語学は「語楽」--英語を楽しく学びましょう

英語の学習をしていて、「おや?」と思われる点について、みんなで考えてみたいと思います。

かねてからの懸案事項(その5)

2012-03-15 12:23:28 | 英語の学習と研究

 ニューヨーク市は国連本部。1971年10月24日、94歳という高齢のパブロ・カザルスは語り始めた。

 「これから短いカタルーニャの民謡『鳥の歌』を弾きます。私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちは、Peace, peace, peace!と鳴きながら飛んでいるのです。」

 彼は右手を高く挙げて、鳥が飛ぶように動かしながら、Peace, Peace!と繰り返した。
 静まり返った会場に流れた『鳥の歌』。その感動をことばで表現するのは難しい。しいて言えば、巨匠の人生と思想がこの短い曲に凝縮されて、聴く者の心を揺すぶったということだろうか。(井上頼豊:『回想のカザルス』(新日本新書)より)

 ご存じ、チェロの巨匠パブロ・カザルスである。この曲はチェロ一台だけで演奏されるが、何とも哀しく、聴く者の心に静かな感動を呼び起こす。平和を祈るカザルスの強い思い入れが曲全体にみなぎっている。聴くたびごとに新たな解釈を許容する名演だ。フランコ政権の独裁に対する抗議、泥沼化するベトナム戦争に対する哀しみ、人権と平和を強く希った老演奏家の毅然とした生き方がこの演奏の背景にはある。
 彼はA. シュワイツァー たちと一緒になって平和運動に積極的に取り組んだ人物としても有名であるが、「名品」の発掘にかけても類稀なる才能があった。
 先日触れたバッハの『無伴奏』、正確には、『無伴奏チェロ組曲第1番ト長調』BWV1007は、20世紀前半までは殆ど忘れられていた。せいぜい、練習曲として扱われる程度だったらしい。
 齢わずか13歳のパブロ少年は、マドリッドの譜面屋で古びた譜面を見つけた。その譜面にただならぬものを感じた少年は約10年にわたり研鑽を積み、満を持して開かれた演奏会で『無伴奏』を披露した。この演奏会は世界に衝撃を与え、爾来『無伴奏』が日の目を見ることになった。
 『無伴奏』も基本的にはチェロ一台で演奏される。音を重ねて弾く重音奏などにより多彩な表情を見せる重厚な作品である。
 部屋を真っ暗にして、ステレオの音量を若干高めにして、無心に聴き入ってご覧。何かが変わるから。

 この稿さらに続く。

 


かねてからの懸案事項(その4)

2012-03-15 07:21:19 | 英語の学習と研究

 高校時代は堀辰夫の小説にひかれた時期があった。作品中のバレリーの詩の一節である「風立ちぬ、いざ生きめやも」などと口ずさみながら、自分が死ぬときは肺結核で、長野県のような空気が清澄なところにあるサナトリウムで「綺麗に」死にたいと友人たちに語っていた時期がある。もちろん、同じ結核でも、正岡子規のような壮絶な死に方はいやだった。死にかたを夢想する高校生など、担任としては絶対もちたくない、ご免こうむりたい生徒であるが、そんな高校生だった。
 後年、アメリカ映画の『ゴッド・ファーザー』(パート3)の終りのほうの場面で、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが、南欧(おそらくイタリア)の古ぼけた家の庭で、太陽の光をいっぱいに浴びながら、一人椅子から転げ落ちるようにして死んでいく様子を見て、「これだ!これしかない!」と思った。映画評論家によると、マイケルの死に方については様々な分析・評論があるらしいが、私はこの場面を見てこんな風に死にたいと思った。当時、そう思った理由の一つには、イタリアの気候を知っていたこととBGMが魅力的だったことが挙げられるだろう。
 イタリアには仕事も含めて夏に1回、冬に2回の合計3回行っているが、いつ行っても陽光がまぶしく、また空気が乾燥していた。日本のような湿潤な気候とは全然異なり、明るくからりとしているのだ。当然イタリアにいれば「結核で、綺麗に死にたい」などとは決して考えることはなかっただろう。堀辰夫の文学は日本だからこそ成立するわけで、イタリアでは通用しない。文学の成立要素に「風土」は欠かせない。その意味で風土を無視するニュー・クリティシズムの考え方は間違っていると自信を持って断言できる。
 BGMとして流れていた音楽は『カヴァレリア・ルスチカーナ』(Cavalleria Rusticana)というイタリアの小説家ジョヴァンニ・ヴェルガの同名の戯曲に、ピエトロ・マスカーニが作曲したオペラ曲のうちの間奏曲である。ゆったりとしたリズムでバイオリンが切なくも哀しく歌い上げるサビの中でマイケルは枯れ木が朽ち果てるように死んで行くのである。私はこの映画をロンドンのマーブルアーチにあるオデオンだったかギデオンだったか名前は不確かであるがそんな名前の映画館で見た。なぜか、スクリーン画面の光景と音楽があまりにもマッチしすぎるので、滂沱の涙を流しながら見ていた。

 この稿さらに続く。