1月13日付朝日新聞の「耕論」に作家の高橋源一郎と音楽評論家の渋谷陽一との対話「今、論じることとは」が掲載されていた。メディアや言葉をめぐる二人の発言に共感するところが多かったので、いくつかランダムに拾ってみた。発言の脈絡については本紙を参照していただきたい。
リベラルは「いい加減」!
高橋:米国では「いい加減」という悪いニュアンスがあるけれど、ぼくはリベラルは逆に「いい加減」でこそいいと思う。吉本隆明さんの対談本に「だいたいで、いいんじゃない。」というのがあります。・・・あらゆる論争は厳密さを求めて戦ってきたのに、「だいたいで、いいんじゃない」というのはまさにリベラル。
高橋:(憲法9条と自衛隊との矛盾について)60年間、矛盾はいけない、どうするか、を議論してきた。でも「矛盾しているからいいんだ、だから日本は戦争できないんだ」という論が内田樹さんから出た。60年の論議が全部パーになる論理です。ぼくは、真の意味で原理的な思考は「リベラル」で現実的だと思っています。
(厳密さを追い求める人のまなざしにやさしさを感じることはない。割り切れないものを割り切ろうとする姿勢には暴力性が宿っていると感じてしまう。可能な限り情報を集めて考えつくしたつもりでも、いつも何かを置き去りにしてきたのではないかと気にかかる。問題を解決しても、すぐに「本当にこれでよかったのか」と思ってしまう。そもそも人間の所業は不条理で矛盾に満ちていて論理で解明しつくそうとすることには無理がある。そう考えることから出発してみてはどうだろう。だからこそ一時の結論に安住しないで、絶え間ない思索と言語化をつづけているのだ。そして、ある程度まで考え抜いたら、「まあ、いいか。今日はこれぐらいにしといたろ」と、ひと休みしてみよう。ふっと力を抜いて非合理な自分に身を任せていると、自分がここに存在することの幸せがふつふつと湧き上がってくる。そのうちに、どこからともなく元気(統一感)がみなぎってくるから不思議だ。)
「リアル」とは?
高橋:リアルということの意味の一つは、具体的ということ。それは自分の肉体と頭脳を通して考えることだと思います。自分にとって具体的でないものは、他人にとっても具体的なわけがないし、伝わらない。
ことば
高橋:権力がわかりやすいことばを使ってきたときは注意しないといけない。それなのに、権力と戦う側が相変わらずの政治的な方言を使っていたんでは負けてしまう。対抗できる言葉を持っていないと、メディアは権力にやられてしまうんじゃないか。
渋谷:古い体制へのアレルギーの気持ちを持っている人間はたくさんいるはずなのに、それが出てこない。言語化できないでいる。
プロとアマ
高橋:プロがその権力を維持できたのは、その手段や情報を独占していたからです。しかし、その独占は崩れ始めた。それは論壇やジャーナリズム、あるいは文学といったものだけではありません。その中で、なおかつプロの側がプロであろうとするなら、アマが発信しているものを超えるものでなければならない。
活字媒体の未来
高橋:インターネットだって表現の手段は言葉なんですから。むしろ、ネット時代を、言葉への依存度は深まっている。たとえば若者たちが依存している「メール」です。一年中手紙を書いているのと同じです。かつては、「電子時代は文字から離れる」と思われていました。けれど、それは誤解でした。言葉で他者と交通したいという欲望は衰えていないというか、より激しくなっています。
渋谷:・・・ライブはネットでは手に入らない。音楽だって、紙媒体だって、コンテンツさえあればお金になるし、やれることは、いっぱいあります。
(メディアの選択は一人ひとりに任されるべきである。豊かな環境を整えることは大切だが、教育という名の下に大人が描く偏狭な世界観に子どもたちを押し込めようとしてはならない。今も昔も子どもや若者の読書やメディア環境を危惧する大人がいる。かつてはマンガやテレビに向けられた批判が、最近はゲームや携帯に向けられている。だが印刷メディアはなくなるどころか、みごとに共存しているではないか。そのバランスは、紙(森林)やレアメタルなど資源の問題とも絡めて考えなければならないだろう。技術革新によってもたらされる新しいメディアの可能性に向き合うことも必要だ。心がけなければならないことは、商業主義にとらわれたり、ふりまわされたりしないことである。過去の経験をもとに現在を評価し、未知の世界に向かって正気で生きるために、私たち一人ひとりが自分の力で的確な情報を見きわめ、手に入れる術を持つことが求められている。)
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