『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

長谷川秀一(はせがはひでかず)[3/4]

2018-10-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
長谷川秀一(はせがはひでかず)[3/4]

〔現代仮名遣い〕はせがわひでかず


1582年5月安土惣見寺で舞と能を興行したとき、

    舞の幸若義重は出来が良かったが、能

    の梅若家久の出来が悪かったため、菅

    屋長頼・長谷川秀一を使いとして「能

    の後に舞を舞うのは正式ではないがも

    う一度舞を見たい」という信長の要望

    を伝える。

1582年5月信長は惟住長秀・堀秀政・長谷川秀

    一・菅屋長頼に徳川家康一行への振る

    舞いの準備を命じる。江雲寺御殿での

    接待には徳川家康・穴山信君・石川数

    正・酒井忠次らがよばれ、信長自ら御

    膳を運ぶ。その後一行を安土へ呼び、

    帷子をくだす。

1582年5月信長は徳川家康一行に京都・大阪・

    奈良・堺の見物を勧め、長谷川秀一を

    同行させる。また織田信澄・惟住長秀

    には大阪での接待を命じ、両人は堺へ

    参着する。


 ※「能の後に舞を舞うのは正式ではないが・・」

  と言ったところは、意外と信長公は古今の

  礼法に通じています。また家康一行の食事

  の時に信長公が御膳を運んだのは、用心深

  い家康にたいして「毒など入ってはおらぬ!」

  ということを示したものと思います。


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