語学は「語楽」--英語を楽しく学びましょう

英語の学習をしていて、「おや?」と思われる点について、みんなで考えてみたいと思います。

日本における英語教育の争点(=「問題」ではない)の本質はここにある:「古典主義」 対 「浪漫主義」

2013-11-07 22:21:35 | 英語の学習と研究

本日11月7日、◎◎英語教育研究大会で運営委員として◎◎市民会館へ行ってきた。6年に1度回ってくる、少なくとも昭和から平成の現在に至るまで、逃げたかったのに逃げられなかった仕事だ。若い頃は、先輩教師にもっと勉強しろとか「~」という本を読めとか言うありがたい励ましや、授業に直結するちょっとした「小技」などを教えてもらい、日常の授業にすぐに取り入れる事のできる実に具体的なアドバイスをしてくださる「怖い」先生がいたものである。

大会会長は新学習指導要領の本質を知っているのか知らないのかはともかく(個人的にも彼をよく知っているので詳らかにはしないが)、これはとんでもないものであることは以前触れたとおり。その本質を見事に明快に語ってくれたのが本日のゲスト、◎◎なる講演者だった(文科側)。氏は語る:「日本人英語であってもOK。通じればいいのだ。Fluencyが優先する。あまりaccuracyに拘るな。」

ここに新学習指導要領の問題点が浮き彫りにされた。正確さはどうでもよい、何か英語「らしい」ものを話していればよしとするのが新学習指導要領の本質らしい。通じればいいというが、本当に「通じる」英語かどうかを誰が判断するのだ。氏は更に続ける:「教師の英語は日本人の英語で構わない。それを生徒がモデルにすれば良いのだ」。ここまで来て怒りがこみ上げ、何のためのこれまでの英語教育であったのかと茶歩台があればすぐにでもひっくり返したい衝動に駆られたのである。以前にも触れたことがあるが、新学習指導要領を信奉する教員の英語の質の劣化は甚だしい。その英語もどきを使いながら言語活動とやらを生徒にさせるわけであるが、なんとも、草庭におけるおままごとであればまだ純朴性があるが、嫌味・違和感・ヘンといった、いや、はっきり言えば、吐き気がする。

文科のお抱え学者(?)というのはどこか狂っている。以前セルハイの相談役的存在の東京都の▲先生(女性)にいたっては教員時代には校務分掌をすべてはずされていた(校長特命)。少ない授業と沢山の講演に専念できる公立高校教員て何、と突っ込みたくなる。公務員は全体の奉仕者であり、公立高校の教員は目の前の生徒に責任を負っている。この基本原則が最近ないがしろにされているのではないか。

英語教師30有余年で退職まであと一歩の所まで来た。上述のことを冷静に見れば、これは思潮史的には、Accuracy(正確さ=「形式」)重視は古典主義、Fluency(流暢さ・楽しさ=「脱形式・自由」)重視は浪漫主義といった対立構造が浮き彫りにされる。美術史・英文学史の中では視覚的・感覚的に両者を区別することができるのだが、新学習指導要が説く理念とは本質的には過ちを認めても良いとする浪漫主義であり、絶対的性善説、日本人英語でもOKよということで、戦後の「パ◎パ◎」(=進駐軍兵士を相手にする慰安婦)英語と同質の英語のススメにほかならないのである。

ここから見えてくるのは、誇張・言い過ぎはあるかもしれないが、新学習指導要領に決定的に欠落しているのは「つとめ強いる」という意味での「勉強」の概念と、外国語語学習得は長期間に渡る訓練が必要だというごくごく当たり前の「常識」である。「脱ゆとり」に激しくシフトしているのは高1の英語教科書を見ればすぐにわかる(一方で語彙の急激な増大!)が、学ぶべき語彙数を増やすということと何でもありの英語発話を許すことの間には論理的な乖離があるのではないかと思うのだ。つまり、文科はひょっとしたら英語教育の実質的方向性を失ってしまっているのではないかと私は危惧するのである。司令塔を失ってしまったのか、教科書検定の杜撰さに見られるように、確たる「芯」がなくなってしまったのか。ちなみに私は個人的には教科書検定には反対なので、「民間」出版社の(ほとんどが外国資本であるが)小説・エッセイの類を大量に読ませたい。

所詮『~指導要領』ごときに法的拘束性を「認める」(=強制的にいつの日にか決まってしまった)こと自体、おかしな事なのだ。憲法という最上位法規の下位にあるものがいつの間にか「法的拘束力」を得た事自体がこの国の矛盾を映し出している。あるいはこれは幻想である、と誰かが言っても広島県立世羅高等学校の校長先生が亡くなったことは事実であるし、現在日本のほとんど(あるいは「すべての高校」において)儀式の際に君が代・日の丸は斉唱・掲揚されている。この国を愛すればこそ矛盾に悩むのである。つまり、かつての右翼・左翼の問題としてでなく、当たり前の問題として。