幹事さんのひとりごと

秋田市 土崎港 壱騎町一区 壹友会 非公式ブログ 語ったもん勝ち

神輿

2013年03月13日 | 土崎港祭り
奉賛会副会長の講話として登場したことだが、港祭りにおいての
神輿渡御のこと。
現在の神輿は20日の本祭りにおいて、統前町を中心に土崎を周って
穀保町のお旅所に行く。
そこで神事が行われ、巫女による浦安の舞が奉納される。
その後、神輿は相染のお旅所に向かい、そこでも神事が行われる(?)
(相染に行ってやにやるのかは見たこともないし・・)
相染に向かった神輿の後を曳山が随行するというのが土崎湊祭りにおける
御幸曳山と呼ばれるもの。

本来であれば、朝から神輿が土崎を周る際に、各町内の曳山はその神輿に
随行するのが神事としての形式なんだろうね。
台数が多すぎるし、時間短縮のため、曳山は先に穀保町で神輿を出迎える
形式になっちゃってる。

神輿が統前町を中心に周ったとき、そこの住民がほとんど出迎えないと。

まぁじじばばならともかく、統前は曳山が出てるんで曳山に携わってる
方々は穀保町に行ってるからほとんど家に居ないべさ。

曳山で猿田彦を出迎え、神輿を出迎え、氏子総代たちを出迎える。
その氏子総代たちがタクシーから手を振ってるって何様だよというクレーム
があって、今じゃ穀保町に入る前に車を降りるようになった。

神輿は軽トラの荷台かよと。

そこで最近じゃ若い連中で穀保町だけでも神輿を担ぐよになった。

「わっしょい、わっしょい」

まったく元気のない神輿担ぎだな。
それに神輿を「わっしょい」と担ぐのはおかしい。
「和上同慶」「和を背負う」「和と一緒」「輪を背負う」という意味が
語源とされるようだけど、それは江戸の掛け声。
「そいや」「えっさ」「よいさ」「ほいさ」などいろん掛け声が各地で
あるんだし、土崎の曳山は「じょやさ」の掛け声と言われている。
だったら神輿だって「じょやさ」が本スジじゃねぇの?

その神輿、神明社遷移四百年記念に当たり、土崎を担いで周られないかと。
昔は飯島衆が担いでたけど、土崎で担げないかと。

をいをい・・・

そもそも、神輿を担ぐのは氏子の役目のはず。
土崎神明社の氏子は土崎の住民であるはずだよな。
飯島の連中が土崎の神輿を担ぐこと自体がおかしなことだったんだべ。

なぜ飯島の連中が担いだのか。

たぶん、土崎の連中は曳山の綱についてるもの。
神輿どころでねぇべ。
土崎の大棚の財閥が個人で曳山を出させ、店子や使用人に曳山を曳かせた
という歴史、下っ端の使用人は飯島に住まわせたことから、下っ端が
神輿を担いだんじゃねぇの?

今回は曳山の出ない町内に担いでもらおうかと。

なんでやねん。

いつもなんかやる話が出ると「曳山の出ないちょうないに」って。
曳山運行の交通整理だのなにかの準備要員だの。
毎年曳山出してるところは関係ないってことか?
曳山を出したくないから出さないんじゃねぇし。
一番の出せない理由は予算と人員不足。
人手がなくて曳山出せない町内に、なにかの要員として人手を出せって
おかしいべ。
曳山を出す町内が曳山で楽しんでるときに出せない町内はそのサポートしろと?

だからさぁ。

せっかく統前町という10年に一度の当番制があるんだから、統前は祭りを
仕切る町内として、曳山を出さないで祭り全体を仕切ればどうよ。
昔のとは違って、曳山を協賛して出してくださいと統前がお願いする時代じゃない。
逆に多すぎて時間がかかるから台数は少なくしたいというのが統前の本音だろう。

神輿担ぎを曳山の出ない町内にお願いしようかと。
日当出して・・

ん?
日当出るのか?
請け負っちゃうかな?

って、若い力が必要なときに「神明社青年会」という話が出ないのはなぜだ?


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
置山だ (夫婦岩)
2013-03-13 09:37:35
なんだと騒ぐ前に…ってことですか。

ただ、飯島衆も祭り好きな奴が多いんで、
神輿担がせようっても集めることは可能
じゃないか?と。

あっ、その"若い力"が協力してくれれば
ですけど…
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え~と (るーと356)
2013-03-13 10:22:10
神輿って
ふだん神社にいる神様が外に出て自分が護るべき街をめぐるための御輿で
それはやっぱり町内の人が担がないと意味がないような気がするのは
私だけなんでしょうか?
あと、神様はアマテラスだから
女性が触ってはいけないと言われてますよね
最近はいろんなお祭りで女性の担ぎ手ってもてはやされてますけど、
アマテラスって嫉妬深いって言われてるしよくないんでねぇ~のとか思いつつ
あの神輿は飾りで神様は乗ってないのか??とか・・
私が現在住んでるところではそのあたりはかなりきびしいです
鎮座してるときでも指一本触れるなと・・・


まぁ・・そのくらい
本来お神輿の存在ってのは大事なんだと思いますけど・・・
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御神輿を担いで (雲板)
2013-03-13 14:34:23
って、そんなこと出来るわけがない
御神輿を担げたにしても、総代たちが歩けないんだから
それに昔は、穀保町の御旅所から新町の御旅所までの間だったんだろう?
新町の御旅所っても、現在の相染一区地内だったみたいだけど
あそこの床屋の向かい側のあたりのようで
相染の御旅所までなんかとんでもない アチコチの町内総代が辞めることに・・・

それ以前に、金のかかることはしねぇーんじゃ?
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四百年記念行事として (幹事)
2013-03-13 15:52:57
なにやら予算立てて金集める計画みたいだったよ。
町内に負担金あったかなぁ。
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Unknown (メゾット)
2013-03-13 18:50:03
5、6年に1度くらいの奉納町内にとっては理不尽な話ですよね 交通整理や準備要員なんて。

ただ、奉納を見送った町内で道路沿いに自町内の角灯篭
を組み立てて見物してた人達を見たことあるけど、あれもなんかしっくりこない気がします。
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なぬっ? (雲板)
2013-03-13 22:08:32
また金集めってかい?
やめてくれよな、町内負担金なんて
それでなくても、統前で金がかかるってのに
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事情を知らないんだべ (幹事)
2013-03-13 23:14:31
連続で出せない町内は、出す年には人手を集めるのに苦労する。
曳山が出ない年は人員が暇してるわけじゃないんだ。
人数が少ないから個人負担が大きい。
少人数で少予算というわけにもいかない。
かかるところはどこの町内も同じだし。
飲食費くらいしか削れるとっころがないんだよ。
それでも毎年出すのは不可能。
そんなじれったい思いを強いられてる町内に人数集めて
楽しんでる他町内の世話係をやれと?
よくそんなことが言えるもんだと。
各町内を代表して氏子総代が集まって交通整理でもやったらどうよ。
神事しかやることないんだろ?
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予算書 (幹事)
2013-03-14 00:26:12
神明社がなんぼ出すとか書いたやつがあったから、
あちこちに負担金出させるんじゃないかと。
しっかり見なかったからわかんないけど。
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飯島衆が担いだ由来です (お祭り大好き)
2013-07-23 22:46:40
なぜ飯島衆がみこしを担いだか、正確な、昔の、古老の話です。
そもそも、穀保町に船着場が出来るより前、安東家統治の時代、雄物川は、相染の光沼まで蛇行していて、そこが船着場であり、港町の中心は、飯島の穀丁だったそうです。
(土崎は、港町というより、城下の、武家の町で、だから、一騎町、や、二の堀、という町名も残っているのでしょう。)
当時は神明社はまだなく、飯島付近に日吉神社が鎮座し、湊の鎮守として、安東氏とみなと住民の崇敬を受けてい、飯島の村人が神輿渡御の担ぎ人として、奉仕していたそうです。
後に、佐竹氏により、日吉社は久保田、外町鎮守として、八橋に強制移動されましたが、その後も、飯島衆は、神輿や貴人の乗り物、または年貢、貢物の担ぎ人としての役目を負い、藩政期から、戦前まで、その名残で、神明社みこしの担ぎ人として、奉仕したとのことです。
飯島の人がみこしを担いでいたのは、土崎衆が山に夢中で人手不足になったのではなく、曳山という付属行事が始まる以前からの、しきたりだそうです。
土崎の祭りは、はるか昔から、土崎の方々が思っている以上に、土崎だけのものではなく、飯島や、近郷近在地区、さらには、県南沿岸部住民の祈りの対象となった、非常にスケールの大きいものだったそうです。
明治生まれの私の祖父も、幼いころその父につれられ、男鹿半島のわが集落から、三反帆の小船に乗り、土崎の湊まで、神明様におまいりにいったとのことです。
大正ごろの、祭の時期の湊は、能代や男鹿や由利本荘、果ては酒田からの参詣の小船で、すばらしい賑わいだったと、亡き祖父の談でした。
みなとの企業、秋田海陸の前身、中川汽船に入り、後、海陸の専務も勤めた、うちの物知り祖父さんの談です。(ちなみのその嫁、つまり私のばあさんは穀丁出身、その息子の嫁、つまり私の母は相染出身です。)
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ほほう (幹事)
2013-07-26 15:33:18
昔聞いた話によれば、曳山は町内単位ではなく、一般の庄屋や地主や寺でも出してたそうで。
その使用人に曳山を曳かせ、明治のころのでかい山車は倒れないように平行した小路から綱で引っ張ってたと。
その補助役をやらされてたのが飯島に住まわせてた使用人たちだったと。
土崎と直接関係ない飯島衆に神輿担がせたのかなと思ってた。
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