中堅の第一線研究者が脚本を書いています(今読んでいる第三冊「荷蘭・西班牙在台灣」は中央研究院台湾史研究所の翁佳音さん)。最新の研究成果がふんだんに盛り込まれていて、読み応えがあります。

まず、表紙(写真)を見ても判るように歴史の主体として原住民がクローズアップされ、彼らの動向にかなりの紙数がさかれているし、また、かつてのようなオランダ・スペイン=帝国主義的侵略者という描き方ではなく、両国と中国・日本・鄭氏そして原住民が、台湾とアジアの海という舞台で駆け引きを繰り広げる諸勢力として、同等の立場で登場してます(原住民を弾圧するオランダ勢に、別の原住民部族が加わっていることもちゃんと書き込んである)。ただし哈日族を意識してか、濱田彌兵衛はちょっぴり「いい者」に描かれているような気が…。

第四冊「鄭氏王朝在台灣」、第五冊「大清帝國在台灣」と読み進むのが楽しみです。中国語の学習にもなるしね。

【追記】先日、曹永和先生の研究室を訪れた時のこと。日本古媽祖DBの抜刷を手渡したところ、媽祖の写真には目もくれず、巻末の参考文献一覧を舐めるように読み始め、目を通し終えてから、そこに挙がっていない台灣の媽祖研究者を一人ずつ丁寧に教えて下さるという、緊張と感激の訪問でした。

新年快樂! 酉年好出發

2005-02-09 | 媽祖と研究
今日は旧正月の元旦。台北は午前中には陽も射す穏やかな新春でした。今年は酉年。ということで「トリ」にちなんだおめでたい話?を一つ。

小生は過去2年間くらい日本に残っている江戸時代以前の媽祖像を調査してきましたが、中には本当に媽祖?と確信がないものもあります。写真中のブロンズの女神は台座に「天妃宮」(天妃は媽祖の別称)と刻まれているので、いちおう媽祖像としたのですが自信がありませんでした。「鳥が頭に飛んでる」媽祖像は他に例がないからです。

ところが『明代觀音殿彩塑』をめくっていると頭に「鳥」がついている神像があるではありませんか(写真右)。しかも参考資料として載っている壁画の模写の女性にも鳥の髪飾りが(同左)。この壁画は元代成立の「観音大士傳」に取材したもので、女性は観音に帰依して父の命を救った妙善公というのだそうです。

鳥の意匠が観音信仰とも関係が深いこともわかったのですが、媽祖は観音の化身とも当時から考えられていたので、鳥の飾冠つけていることも説明がつきます。ということで、ブロンズの女神を媽祖とした推定の精度を高めることが出来たわけで(同業者以外は「何のこっちゃ?」と思うでしょうが…)小生としては「非常高興」の発見でした。

後で中国服飾史の専門書をひもといてみると、鳳や雀など鳥をあしらった釵(かんざし)があり、特に明代の上流女性に人気があったことがわかりました。そんなトレンドが女神の宝冠の意匠に鳥を登場させたのかもしれませんね。

中國文哲研究所

2005-02-05 | 媽祖と研究
今週訪ねた図書館を、ひとつ紹介しわすれていました。中國文哲研究所。建物の左側が図書館。ここも入館の際に記帳が必要です。

美女的集合照片

2005-02-04 | 媽祖と研究
来週は「過年(年越し=旧正月)」で図書館が休みになるので、今週は図書館めぐり。上限いっぱいの30冊を借り出しました。集めてきた媽祖関係の書籍の一部です。小生の「過年」は研究室で彼女たちと過ごすことになりそうです。