昭和20年、8月2日富山市大空襲

2024-08-02 | 歴史、

6月に毎年自治体から来る高齢者検診の一部を受診していました。

いつも大体問題なしで通過しているので、結果を聞きに行ったのが7月半ば過ぎになっていました。

いつもの血圧の薬(アダラート)を処方して戴きに行ったのですが、いつもと違う先生から

いきなり「肺のレントゲンが要精密検査になっているので、紹介状を書きますから総合病院に

行って下さい。」といわれて予期せぬことで戸惑ってしまいました。右肺の下方に小さな

塊のようなモノがあるそうでした。

「手術なんかになったらどうしよう」などと急に目の前に黒い雲が降りてきたような気持ちになり

呼吸器内科の予約をとって、CT検査を受けました。結果、担当医は直ぐに「悪いモノではありません。

過去に咳ぜんそくなどが長引いた時の痕跡のようなものです。心配入りません。」と診断して

下さりホッと一安心しました。最近益々作業が鈍くなりやり残していることが山積しています。

79年前の8月2日未明の富山市街大空襲のことを思い出しています。

↓大宅壮一さんのご親戚の方が記録された当時の空襲実体験の記録本です。

私は隣町の小杉町で5歳の時にこの恐ろしい空襲の様子を体験しました。

20年の4月ごろまでは広島の今の爆心地近くに住んでいたのですが、

母が7月に出産を控えていて頼る人もいないし、富山市と高岡市の中間にある、小杉町の

母の実家に先ず母子3人で疎開しました。父は7月初め頃に高岡に転勤してきたように思います。

7月10日に弟達がそこで生まれました。1人かと思ったら2人!双子で伯母達が駆けずり回っていました。

月満ちて生まれたようでしたが物資のない折、2人分の衣類等用意していなかったと思います。

夏でしたからなんとかなったのでしょう。

(お米もミルクも配給制で飢餓の時代に生まれても2人とも来年は傘寿を迎えられそうです。)

その22日後、8月2日の夜半、私はもの凄い飛行機の爆音と閃光で目を覚ましました。

2時間、閃光と爆音と地響きが続きましたが、あの空襲が一般市民も標的にした

どれだけ惨いものであったを知ったのはずっと後のことでした。

2時間の空襲で焼夷弾50万発が投下され、富山市内の99%が消失したということでした。

死者3000人と記されていますが、亡くなられた方はもっと多く上まわると思います。

ウクライナやガザの子供達も未だにこの様な怖い体験をしているのでしょう。

80代半ばにになりますが、何かにつけて今の生活のベースにあるのは子供の頃の生活体験です。