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秋田史まとめ8

2013年08月03日 | 暇人の無駄知識
久保田城

久保田藩初代藩主である佐竹義宣は秋田転封の際、はじめは安東氏(秋田氏
ともいい、佐竹氏と入れ替わるように常陸に転封)の居城出羽湊城に入城したが、
湊城は平城で防衛に向かない上に狭かった。
ゆえに、翌年には湊城の南東にある久保田神明山の地に新たな城を築城し、
慶長9年(1604年)の久保田城竣工と同時に久保田城を新たな本城と定めた。
また、築城と同時に城下町と徳川家康が推進していた主要道の整備も行っており、
他の藩に通じる主要道は1604年内に、また城下町と藩内の主要道は寛永7年
(1630年)頃に完成した。
久保田城は天守を持たず、かわりに櫓(やぐら)を設置した。
櫓とは矢倉、矢蔵、兵庫とも書かれ、城などに設けられた矢の保管倉庫兼発射場。
石垣もなく、代わりに土塁を当てている。
天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕
府への遠慮などが原因であると考えられている。
明治4年(1871年)、町名を久保田から秋田に改称した。
久保田の由来は千秋の山に囲まれた窪んだ地を表す窪田からきていると言われて
いる。

江戸時代以前は現在の千秋は神明山と呼ばれていた。
かつては安東氏配下の三浦氏(川尻氏)が城を構え、氏神(神明社)を奉っていた
ことから神明山としていた。
頂が3つ(大嶽山・小嶽山・光明山)ある様から三森山・三嶽山と呼ばれていた。
その三浦氏の城は「鎗留ノ城」「矢留ノ城」と呼ばれ、後に建てられた久保田城の
別名の由来になっている。
久保田城の築城にあたり、神明社は川尻村下浜へ移転。
三浦氏改め川尻氏として川尻総社神社が旧神明社に当たる。

1604年(慶長9年)窪田城本丸竣工。湊城を破却し窪田城を本城と定める。
1633年(寛永10年)から1645年(正保2年)にかけて窪田城から久保田城に改名。
1776年(安永5年)本町六丁目から出火し、穴門・西矢倉門(松下門)・東矢倉門
(長坂門)・表門・本丸御殿・出し御書院まで延焼。
1797年(寛政9年)本丸北方で出火し、櫓2棟、長屋2棟延べ61間、塀25間を焼失。
1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失。
市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の
官庁街へと変貌。
建造物としては、前述の大火を逃れかつ解体も移築もされなかった御物頭御番所
が現存し、1989年(平成元年)に本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)、2001年(平成13年)
本丸表門が再建されている。
現在、久保田城本丸のあった一帯は千秋公園となり、秋田県民会館や秋田市立
中央図書館明徳館、平野政吉美術館などが整備されている。
御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)は宝暦8年(1758年)から安永7年(1778年)
に建設されたと推定され、物頭と呼ばれた足軽の組頭が長坂門の開閉や登城者の
監視、城下町の警備や消火のための詰め所。


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