長谷川秀一(はせがはひでかず)[3/4]
〔現代仮名遣い〕はせがわひでかず
1582年5月安土惣見寺で舞と能を興行したとき、
舞の幸若義重は出来が良かったが、能
の梅若家久の出来が悪かったため、菅
屋長頼・長谷川秀一を使いとして「能
の後に舞を舞うのは正式ではないがも
う一度舞を見たい」という信長の要望
を伝える。
1582年5月信長は惟住長秀・堀秀政・長谷川秀
一・菅屋長頼に徳川家康一行への振る
舞いの準備を命じる。江雲寺御殿での
接待には徳川家康・穴山信君・石川数
正・酒井忠次らがよばれ、信長自ら御
膳を運ぶ。その後一行を安土へ呼び、
帷子をくだす。
1582年5月信長は徳川家康一行に京都・大阪・
奈良・堺の見物を勧め、長谷川秀一を
同行させる。また織田信澄・惟住長秀
には大阪での接待を命じ、両人は堺へ
参着する。
※「能の後に舞を舞うのは正式ではないが・・」
と言ったところは、意外と信長公は古今の
礼法に通じています。また家康一行の食事
の時に信長公が御膳を運んだのは、用心深
い家康にたいして「毒など入ってはおらぬ!」
ということを示したものと思います。
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〔現代仮名遣い〕はせがわひでかず
1582年5月安土惣見寺で舞と能を興行したとき、
舞の幸若義重は出来が良かったが、能
の梅若家久の出来が悪かったため、菅
屋長頼・長谷川秀一を使いとして「能
の後に舞を舞うのは正式ではないがも
う一度舞を見たい」という信長の要望
を伝える。
1582年5月信長は惟住長秀・堀秀政・長谷川秀
一・菅屋長頼に徳川家康一行への振る
舞いの準備を命じる。江雲寺御殿での
接待には徳川家康・穴山信君・石川数
正・酒井忠次らがよばれ、信長自ら御
膳を運ぶ。その後一行を安土へ呼び、
帷子をくだす。
1582年5月信長は徳川家康一行に京都・大阪・
奈良・堺の見物を勧め、長谷川秀一を
同行させる。また織田信澄・惟住長秀
には大阪での接待を命じ、両人は堺へ
参着する。
※「能の後に舞を舞うのは正式ではないが・・」
と言ったところは、意外と信長公は古今の
礼法に通じています。また家康一行の食事
の時に信長公が御膳を運んだのは、用心深
い家康にたいして「毒など入ってはおらぬ!」
ということを示したものと思います。
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