台灣媽祖日記

海の女神・媽祖などの研究調査のための台湾滞在記 日本の媽祖・天妃信仰も紹介

在旧媽祖樓街小廟是多【台南調査記7】

2005-03-10 | 媽祖と研究
開基天后宮より400mほど西側(かつての海側)に行くと、《台湾媽祖史8》で紹介した媽祖樓があります。現在は楼閣でなく平屋の廟です。

廟前の旧媽祖樓街(現・忠孝街)は、古い建物も多く往時の雰囲気が残る街路ですが、よく見ると民家の間に小さな廟が挟まれています。

正面に李府千歳(王爺の一種)、後に千手観音を祀った小廟には「刑臺」の額が掲げてありました。かつて刑務所だった場所で刑具なども残っているそうです。

この一帯は清代は【台南調査記4】で紹介した軍工廠でした。その中に燈台の役割を果たした媽祖樓や刑臺が同居していたのは興味深いですね。

ちなみに台湾デザートの定番愛玉冰(クワ科の植物の種で作るゼリー)は、ここの街民が道光年間(19世紀前半)に売り出したのが最初だそうです。

開基天后宮在巷中【台南調査記6】

2005-03-09 | 媽祖と研究
大天后宮以前の鄭氏政権時代にさかのぼるといわれる開基天后宮は、細い路地をうろうろしてやっと見つかりました。

《台湾媽祖史7》で述べたようにここには「崇禎媽祖」と呼ばれる明代の古媽祖像がいますが、現在は信者の家を巡回しているそうで廟にはありませんでした。

今回、石萬壽先生に伺った話では、背中にある「崇禎十三年」の銘は後から刻まれたものだそうです。刻銘の位置が不自然なので最近、古老の聞きとりをして判明したということです。

顔などの特徴から、実際は半世紀ほど下った康熙年間のものだろうということでした。それにしても、この媽祖に話が及んだとき、即座に自分の記述を訂正した石先生は、やっぱりすごい人です。

記念照片在成功大學【台南調査記5】

2005-03-09 | 媽祖と研究
台南では成功大學も訪問しました。ここの歴史系教授の石萬壽先生は、早くから台湾の歴史古蹟文物を調査して、その意義を主張されてきました。媽祖にかんしても好著『台湾的媽祖信仰』のほか、多くの研究があります。

今回は持参した日本の古媽祖像を写真を見ていただきながら、石先生の年代識別方法について、詳しいレクチャーを受けました。台湾の媽祖像をほとんど見ている石先生の意見は重みがあります。

石先生の若い頃は、中華民国の國史は「中国史」であり、台湾の歴史は教えることが許されませんでした。大學で台湾史の講義をはじめた石先生は、3年間も「要注意人物」として警察の監視を受けたそうです。

写真は石先生と調査団の日本人メンバーです。マルチな台南文化人の石先生は、台湾の植物志などにも造詣が深く、詩文や写真もたしなみます。新春用に自ら撮影した白梅の写真に自作の詩を付したパネルが研究室にかざってありました。詩の中にお嬢さんの名前と同じ「清香」の句を見つけた武田団長は大喜びです。

大天后宮的龍目井 〔媽祖和井戸物語1〕

2005-03-07 | 媽祖と研究
この大天后宮の北側の観音殿の前に「龍目井」と呼ばれる古井戸があります。

傍らに立っている由緒札によれば「この井戸は南明の永暦18年(西暦1664年)に、寧靖王府の井戸として掘られた。もとは二つの汲み口があったので「龍目井」という。現在に至るまで300年余り、水は枯れたことがなく、水質は清徹で夏は冷たく冬は暖かい」 とのことです。

南明(鄭氏政権)時代はここは海岸に面した港でしたが、海に面していればどこでも港になったわけではありません。港の成立条件に航海の必須な水の存在があります。しかも井戸があればどこでもいいわけではありません。良港とよばれる港には必ず、塩からくなく腐りにくい名水・名泉があるものす。

この井戸ももしかしたら寧靖王府創建以前から、港の名水として船乗りたちに知られていたのかもしれません。隣にあるオランダ人のプロビンシャ城にも有名な井戸があることからすると、この一帯はもともと良い水の得られる場所だったから、寧靖王府がつくられたのかもしれません。

由緒札は続けて次のようなエピソードを紹介しています。「民国54年(西暦1965年)に井戸の水が突然涸れたことがあった。このとき三媽の鳳冠の珠璃が三日間揺れ動いたので、占いで聖意を仰いだ結果、井戸を浚うことになった。浚うとまた水が途切れることなく湧き出した。これを見て賞賛しない者は無く、奇瑞と称して争って聖水をもとめ、或いは薬を溶くのに利用した」。

小生は媽祖と井戸は関わりが深いと考えていますが、その話はおいおい開陳することにしましょう。明日はまた鹿港という古い港にいくのでブログはお休みです。

赤嵌樓的清代軍工廠石碑【台南調査記4】

2005-03-06 | 媽祖と研究
大天后宮から道路を隔てて赤嵌樓があります。オランダ人が築いた普羅民遮(プロビンシャ)城の跡で、基礎部分には当時の煉瓦積みが残っています。

鄭氏政権時代以降は紅毛樓と呼ばれ、武器庫として再利用され、清代後期には楼閣が整備されて文教の中心になりました。植民地時代は陸軍病院、学校、歴史館などに利用され、光復後は史跡として整備されました。

建物の周囲には市内各所から石碑が集められ、碑林の一つとして整備が進んでいます。石碑のなかに軍工廠(兵器工場)を刻んだものがあります。乾隆42(1777)年のものですが、下方に造船所や軍港の様子が描かれている大変貴重なものです。

【本のハンターの皆さんへ】赤嵌樓の販売所は台南の文化歴史の文献がけっこう揃っています。

大天后宮大媽的脚是很大了【台南調査記3】

2005-03-06 | 媽祖と研究
鄭氏政権を倒した清朝が創建した大天后宮です。3年前に来たときは建物が修復中で足場に覆われていたのですが、今回は全貌を見ることが出来ました。

しかし、以前書いたように、正殿正面の大媽は修復中で黄色の幕に覆われ、顔を拝むことはできません。その代わり、普段は見えない下半身を覗くことができました。

写真は大媽のひざから下ですが、修理用の脚立と比べても、相当大きいにことが見て取れます。

大天后宮の脇を武廟のほうへ通り抜ける路次は、最近、占い師が集まる「占い小路」として有名だそうです。

台南市天后里里長宅【台南調査記2】

2005-03-06 | 媽祖と研究
3月3日から5日まで媽祖調査で台南にいってきました。しばらくこの調査のことを紹介します。

写真の天后里とは、台南の大天后宮周辺の行政区画で、ここはその里長さんのお宅です。実は旧市街地をブラブラしていたときに神仏像を売っている店舗を発見し、立ち寄ったのが偶然にもこのお宅でした。

鄭成功や観音などにまざって媽祖ももちろんあります。廟にまつられている媽祖は、現在台南と高雄に製作者がいるそうですが、娘さんの話によると、ここのは個人向けで、最近は大陸で注文生産しているものが多いとのこと。

街路名は新美街。大天后宮と開基天后宮を結ぶ商店街ですが、他にも線香や紙銭を扱う店が多く、門前町のような場所です。

我正在台南【台南調査記1】

2005-03-04 | 媽祖と研究
一昨日から台南で調査中です。

写真は飛行機からみた台南市街。真ん中に見えるのは台南運河で左上は安平地区。その上にひろがるのが以前は海面だった養殖池です。大天后宮などは画面右下ぎりぎりのあたりでしょうか? 300年前は、この写真のほとんどは「台江」という内海でした。

ということで、台北に戻ったらブログを再開します。

明代壁画的媽祖是很漂亮

2005-03-01 | 媽祖と研究
天津の近く河西省石家庄の毘盧寺の壁画中に描かれていた天妃(媽祖)です。16世紀前半の嘉靖年間の作品だそうですが、500年近くも経っているとは思えないほど鮮やかな色彩です。特に両袖の赤い色が目立ちますが「朱衣」は、媽祖のトレードマークでもあります。

居白湖而鯨海之濱、服朱衣而護鷄林之使(白湖の廟に居ながら大海の果てを鎮め、朱衣を身につけて鷄林の使者を護る)。これは南宋時代に媽祖が夫人から妃に加爵(ランクアップ)され時に出された皇帝の勅の一節です(①)。

鷄林(=高麗)に派遣された中国使節が洋上で大風に遭った時に(②)、船を救うために現れた媽祖が、赤い衣を着ていたことを述べています。これ以降、霊験説話に登場する媽祖は朱衣を着ていることが多くなりました。

【同業マニアのための注】①この勅を作文したのはあの「攻媿集」の樓鑰です。②この遭難した使節は「宣和奉使高麗圖經」の時の連中ということになっています。

我邂逅媽祖研究的同志

2005-02-28 | 媽祖と研究
このところ食生活が充実しています。一昨日は台南芸術大学で仏教美術史を教えている潘さんとランチ、昨日は台北近郊の桃園縣にある銘傳大学で日本語を教えている横田くんと晩餐です。

横田くんは日本中世の説話文学の研究者ですが、再会を祝ってビールで乾杯の後「最近こんなことをやっているです」と渡してくれた論文抜刷のタイトルをみて、思わず声をあげました。

小生が最近、媽祖を研究していることを彼も知らなかったので、お互いにびっくり。ともかく女神のお引き合わせに感謝しなくてはと、急いで小姐に紹興酒の燗を頼みます。前日も潘さんの同僚が媽祖神像を研究していることが判って、珈琲で乾杯したばかりでした。

彼によれば、太平洋戦争中に爆撃にきた連合軍機が、雲間に現れた媽祖を見て引き返したなど、台湾では近年も次々と媽祖説話が生成しているそうです。共通の話題で箸も杯も、どんどん進みます。4月から母校に戻る彼と共同研究の約束をしたころには、2本目のボトルも空っぽに…。


宋代媽祖的風貌

2005-02-26 | 媽祖と研究
今回からときどき古い媽祖たちを紹介していきます。

昨年6月から台湾で開催された「媽祖文物特展」(天上聖母基金會主催)には、対岸の福建省甫田市博物館が所蔵する古媽祖や関係資料が陳列されましたが、目玉はこの「白湖廟媽祖像」でした。

甫田縣の湄洲島で信仰が生まれた媽祖は、1086年に縣内水陸要衝であった寧海江口の聖墩に祀られることで縣内に広く知られるようになります。次いで1155年に甫田縣城付近に創建されたのが白湖廟です。

行政府近郊に祀られたのは、士大夫層の支持を得てきたことのあらわれでした。彼らの力で翌年には朝廷から「靈惠夫人」に封じられ、その後も盛んに霊験が報告され称号が加封されていきます。

この媽祖像が当時のものだという決め手は「装い」でした。服飾が宋代「夫人」の服制に通じると判断されたようです。

白湖廟の神像は元末動乱期に同縣内の文峰に移されますが、文化大革命の時に行方不明になりました。1999年に信徒の家から発見されて文峰宮に戻り、昨年、海を渡っての一般公開となったそうです。

皮製台南圖

2005-02-25 | 媽祖と研究
かつてヨーロッパ人は台湾のことを「Formosa(麗しの島)」と呼びました。二年前に故宮博物館で開催された特別展「福爾摩沙(Formosa)」に台南の珍しい絵図が出展されました。

写真左がベルリン民族博物館のもの、右がメトロポリタン美術館のもので、どちらも皮製品です。

台南の府城が城柵で囲まれたのが1791年のことなので、左はそれ以前、右はそれ以降の様子を描いていると考えられますが、それ以外のことはまだよくわかっていないそうです。今後の研究が待たれる文化遺産です。

海岸線變化和媽祖廟 《台湾媽祖史10》

2005-02-24 | 媽祖と研究
左から17世紀初頭、中葉頃、後半の地図に描かれた台南です(だいたい30~40の年代差)。左図の娘媽宮は施琅創設の大天后宮で、海岸埠頭に面していました。

中図になると媽祖宮(大天后宮)の下(西側)に水仙宮と西門が建てられ、海岸埠頭はその西に移動します。

右図ではさらに埋め立てが進んでいます。西門の下(西側)にある廟は風神廟で、現在の大天后宮より400~500m離れています。福康安が海安宮を建てるのはこの図の10年ほど後になりますが、ちょうどこの風神廟のあたりのようです。

はじめは埠頭に面していた媽祖廟が埋め立てで海から遠のくと、また新しい媽祖廟が埠頭に設置されていくのですね。

台南海安宮和鹿港新祖宮 《台湾媽祖史9》

2005-02-24 | 媽祖と研究
清朝の統治時代にも台湾では反清蜂起がしばしばありました。1786~88年の林爽文たちの蜂起は大変規模の大きいものであり、清朝は福康安を大将軍に任じて大軍を派遣しようやく鎮圧しました。

故宮博物館にある12幅の銅版画「平定林爽文戦役圖」は、清朝がこの戦いを記念するため作成したもので、写真は福康安の大船団が台湾に上陸する時の様子です。

このときに天后聖母(媽祖)の神佑があったとして、平定後に福康安は上陸地の鹿港(彰化縣)に新しい天后宮(新祖宮)を創建するとともに、府城のあった台南の埠頭付近にも新たに媽祖を迎えて海安宮を建立します。

台南 媽祖楼 《台湾媽祖史8》

2005-02-22 | 媽祖と研究
乾隆年間(18世紀後半)の台湾地図。紅毛樓の右の媽祖宮(大天后宮)とは別に、水門近くに「媽祖耬」がみえます。1752年の「府城図」にも載っているので18世紀前半の創設と考えられます。今もありますが古い媽祖像はないようです。でも次のような興味深い伝承が残っています。

ある商人が湄洲島媽祖廟から持ち帰った香火を船廠(造船所)の楼閣に灯した。商人が去った後もその火は消えることなく光をはなち続け、入港する船が大いに助かったので、その霊験に感じた里民がここに媽祖を祀る廟を建立したのが起こりである。

現在も宮や廟ではなく樓と呼ばれているのは、このような灯台の機能があったことと関係するのかもしれません。媽祖が霊火をともして船をたすける話や、港の近くの媽祖廟(日本では天妃神社)が灯台の役目をはたした例は、中国にも日本にもあります。